[9]

 3月24日、午前11時47分。

 上野南署、取調室。

 鉄格子を嵌めた窓から、春の風が薫ってきた。パイプ椅子と机だけの取調室に満ちていた湿気と熱気が少し薄まったように感じた。

 真壁はタバコを吸いながら、目の前に座る男を観察していた。

 白瀬淳平は、朝から一言も話そうとしなかった。椅子にななめに腰かけ、顔を右の肩にうずめたまま、ぴくりともしない。眼鏡をかけた平凡な顔立ちからは、何を考えているのか判然としない。

 白瀬は35歳。住宅リフォーム会社の営業部に勤めている。10年前に結婚し、妻である由貴との間にひとり娘がいる。真壁が意外だと思ったのは、8歳の娘が通っている小学校は柏木祐也と同じだったことだ。

 昨日の朝、松が谷二丁目の自宅にいた白瀬を殺人ではなく、詐欺容疑の「別件逮捕」で引っ張ってきた。白瀬への内偵を進めると、昨年の10月、会社の同僚から10万円を借り、未だ返済していない話をつかんだ。真壁は同僚から被害届を出させて、白瀬を上野南署へ任意同行させる手立てをとった。

 真壁は机の上に置かれた灰皿に、タバコを押し潰した。

「もう一度、聞きます。今年の2月20日、あなたは御徒町のバー『ル・ボア』にいましたね?」

 朝からずっと言い続けている問だった。

「・・・」

 白瀬は昨夜の聴取で、詐欺に関してはあっさりと容疑を認めた。取調を担当した刑事の話では、白瀬は聴取に素直に応じたという。しかし今朝は打って変わって、沈黙を押し通している。あらゆる神経が鈍麻して外界の刺激に反応しない人間に対して、この期に及んでいまだどこに踏み込んだらいいか、真壁は手元の調書を手繰り、探り続けている。

「『ル・ボア』のオーナーの証言によると、あなたは20日の午後6時ごろ、独りで店に入りました。それから半時間、カウンター席の一番奥に座って飲んでいた」

「・・・」 

「午後6時半ごろに男が2人、入ってきた。2人とも『柏木自動車工場』のネームが入った青いジャンパーを着ていました。覚えてませんか?」

「・・・」

「男二人が話し始めた。『オレの・・・』」

 その瞬間、背後でドアが開く音が響いた。真壁が振り向くと、留置場の看守を務める中年の制服警官が立っていた。真壁が思わず睨みつけると、警官のそばから白髪頭が覗いた。刑事課長代理の韮崎だった。

「真壁、時間だ」

 真壁は腕時計に眼を落とすと、12時を回っていた。

 白瀬は看守と連れだって、取調室を出て行った。部屋を出て行く瞬間、真壁は白瀬の表情が緩むのを見逃さなかった。

「落ちたか?」韮崎が言った。

 真壁は「いえ」とだけ答えた。

「うん・・・そうか、まぁあと少しだ」

 韮崎はそう言って、真壁の肩をたたき、廊下へ消えた。

「あせらずゆっくりとな」

 真壁は2本目のタバコを取り出し、ライターで火をつけた。奥歯をぎりりと噛むと、タバコの葉の苦味が口に広がった。韮崎の白々しさに怒りを覚えつつ、真壁は自分のふがいなさに苛立っていた。 

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