[13]

 午後9時37分。

「少し休憩していいですよ」

 真壁が疲れた声で言い、パイプ椅子から立ち上がった。廊下で待っていた看守が入って来て、扉のそばに立った。真壁は隣の小部屋に入り、小野寺に「休憩しましょう」と声をかけた。

 廊下を歩きながら、たて続けに吸ったタバコのせいで、しくしくと痛みを発していた胃袋をさすった。真壁は階段を降りて、2階は刑事部屋と同じフロアにある、鑑識の部屋に入った。

 奥の机で、長谷が文庫本から眼を上げた。真壁は詫びた。

「すみません。まだなんです」

「大丈夫。今夜はずっといるから」

 真壁は今日の昼に富樫に頼んだことと関連して、長谷に待ってもらっていた。

「電話、借ります」

 そう言って、真壁は机の上に置かれた電話の受話器を取って、富樫の携帯番号を押した。数分待ったが、呼び出し音のパルスが鳴るだけで、真壁は諦めて電話を切った。

 時間はもう残されていなかった。6時ごろ、韮崎は白瀬を留置場に戻して夕食を取らせた。それから7時に取調を再開したが、白瀬が口を開くことはなかった。

 真壁は気づいていた。

 白瀬が口を割らないのは、柏木達三が死んだわけではない。家族を悲しませないためだ。事実、真壁がひとり娘について話すと白瀬は体を揺らしたり、両手をぐっと握りしめたりしていた。

 真壁の脳裏に、ある考えが浮かんだ。それは、今朝に思いついたことだった。

 白瀬を起訴する。

 犯人が特定されていれば、逮捕を省いて、いきなり裁判所に起訴してもらう。相場なら、公判が約1週間後に開かれる。その間に、白瀬を再び聴取し、逮捕する。

 本来の順序が逆になってしまうが、法的には可能。裁判所に犯人を起訴するのは検事の役目だが、真壁は上野南署の管内に、明真大法学部出身の検事が住んでいることは知っていた。もうだいぶ前の先輩に当たる人物だった。

 だが、物証がない。

 すでに、白瀬の指紋は採取していた。しかし、柏木が現金を保管していたと思われる工場の冷蔵庫に付着していた指紋とは、一致しなかった。

 滞っていた住宅ローンを一度に返済したという状況証拠しかなく、しかもこれはかなり乱暴な手法だ。仮に検事が起訴を了承しても、こんな公判の請求を受け入れる裁判所がどこにあるだろうか。

 真壁はダイヤルを押しかけ、受話器を叩きつけた。悔しさが口から唸りとなって漏れ出した。白瀬は絶対、自殺するつもりだ。それはなんとしても食い止めなければならない。

 そのとき、夜闇を引き裂くような音が響いた。長谷が窓に振り向き、真壁もその後ろからのぞいた。

「車が止まったんですね。ピンク色のビードルですよ。珍しいなぁ」長谷が言った。

 真壁は鑑識の部屋を飛び出した。

 裏口に出ると、車のそばに富樫が立っていた。顔がホコリや油でにじんだ汗にまみれ、疲れた表情を浮かべていた。

「お前の言ったとおりだ。これだろ」

 富樫はジャケットからハンカチに包まれたものを出した。

「・・・ありがとう。本当に・・・ありがとう」

 真壁はようやくそれだけを口に出来た。

「いいって、子猫ちゃん」

 真壁は手を放すと、背を向けて駆け出した。富樫はその背を呼び止めた。

「真壁!」

 真壁は振り向いた。

「書くからな!」

「おう、なんとでも書け!」

 真壁はそう言い放って、署の裏口に飛び込んでいった。

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