関 辰彦 著「水面」

 隙間無く重なる水と空気の境目に指を伸ばす。

 飲み込み損ねた空気が泡となって目の前を通り過ぎていく様を見ながら、

その先で歪んだ笑顔を見せる貴方を見つける。女は大層悲しそうに笑っていた。



 丁度、その女を初めて見たのは春の柔らかな気温も終わりに近づく頃合いだったかのように思う。いつも遊び場にしていた近所の神社で行われた祭りに家族で行った帰り途中だった、屋台も沢山出ていて普段は寂れている神社にも色が映え、人はこれでもかという程に溢れ、声とも音とも分からぬ雑踏で浮つき騒がしかった。

 桜がどうの、といった祭りだったかのように思うがよくは覚えていない。祭り自体にはあまり興味がなかったからだ。周りが賑わう中で私の心はこれから妙にお節介で喧しい親戚の所へ行くのかと思うと憂鬱で仕方なく、今だけでも喧噪を避けるため、弟が母の手を引きながらはしゃぐのを見送り道沿いから少し外れた灯篭の傍へと歩いた。

 天気は快晴、青く澄んだ空に温かい太陽の日差し。こんな陽気は久々だった。

 空を見上げ風景を楽しむふりをする。その時の桜の花は本当に素晴らしく、快活な青空に弾ける桜は幼い私でも綺麗だという感想を持つ事が出来る程だった。

 茶色の枝を伸ばし悠々と咲く桜の花びらが、風に吹かれ幻想的に飛翔する。

 

 桜の木の根元に、その女は立っていた。

 赤い着物を纏い、真っ黒な髪を纏め上げ、紫と白の飾りのついた簪が揺れる。色の白い頬と、ぷつくりと熟れた唇、少し細められた瞳が女を一層綺麗に魅せる。

 私は思わず、唾を飲み込み目を細めた。

 綺麗だ。

 その時私は純粋にそう思った。

 母が私の名を呼ぶ声がまるで遠くに聞こえ、弟の駄々の声にも今は腹が立たなかった。人が通り過ぎながらざわめき揺れ動く。それでもその瞬間の私には、動きも、音も、何も無く、何の隔たりもない世界に二人だけでいた気がした。

 桃色の薄い花びらがゆっくりと舞い落ちる。

 花びらは女の艶かしいうなじを撫でゆるゆると伝い落ち、地面と混ざり終わる。その様子を女は、無花果のように真っ赤な唇を控えめに少し開き、


 綺麗だ。

 そう言って囀るさえずるような声で囁く。

 綺麗だ。

 純粋にそう思った。



 それからというもの私は鳥居の影に隠れ遠くから女を見るようになった。気づかれないようひっそりと息を潜め、彼女を視ているだけで私は満足だった。女が目の前を通って行く後ろ姿を眺めているだけで心が躍った。

 毎日、整った格好で女は私の目の前を通り過ぎていった。人形のように華奢な指先を口元に当て、墨汁を吸った筆先のように黒艶の目尻を綻ばせ、鈴を転がすように笑う。その姿を見て私はいつも心が明るくなるのを感じていた。

 歳幼い私はそれを恋だの愛だのという感情と結びつける事を知らず、

 女を見ている事が、ただ嬉しかった。

 それ以上、何かをしようとは到底思わなかった。

 たとえ自分の存在を知られていなかったとしても、

 否、知られなかった方が良かった。

 女には男がいた。開襟シャツに黒いコートを羽織り、帽子のよく似合う男でその腰元には西洋刀サーベルが差してあった。思い返せば軍の人間だったのだろう。当時軍人は子供から見れば憧れる職業で、特に私の家は商家でこの時代はそれなりに苦しい生活をしていたものだから自分も憧れていたはずだ、だから見惚れる程整った素敵な青年だった。

 私は女に男がいたと知っても嬉しかった。

 むしろ一層女に惹かれた。

 女が男を見る時の眼はやけに色っぽく見え、男が女の隣に並ぶといっそう女が小さく見えとても愛らしかった。男が耳元で何かを囁くたび女はきらきらと笑いながらその腕に収まった。

