某書物のある壱頁より抜粋。

タ邊 樹予丸著「泥の中の骸(こいじのなかのむくろ)」

　何も無い庭の池にまぁるく膨らむ月が風に吹かれて揺らぐ。

黒を含んだ夜の中でも月の光は依然とその白を湛え風景を染める。

真っ暗闇のはずの視界が妙に眩しく感じるのもこのせいだろう

風情も何も無い荒れた質素な庭がやけに垢抜けて見えて

まるでいつも見ている庭とはまったく違った印象を受けた。

私は手を握り、縁側にただ座って外を眺めていた。

　遠くの方で得体も知れぬ生き物の鳴き声が聞こえる。耳を夜の静寂に澄ますと、

一遍無音とも思える夜の闇はあらゆる雑音で溢れかえっている。

肌の上を触りながら向こうの方へと抜ける風の音

小さな虫が蚊帳の外を喧しく飛び回る羽音

行灯の火が心ともなく揺れ燃ゆる音

空気が鼓動のように振動する音

泥が、膨らむ音。

　まるで煮詰まった鍋の中身のように沸沸と泥が膨らむ音が聞こえる。

　私は目を閉じ音に耳を傾ける。

時時聞こえてくるこの音は

遠慮がちに遠くの方に聞こえる時もあれば、耳を突くような轟音となって聞こえる時もある。

今は撓んで聞こえる。

今は夜という広い空間に反響して幾重にも聞こえている。

沸沸

沸沸と

泥が膨らむ音が聞こえる。

泥が私を覆いつくそうと膨らんでいる。

　泥は隙間なくぎゅうぎゅうと広がり、うすっぺらいこの身体に染みついていく。

指先に張り付いた泥がじわじわと爪の先に入り込み、なんだかとても不快になる

常に纏っていた物を無理矢理認識した途端私と言う存在は簡単にちいぽけなものとなり纏うものはもどかしく感じる。

私は思わず目を開け、己の手のひらを眺めた。

温い肌色のずんぐりとした指先がついた手が有る

あの骨を包んでいるとは思えない程、芋虫のような無骨で汚れた指先が有った。

　あの骨、そこで私はもう一度アノ骨を思い出す。

湿り気を含む柔らかな土饅頭と蕩け合う屍。

半分だけ身体を土壌に仕舞ったまま、はっきりとしない月明りに照らされ

いっそう頼りない輪郭でその骸は果てていた。

白く抜けた夜に更に白さを間抜けに含んだ骸は何故かとても滑稽で

これがあの人間の慣れ果てなのかと気づく事が暫く出来なかった。

こうなるともう男だったか、女だったかも分からず、侍も商人も農民も無い。

泥を洗えば人は皆、ただのうすっぺらなのだ。

どんなに綺麗な躯も、惨めな躯も、こうなってしまえば皆同じ。

目の前にあるただの骨になる、そう思うと少しばかり気が楽になった。

こうなれば、私も幸せになれるのだろうかと思った。

気づかば泥はまた沸沸と膨らみ始めていく。

口を塞ぎ、鼻を塞ぎ、目を塞ぎ、耳を塞ぐ。

泥が体中を覆っていく。

這い縋る手のように優しい仕草で隙間なく埋めようとする。

まるで私がそうしたように。

泥が私を覆いつくす。

湿気を含んだ夜の空気を吸い込みながら

掘り返した土の上に横たわった女のその上から丁寧に土を被せる。

手のひらで優しく撫でながら隙間の出来ないようにくすんだ肌色に土をかける

湿り気を帯び蕩ける土は爪の間に入り込む。皺の隙間や皮膚の網目にまで入り込む。

足の先から、腹の上、胸に、手の上に、首下

唇が埋まり、耳が埋まり、鼻が埋まり、目が埋まる

女はすっかり土に埋もれ、目の前から消えてしまった。

冷えた土が何も言わなくなる。

まるで何事も無かったかのように夜は静まり返る

私は何だかもどかしい気分になった。

泥と完璧なまでに混ざり合いながら

こんなくだらない思考を完全にやめた貴方が

私は少しだけ羨ましく思った。

　月が煌々と光を受け跳ね返す夜の下私は唯静かに己の手のひらを眺めていた。

土で少し汚れたこの手のひらを眺めて、もう一度泥が溜まる音を聞く、

泥はまさにはち切れんばかりにぐいぐいと私の身体を引き裂こうとする。

　私は愚鈍な動作で立ち上がり、足を引きずるようにして裏の丘を目指した。

饐えた夜の匂いが鼻孔に入り込む

敏感な夜の空気が震動し共鳴する

満月の夜の月光が身体を映し出す

大きな木の下で、雨が泥を掻き分けた痕に華奢な骸が佇んでいる。

『嗚呼。』

私は骸の前に座り込み、その頭蓋骨を泥で汚れた指先でそっと撫でた。

『………お前…。』

