峰崎 康甫 著「甘楽日記~雨」
空を伺う。
大層不機嫌な様子で太陽を遮る様はもうすっかり大きくなってしまったのに駄々を捏ねる子供のようでとても理不尽だ。そう、天候を相手に思った。
私と一緒か。
そう思うと私の顔まで不機嫌な顔になる。
「何おっそろしい顔してるんですか、先生。たまには愛想笑いでもしたら如何ですか。」
「生憎、愛想を振りまく必要が無い故、そのような顔は持ち合わせておらんな。」
左様で御座いますか、と茶化したように言いながら杉浦青年はまだ幼さが抜け切らぬ顔を渋くさせた。
「まぁ恐ろしかろうが、悲しかろうが、原稿が上がるならひょっとこ顔でも僕は許します。」
「何でお前に許されなければならんか。」
「まぁ許す許さないの前に、そんな顔した先生は逆に見てみたいですけどね。」
そんな顔を想像したのか、杉浦青年はいひひと下品な笑いをたてる。
「あぁ、お前と話していると苛苛するな。外へ出る。留守番でもしていろ。」
手にしていた新聞を杉浦青年に投げつけ縁側から立ち上がりそのまま庭へ出る。青年は少しにやついた顔を上げ、逃げるんですか先生、と新聞を広げながら言った。
「生憎、この後は雨が降ります。お出かけになられるなら、傘を持って出られる方が良いかと。」
確かに、理不尽な空は今にも大声をあげ泣き出しそうだ。雨は好きだが濡れるのは面倒だ。しかしそれを知り狙っている杉浦青年の相手をするのはもっと面倒だった。
「…出る。」
「おや、珍しいですね、先生。」
にやつく杉浦青年に背を向け私はわざと口に出し、伝える。
「
私は足早に立て掛けてあった傘を二つ掴み玄関を出た。
「…本当に…珍しいですね…。」
その言葉までは、聞こえた。
早枝子は、私の妻、
私よりも三つ下だが、賢くしっかりしていて、どうにも頭が上がらない。妻について惚気るつもりはないので詳しくは言いやしないが、本当に良い奴だと思う。よくもまぁ自分なんかと一緒に居られるな、と程程思う程、出来た女である。
私と言えば、どうしようも無い文章をたらたらと書き連ねるしか出来無い男である。その僅かな能ですら出し渋っている始末だから本当に手に負えない奴だと思う。そうは思っていようものの無駄な意地ばかりが張ってしまい、思うようにいかない。
雨は、そんなどうしようも無い男を叱咤するように勢いを増し始めた。土独特の饐えた匂いが冷えた空気を伴い鼻へと入る。傘を持つ手に不規則な雨水の振動が伝わる。もう一方の手には閉じられた黒い傘が静かに握られる。
雨が降っている事を全身が認識している。
早枝子はその先の角を曲がってすぐにある小さな寺子塾で子供に読み書きを教えている。もしかしたら、早枝子の方が文才があるかもしれない、私は気が滅入った。
角を曲がる、雨を駆けていく子供が何人か通っていった。玄関先に早枝子が立っていた。既に帰る仕度は整いまさに今、出ようとしていたのだろう。
近づきだが何と声をかけて良いか分からず、とりあえず近づく。
「あら。」
彼女は驚いて顔をあげ、さらに私の顔を確認してもう一度驚いた。
「本当に…珍しいですね…」
「…お前…杉浦青年と同じ事を言うのか。」
「言うと思いますよ。だって、貴方ですもの。」
そう言って小枝子は可笑しそうに笑った。
「まさか何か有るのでは無いですよね?」
探りを入れるような早枝子の目はもう半分は答えが分かっている顔だった。
「…傘を忘れただろうと思った。出る時に何も言わなかっただろう。」
言葉を受け取り、早枝子はそれが言い訳である事を見透かしたかのように手にしていた自分の赤い傘を少し持ち上げ
「その傘、正志君のでしょう?早く帰らないと、家には傘が二本しか無いですから、彼が帰れなくなってしまいます。」
自分の傘を仕舞い、隠そうとする私から奪い上げるように傘を受け取った。
「あらら、この傘もうボロボロですねぇ。折角だから新しいのを正志君に返してあげましょう。」
「そんな気遣いは無駄だろう。あいつの事だからどうせすぐにボロボロにする。」
またすぐそうやって、と小枝子は確かに少々ボロボロの傘を差し私の横へ出た。何も言わずに、歩み始める。
雨は既に地面の所所に水溜りを作り絶え間無く降り注いでいる。通りにはもうほとんど人はいない。珍しく静かな様子を見せる商店街は何だかいつもよりこの静寂を居心地の悪い物へとさせた。元々口数の少ない私だ。普段もそんなに喋る方では無い。早枝子も同じだ。しかし、この静けさはどうしようも無く、居心地が悪かった。
絶え間なく降り注ぐ雨は水が一粒一粒落ちているものだと思わないような重みを持った音を響かせる。音と同じように水の粒は絶え間なく降り注ぐ事で全てを隔てようとする。