 そんな女の姿が、私は一番好きだった。女はその男と一緒に居る時が一番美しく、何よりも綺麗だった。

 女は幸せそうだった。

 そして男もとても幸せそうだった。


 そんな姿を眺めながら私は嬉しくて幸せだった。



 気づけば女の事を頭に思い描きその度に満たされた気分になった。毎日毎日弟の手を取りに家を出ては、神社へと向かい女の姿を探す。

 女は決まって昼過ぎに東門からやってきて、日が落ちる手前の夕方頃に男と共に来た道を戻って行く。私はその間延々と灯篭の影に隠れ息を潜めていた。弟は神社の境内で他の子供と一緒に遊んでいたが私はそんなものには興味がなく、彼等の姦しい声を遠くに聞きながら木陰で冷えた灯篭に身を寄せ隠れていた。

 女に見つかってはいけない、何故かそんな気がしてた。

 私が子供の輪に混ざり遊んでいたとしても女は気にも留めなかっただろう、それでも絶対に見つかってはいけなかった。見つかった瞬間この幸せが壊れてしまうような居心地の悪い忌避があった。

 女を待つ時間はまったく苦ではなかった。

 むしろその時間こそが一日のうちで最も望む時間だった。

 起きれば時が過ぎるのを延々と待ち、時が来れば何故こんなに早く過ぎてしまうのかと悔やみ、寝る前はあぁ明日も女に会えるのかと思えば、眠れないほどであった。

 狂っている。

 そう。

 狂う程に愛しかった。


 毎夜、女への思いを馳せながら布団に包まれる。

 淡い月の光が照らす私の指先は白く透き通り作り物のような形をしている。

 ―――女の指先のようだ。

 まるで女の指先を眺めているかのような感覚になった。

 昼の青空の下きらきらと汗ばむ肌をすぅと凪ぐ風のような女の、まだ見た事のない、夜の女の姿。

 きっとこの不安定な夜の色も曖昧な空気も拙い行燈の揺らめきも、あの女によく似合うだろう。

 そうして輪郭の曖昧になった女を私はそっと抱き寄せる。こうしてやれば女は消えてしまったりしないだろう。

 女は愛しそうに指先を這わせ、私に縋る。

 最も甘い声で私の鼓膜を心地よく震わせていく

 柔らかい肌を丁寧に重ね蕩け合う。

 素敵だった。

 瞼の裏側の暗闇で女は私だけのものとなる。

 それだけでよかった。

 それ以上は、何も望まなかった。



 その日は、日差しの強い日だった事をよく覚えている。水に返される光が私の顔に反射し風景は白く霞んでいた。木陰に居ても日の光がじわじわと体中の水気を吸い取っていく。

 春先の生ぬるい風もこの日だけはひらりとも吹かず、干からびた熱がそこらに漂っていた。まだ桜の花びらは付いている、そう私の目線が桜の木に移っている時に女はやって来たが、いつもと変わらず過ぎていく所をふと足を止め立ち止まった。

 気づかれた

 私は思わず息を止め慌てて顔を伏せた。

 この時が終わってしまう、目の前が真っ暗になるほどの絶望感が沸き起こった。

 だが女は私の方ではなく逆側の境内へとそのまま足を進めた。慌てて顔をあげると女は手水舎のすぐ脇にある水汲み場の傍に立っていた。さらさらと水の流れる水に指先をすぃと浸す。

 透明色した水を救い上げ、女は顔を近づけその水に唇を浸した。


 ごくり、


 女の喉が動くのが分かった。

 指先から零れる水が女の唇の端を伝い、透明色に光る。

 ごくり。

 女の喉がもう一度動き手は唇から離された。細い指先で唇を拭い女はゆっくりと歩き出す。水は光を含み一層眩しく石畳の上で反射している。

 私は何故かとても悔しい気持ちになった。

 水がとても疎ましかった。そして私も女と同じように、喉を鳴らした。

 ―――ごくり。

 あの水は今、女と一緒になった。

 そう思うと私は水が疎ましくて仕方が無くなった。

 冷えた水はその体を這いまわり女の体のすみずみにまで行き渡り一部になる。

 あぁ。何と羨ましい事だろう。

 私はいじけるように、その場にさらに蹲り暑さを凌いだ。


 日差しの強い日だった事をよく覚えている。



 いつものように灯篭の影で隠れていた私は女が帰ってくる影を見つけ胸を高鳴らせていた。だが二人はいつものように鳥居を過ぎず境内へと向か止まった。私はこっそりと社側の裏から回りこみ近づいた。

