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 午前12時8分。

 真壁は取調室を出ると、腹立ち紛れに考えをめぐらせながら、廊下を歩いた。

 昨日の朝、真壁は白瀬の詐欺に関する取調が終わるのをいつか、いつかとじりじりして待っていた。

 柏木裕也の保険金殺害事件に関する参考人として白瀬が浮上したが、はっきりとした物的証拠がある訳では無かった。

 しかし、情況証拠として気になる情報はあった。須藤が白瀬の自宅周辺の聞き込みで、ふと小耳に挟んだことを話し始めた。

「近所のオバちゃんが、顔を合わせてひそひそと話してたんだ。内容はこうだ。『あの若さでご主人と力あわせて家買って、偉い子だったわねぇ。夫婦だけで買ったのよ、あの家。援助してもらわなかったんだって・・・』なぁ、白瀬の手取り、いくらか想像つくか?」

「いや・・・」

「リフォーム業の営業なんて、月25万超えればいいとこだ」

「あの上野の家、いくらだ?」

「6000万近く。仮に1000万を頭金で払ったとしても、残りは5000万。銀行に確認したら、白瀬は10年のローンを組んでる。そしたら、月々の返済はいくらになる?」

「俺に聞くなよ。そんなこと」真壁は渋い表情を浮かべた。「数学は苦手だ」

「まぁ、聞け。均等払いで月の返済が40数万だ」

「うそだろ。白瀬のリフォーム会社、一部上場だったか?」

「三流の中小。それに、奥さんはパート先のスーパーで週3日勤務が普通だったって話だ。自宅を購入してローンに金が掛かる時に、おかしいだろ」

「金の話か」

「返済がどうなってるのか?ウチの係長が白瀬家の懐具合を気にしてる」

 刑事課長の嶋田によると、韮崎が来月に警視庁への異動するのは、ほぼ確定という話になっていた。その警察人生のほとんどを所轄ですごしてきた韮崎にとって、キャリアの最後を警視庁で終われるのは冥利に尽きる思いがこみ上げてきたであろう。

 2月25日、パレス南上野の現場に臨場した理由もそこにある。本庁への「花道」を自分で飾ろうとして「事件」を「事故」と読み誤った―。そう報告した真壁だったが、署内からのタレ込みの線も無いため、すでに嶋田の関心は薄れていた。

 トイレに入ると、癖毛の男が窓際の便器の前に立っていた。真壁に気づくと、癖毛は口角を緩めた。

「よう、真壁ちゃん。だいぶ苦戦しているみたいだな」

 小野寺茂夫。刑事課知能犯係の係長を務めるベテラン刑事で、昨日の朝、自宅にいた白瀬を詐欺容疑の「別件逮捕」で引っ張ってきた。

 真壁は小野寺の隣の便器の前に立った。

「面通しは?」

 朝の取調の間に、2月25日、パレス南上野の7階で青いジャンパーを着た男を見た数名の男女と、近くの路地で同じ服装の男を見かけた主婦に、白瀬の顔をマジックミラー越しに確認させていた。

「まるっきりダメだね」小野寺は水を流して、ズボンのチャックを上げた。「そうそう、面白いことがわかったよ」

「何ですか?」

「白瀬についた鈴木ってゆう弁護士。あれ、韮崎の甥っ子」

 真壁の脳裏に今朝、留置場の前ですれ違った、くたびれた背広を着た神経質そうな男が浮かんだ。

 弁護士の声は、韮崎の声。何もしゃべるな。そうすれば、また家族に会えるとでも、吹き込んだのだろうか。どちらにしろ、白瀬は絶対に口を割らない。そう思うと、真壁は暗澹とした気持ちになった。小野寺は続けた。

「それと、白瀬は1か月前に会社をリストラされてる。普段の日は、国会図書館で時間を潰してたんだそうだ」

 小野寺は鏡を見ながら、癖毛を櫛でといていた。

「昨日連行したとき、白瀬はどんな様子でした?」

「う~ん、普通だったね。でも、まてよ・・・」

 真壁は小野寺に眼を向けた。

「現場のマンションの前を通ったとき、一瞬だったが、顔を背けた」

 小野寺はドアを開け、出て行くかと思うと、口を開いた。

「覚悟しておいた方がいいよ、真壁ちゃん。経験から言うと、ああいうのが一番手ごわい。証拠があるとか、ないとかじゃないんだ。おそらく一生かかっても吐くまい」

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