塞がれる。
雨を隔てて、私だけが孤立する。
嫌な気分になる。
途端、背筋を這うような不安に包まれる。
「小枝子、」
だがその答えは返って来ない。
嫌な気分になる。
慌てて振り向き、すぐ後ろに居ると思っていた早枝子が居ない事に気づく。
「小枝子!」
「
声のする方を見る。店の軒先で手を振る小枝子を見つける。
「…何をやっている。」
「
そう差し出された傘は紺色のしつかりとした傘だった。
「じゃあ、これお願いします。」
まったくと、あきれ顔でため息をつく。
「そういえば、私の名前を叫んで、如何されました?」
今度はほとんど分かっているような顔をして小枝子は私を見上げた。わざと、小枝子は店に入る際に声をかけなかったのだ。
「…お前は。もう二度と迎えに来ないからな。」
「あら、では次からは濡れながら帰らないといけないのですね。」
勝手にしろ、と私はぶっきらぼうに言い歩き始めた。しかしそれに小枝子が着いて来ない。
「…何だ。他にもまだ何か有るのか?」
「新しい傘を買ったので、古い傘を店の方に捨てて頂きました。」
「…だから新しい傘を、差せば良いだろう。」
「この傘は正志君の傘です、折角新品なのに私が使ってしまうわけには行きません。」
そこで、小枝子が言わんとしている事が分かった。
「…少し濡れるぞ。」
「えぇ。」
傘を少し差し出し、その下に収まる小枝子。
二人で、歩き始める。
雨の音は先ほどと何も変わらず静寂を作り出し、雨を隔てて、私を孤立させる。しかし雨を隔てた内側に、小枝子が居る。うまく孤立していない私の耳にはうまく雨の音は入ってこなくなった。
無意識のうちに小枝子が濡れてしまわないようにと傾く傘の柄を持ちながら、己の少し濡れている肩に気づく。雨に隔たりなど無いではないか、そう思うと雨に感じている重さは何も無くなってしまった。
「こんな風に帰るなんて、初めてですねぇ。」
そう、小枝子は少しだけ弾んだ声色で言う。その言葉は正直、恥ずかしくも、嬉しくもあった。そう思う自分にまた少しだけ気が滅入る。
「同じ家に住んで居て、いつも一緒に雨風をしのいでいるではないか。」
「貴方は、本当に浪漫のないですねぇ。」
「横文字で表す感情など、持ち合わせていないな。」
「左様ですか。」
そう、小枝子が笑う。それに合わせて肩が小刻みに動く様子を見ていた。
「お前最近杉浦青年に似て来たな。」
「貴方のその、青年、って付けるの、やめてあげたらいかがです?正志君ももう良い年なのですから。」
「とは言うものの、お前も名前に君付けとは、やはり子ども扱いしている証拠じゃあないか。」
「そう、ですねぇ。」
「ほら。」
「じゃあ今度から貴方の事は康甫親父、ですね。」
「それは…妖怪の名前のようだな。」
その答えに大きく笑い声を上げながら、小枝子はこちらを向いた。
雨の饐えた匂いはいつの間に小枝子の匂いに変わっていた。静寂は小枝子の笑い声で引っかき乱されてしまった。小枝子が笑い暴れるせいで、雨はどんどんと私の身体に染み込み始めてしまっている。
そんな事は。
「嫌いじゃあない。」
「え?」
「何でもない。」
さり気無く小枝子の肩を引き寄せ、傘に収める。
「…本当に…珍しい…。」
茶化しながらも身を委ねる小枝子
「…雨降りだからな。全て致し方がない。」
「貴方そうやって原稿も言い逃れるつもりでしょう?」
「そういう事だ。」
小枝子は肩を抱く私の手に手を重ね、正志君を苛めないでくださいませ、と笑った。
雨は止まない。
しかし、居心地は良くなってしまっていた。
<続>
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■引用詳細
峰崎 康甫著“甘楽日記シリーズ”「雨」より抜粋
二〇〇八年二月十四日 - 発行。
■峰崎 康甫 (みねざき こうすけ)
90年代に怪奇小説家としてカストリ雑誌などで連載を営んだ「タ邊 樹予丸(たなべ きよまる)」が偽名で一般向け稀祥舍発行の女性雑誌「きよらけ」に寄稿した、企画物連載小説。本名、田辺 智浩(たなべ ともひろ)。
筆者自身の体験を元に織り成される不器用な夫と、清楚で愛らしい細君との静的な日常を描いた娯楽恋愛小説。女性目線で描かれていた従来の恋愛小説とは違い、男性目線で描かれた本作は一部から共感を呼び人気を博した。(本作は「夕」「冬」の間の2作目「雨」より抜粋。)
ただ、当時の担当医の
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