 夕日はいよいよ傾き橙色の光が強く朱く二人を照らし女は一層作り物のように見えた。木々の陰は色を増し真っ黒な影となって夕日に陰げ境内の装飾の一つとなっている。二人の影も大きく伸び私のすぐ足元まで迫っていた。身を屈める私の元に声がはっきりと聞こえてくる。

「…真鶴まなづる。お前も聞いておろう。」

 力強い男の声が女の名を呼んだ。

 真鶴。そこで私は始めて女の名前を知った。

「えぇ。しかし私には未だ信じられませぬ。」

 女が眉を潜めすがるように首を振る。

「だが事実だろう。もうすぐ我々は解散させられる。」

「本当、なのですか。」

「あぁ。」

 男は一歩前へ進み腰の刀の柄を握り締めた。

「どうやらこの国の刀を振るう時代は終わり新しい時代が幕開けるという。その為には、我々の存在は妨げになると言われた。」

「…国の為に、また死ねと言うのですか。」

 女は震えた声を絞り上げ、思いを音にする。

「国の為、国の為と、貴方様は何もかも捧げ身を尽くしてきました。その見返りがこの仕打ちですか。では私達は、私達は…」

「真鶴。」

 瞳を潤ませる女の名をもう男は一度呼ぶ。

「今更どうこう言おうとも私は国を信じるしかなかった、それには後悔していない。だがもう国の手には掛からぬ。私は私の意志で己が役目を終えようと思う。だから、お前は何処へなりと行くが良い。」

 男は振り向き大きな腕で女の方をそっと抱き寄せる。

「辛い思いしかお前にはやれず、すまなかった。」

 男の肩越しに女の顔が覗いた。長い睫が涙で淡く濡れわずかに乱れた髪が頬にかかる。落ちかけた夕暮れの橙色は二人を霞ませ、陰影はより輪郭を際立たせた。

 まるで儚い、銀幕の世界の様だった。

「…貴方、」

 男、女の声に応えるように一層力強く抱きしめる。

「私も一緒に、いかせて下さいませ。」

 女、琴の音を弾く様な凛とした声で告げる。

「いけない、そんな事は出来ない。」

 男は驚き首を振り反対する、しかし女は男の手を握り締め続けた。

「…貴方様と一緒になることを決めた日からどんな事があっても私は貴方様について行こうと決めました。どうか、最後まで一緒に、最後まで…一緒に居る事を許してくださいませ…。」