私は土を手のひらで集め、もう一度貴方の上に土をかける

数年前、同じようにまだ肉のついたままの貴方を埋めた時のように。

私の手で救った泥がお前の体を土で埋めていく。

少し湿った土が夜の外気で気持ち良い温度で手のひらに満ちていく

私はもう一度、土を掘り起こしその髑髏を埋めようとする。

ゆっくりと骨に土を載せ、軽く手で撫でるように泥をかける。

胸骨、肩甲骨、脊髄、手の骨が埋まる。

泥に覆われた先から少しづつ、骸は輪郭を得て綺麗な骨からただの女に戻っていく。

だらしなく土から這い出ている肌色は土で薄汚れている。

ゆるい曲線を描く乳房は、模様のようにまだらに赤く汚れていた。

その先に突き立てられた鋭利な刃物に、シミのように私の手形が付いている

盛り上がった土の先で残った頭蓋骨の空洞の瞳が私を射抜くように眺めている。

乾いた骨がじわじわと泥を吸い込み始める。

『なぜ、そふ嫌がる。』

額を撫でる。

確かに、確かにあの時、触れていた額と同じような気がする。

あの時。

お前は嫌だ嫌だと泣き叫び私に縋りつき、暴れて抵抗をした。

見苦しかった。これ以上貴方が余計な事で醜くなる事が許せなかった。

私はほとほと嫌気がさし、綺麗なまま土の中に納めてやりたかったのに

仕方なく苦渋を呑みこみその胸に刃物を突き立てた。

小さく収束する黒目に、私は吐き気がした。

でも、そんな瞳ももうただの空洞になってしまい

私を憐み蔑む事も、恐怖に怯え怒り狂う事もなくなり、

余計な物がなくなった貴方は、とても美しく愛おしかった。

『愛しているよ。』

私は泥を手のひらで壊れないように集める。

無数の生命を含んだ土をてのひらで掬い、生命の無くなったお前に埋めて

お前はもう一度、生命を得るのだろう。

『早枝子（さえこ）。』

息が止まり、心臓が止まり、身体が動かなくなり、手足が腐り

余計なものが取り払われていく貴方を見ながら、羨ましくさえ思った。

だから私は何もかもをこの土に葬り、塞ぎ、終わらせようとした。

終わらせようと、した。

なのに、

『なのに、何故まだそう睨んでいる。』

早枝子は半分腐り落ちた眼球を上に向け、私を見上げて睨んでいる。

『嗚呼、嫌ダ嫌だ。』

ずっ、土で覆い隠そうとする。

土をかけられ貴方が完璧に土と一緒になろうとする。

私は残りの土を崩れた肌色の皮膚の上へとかぶせ、優しく手のひらで撫でた。

柔らかい土の匂いが分かる、完璧に土と混ざり合う躰。

土を含み、血肉を含み、骨を含み、二つは混ざり合い同じものとなりやすらかに眠る。

　身体を覆いつくし、首を埋め、頬を埋め、貴方が完全に土に戻ろうとする。

ひどく羨ましく思った。

それなのに

「貴方様」

早枝子（さえこ）が、私の手を取った。

彼女は自分の胸から刃物を引き抜き、私がしたようにこの胸に突き立てた。

　私の泥はもう膨らまなくなった。

うすっぺらな私を覆う泥は、今血肉となってこの身体を包んでいる。

目を閉じる。

もうあの沸沸と膨らむ音は聞こえない。

もうあの沸沸と泥が、膨らむ音は聞こえない。

　傷口から流れ出す泥が、私を覆い尽くそうと溢れ流れて行く。

　そこで、はじめて

　ゆっくりと打ち鳴らされる心音が聞こえた気がした。

＜終＞

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■引用詳細

タ邊 樹予丸著「泥の中の骸(こいじのなかのむくろ)」未発表原稿より抜粋。

二〇〇五年八月八日 － 発行。

■タ邊 樹予丸(たなべ きよまる)

　90年代前半年代に怪奇小説家として稿を寄せた小説家。本名、田辺 智浩(たなべ ともひろ）

　87年、稀祥舍に入社し雑誌「衾代文藝」の編集者として小説に携わっており、当時持ち込まれた御嶋 宗嗣を見初め「猩々鷺の緒」のノベライズを担当、以下彼の編集担当を長く務めた。

　90年代に退社、小説家として独立する。ジャンル毎に異なるペンネームを用いながら多くの怪奇小説や他ジャンルの小説、漫画原作者として作品に携わった。

　本作品は発売された同作品「泥」の未発表原稿版より抜粋。掲載された本作品とは結末が異なっている。(原稿差し替えの理由は定かではない)本原稿は雑誌「きよらけ」の廃原稿に混ざって発見された。