 閉じられた女の瞳から一筋の涙が零れ落ち頬を伝った。

「…真鶴……。」

 男は強く女を抱き寄せた。指先が震える程強く、男は女を抱きしめていた。

 寄り添う影は一つになり夕日に照らされる。

 その何と美しかった事か。

 私は二人を見つめ続けた。そっと遠くから眺めていた。

 息を押し殺し決して見つからぬようにと、

 太陽が欠け、地平線の向こうで蕩けあう。

 あの光が完全に地面に飲み込まれてしまえば、この世は夜になる。

 同時に、何もかもが終わってしまうのだろうと思った。そんな気がした。

 止まってくれ。

 祈るように私は何度も唱えた

 じわじわと飲み込まれて行く朱色の光を二人の後ろに見ながら

 私はただ、息を押し殺していた。



 夜が来た。

 すっかりと日は暮れ、遊び駆けていた子供は誰もいない。

「…帰ろ…にぃ…。」

 弟が私の裾を引いた。私はその手を握り返すだけでそのまま立ち竦んでいた。

 男は女が泣き止んだのを見てゆっくりと肩を抱き歩き出した。

 私もその後を追う。

 子供の声が消えた境内、桜が黒い空の中を舞う。

 女の簪が揺れる。

 弟は不満げに私の手に引かれている。

 私は静かに二人の後を追った。境内の鳥居を抜け石畳を下り、林の中を抜け、夜の空気を吸い込み、樹木が騒めき、風が熱を浚っていく。

 ふと気づくと私達は峠に出ていた。

 端は高い崖で、そのすぐ先には延延と海が続いている。二人は崖のすぐ傍で足を止めた。私はそのもっと後ろの方で足を止めた。

「…にぃ…怖いから…帰ろう…。」

 弟が今にも泣き出しそうな声で言った。

 怯えているのだろう。

 夜の海は怖い。

 水が有ると思えぬ程に黒い色を増減させ何もかもを飲み込もうと音をたてる。

 ざぁ、ざぁ、ざぁ。

 波音が少し遠くで聞こえている。

 ざぁ。ざぁ。ざぁ。

 重なるように木々が風に晒される。足元の草がまるで波のように波紋を打った。

 とても怖い。

 足が竦み逃げ出す事も出来なかった。

「…真鶴。」

 男はゆっくりと女を支えていた肩から手を離し、腰の刀を引き抜いた。

「…貴方。」

 女の顔は、もはや私からは見えなかった。

 男は刀を逆手に持ちもう一方の手で首に鋭利な刃を押し当てた。

「…真鶴。我はお前の事を愛していた。」

 男は、全てを伝えるかのように言葉を渡す。

「…私も、愛しております。」

 女は、全てを受け止めるかのように言葉を受け取る。

 弟の震えが私の手を伝ってくる。私の心臓は羽音のようにやかましく打ち鳴らされ、煮えたぎる心が沸沸と熱を帯び体中を伝い回った。

「ならば、きっとまた会う事が出来ようぞ。」

 そう、男は笑い刀を引いた。



 一斉に飛び散る花吹雪

 私にはそんな風に見えた。

 赤く降り注ぐ真っ赤な花びらは、

 女の周りを魅力的に舞った。

 黒い空を華やかに舞い散って消えた。



「…あな…た…、』

 最後に女はもう一度男を呼ぶ。

 返されぬとは分かっていようとも呼ばずにはいられなかったとでも言うように

切なく、愛おしく、求めるように名を呼ぶ。

 頬に少し、そして着物の裾は赤を含んでいっそう色濃くはためいている。

 男は、女の足元で果てている。

 女は凛とそこに立っていた。

 他の色を知らぬとでも言うように黒一色に染まりきった夜の中で、

 この世で最も温かい赤を携え、一筋の涙を湛えて凛と立つ貴方の姿は

 瞼の裏側でいつも思い描いていた姿など比べ物にならないほど

 私が今まで見た中で、一番美しかった。


 女はすぅと瞳を閉じる。

 全てものに贖う事をやめたかのように

 女は、全てを終わらせた。

 支えていた重力を振りほどき、すぅと足を後ろに伸ばす。

 女が海に落ちる



「真鶴っ!!」



私はゆっくりと動く自分の視界の中で無意識に女に向かって手を伸ばしていた。

弟の手を振りほどき黒い海に飲まれていく女を追いかけていた

私は初めて呼ぶ女の名を咽喉を震わせ夢中に叫んだ

女がゆっくりと真っ暗な海に向かって落ちていく

風が荒々しくあちこちから強く吹き荒れる

弟が泣き叫ぶ声が遠くの方から聞こえる

生暖かい真っ赤な血の匂いが漂う

木々が大声をあげてざわめく

波がぼうぼうと押し寄せる

女が海に落ちていく

海が口を開ける

女は落ちる

私は追う

暖かい

私は。

唖、

嗚呼。


貴方は私を見た。

黒い瞳が、私と混ざる。

女は、ゆっくりと私を見て微笑む。

暗闇に飲まれる刹那その儚さも全て、

全てを受け入れ

それでも貴方は微笑む。


 綺麗だと。

 純粋にそう思った。



 次の瞬間、私は水音を聞いた。


 まるで体液の中に浸って居るようだ。

そろそろと這いずりながら液体は薄皮一枚一枚にゆっくりと滲み込み始める。

伸ばす指先のほんの先の水面の先にて

貴方は大層悲しそうな顔で笑っている。

あぁ。私を見ているのか。

そんな顔をしないでおくれ

私が悲しくなってしまうから。

ずむずむと沈んでいく体を完全に水にまかせ

もはや抵抗する気も無く何処へ行くとも分からぬ水底へと落ちて行く。

刻むのを拒んでいるかのように怠惰に過ぎる時と

眼球に映される逆さまの景色に飲み込まれながら

何故かその時私はとても

満ちていた

隙間の無いこの空間は思ったよりも心地よく

息が出来ない事などどうでも良いように思えた

帰ろうか

母なる海へと

この巨大な海へと戻り何時かまた貴方のもとへ戻らぬようにと

私は蕩け始めた脳髄の奥底で想像する。

こんなにもちっぽけな私のすべてを優しく包み込む水と私は完璧に混ざり合い私は

水そのものとなる。流れ、流れて雲になり、降りそそぎ、また流れ始め

ついに戻った時、貴方は私をそのまっ白な掌ですくい上げ艶めかしいその唇で私を飲み干す。

澄んだ雪色の肌の裏側を流れ、血肉一つ一つすみずみまで染み込み

私はようやく貴方の一部になり、一体となり、全てとなり

私は貴方になる。

なんて幸せな事だろう

私はとても嬉しくなった。

生ぬるい瞼をもう閉じてしまおうと最後にもう一度水面上を眺める。

攪拌を止めぬ水面に可笑しく映る貴方は

やはりたいそう悲しそうに笑っている。

私は嬉しくなって思わず微笑んだ。

ようやく目を閉じ暗闇の世へと身をまかせる。

とろとろと溶け合う音を聞いて

ずるずると落ちて行く身を感じ

ゆらゆらと映り笑う貴方を思い出しながら

私は水となった。

その時私はとても満ちていた。




 数日後、女の死体が海に上がったと噂しているのを私は聞いた。

ぶくぶくに膨れ上がってそれは酷い有様だったと、隣の親父が冗談半分に話していた。

あの女では無いだろう

あの女は水になったのだ

弟は今朝も境内で他の子供達と一緒に遊んでいる。

他愛の無い声があちらこちらから聞こえ爽やかに吹き抜ける風の音に浚われている

私は拝殿の影から桜を見上げていた。

すっかり散りきってしまった桜の木は青々とした葉が大層うっとおしく生い茂り、太陽の光をいきいきと吸い込んでいた。春もすっかりと終わり、また夏が巡ろうとしている。

春は終わる

そして、また巡る。

ゆっくりと手水舎の脇にある水飲み場の流水に手を浸す。

太陽に照らされてきらきらと水が柔らかく光り輝く。

私はその水を口に含む。

ひんやりと冷えた液体は唇を潤していく。

ごくり。

貴方は水となった。

そして今、私となった。

私は嬉しくなって思わず微笑んだ。

「真鶴。」

そう、愛しそうに呼んでみる。

掌の水が風に吹かれて指先から地面へと落ちて地面に染み込む。

貴方は水で、私になり、大地になり、今や全てとなり私を包んでいるのだ。

幸せだった。

私は、この上なく幸せだった。



水は、冷たく潤い鈍く光る。

なんだかとても、嬉しくなった。




<終>


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■引用詳細

 関 辰彦 著短編集『眩暈』より”水面"抜粋。

 二〇〇四年三月三拾一日 - 第七刷発行


■関 辰彦 (せき たつひこ)

 第二次世界大戦まもなくに文筆業を営んだ前衛小説家。

稀祥舍発行の文芸誌「衾代文藝」にて稿を寄せる、執筆から6年目に今まで誌に掲載された作品を纏めた短編集『眩暈』を刊行。それ以降の作品は短編を3本(【均一なる不釣合い】【常世虫の穴】【ファウストの憂い】)と長編『儚瞭図』(※ただし執筆名は"倖汐 柏巳(こうせき うつみ)"となっている)を発表。その後の作品は発見されていない。


 水面の原稿は第一原稿では『水』、第二で『真鶴』そして『水面』とタイトルに幾度かの変更が行われた。詩として纏められた水を骨組みにし、真鶴、という短編小説の形に纏められ、再録する際に再度加筆修正され今の形に纏まった。

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