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午後9時前、刑事課の大部屋で真壁は自分の机の上に、柏木裕也の墜落死に関する捜査報告書を広げた。日中は通常の業務をこなすので手一杯で、再調査もこのぐらいの時間からしか始められなかった。タバコに火を付けると、「帰らないのか」と声をかけられた。
顔を上げると、部屋の入口に知能犯係にいる同期の刑事、須藤守が立っていた。
「気になることがあってな・・・」
そう言うと、真壁は書類に眼を戻した。実況見分調書によると、事故発生時刻は2月7日の午後3時。添付された鑑識の写真を見ると、ベランダは前日の大雨で濡れていた。踏み台の上から足を滑らせて墜落したという結論だった。
「ほら、見てみろ」真壁は須藤に書類を見せた。「柏木裕也がベランダから滑って落ちたとすると、真下の白いハボタンの花壇に落ちるはずだ。でも、実際は左隣の黄色いアリッサムの花壇に落ちてるんだ。おかしいと思わないか」
「ほんの少し斜めになって墜ちたんじゃないか」
「それにしても、検死官が臨場してないのはどういうことだ・・・?」
「その日に限ってヤバい死体が都内にゴロゴロしてて大繁盛だったとか」
「勘弁してくれ」
「子どもの事故で検死官の手を煩わしたくなかったんだろうよ」
「しかしな・・・」
須藤は死体検案書に指を走らせた。
「一応、課長代理の円谷さんが死体を見てる。法的にも問題は無いだろ」
真壁は紫煙とともに、荒い息を吐いた。事件性の有無は本来なら検視の判断によってなされるはずだが、現場に検視官を呼ばず、「事故」として処理してしまっている。事故当日に立ち会った制服警官にも話を聞いたが、韮崎が「事故」と判断したことに疑問を抱いたような節はなく、早くも十四日の通報が署の内部からという線は消えた。
翌日の午後、真壁は千駄木の東亜医科大学の前に立っていた。柏木裕也の解剖を担当した法医学者は、岡島進という名前だった。上野南署とその近辺の署の変死体の解剖を担当していたが、平阪に言わせると、「かなりの変人」という評判だった。
真壁は狭い廊下を進み、ようやく目的のドアの前に着いた。ドアには、白文字で書かれた黒い木のプレートが貼られていた。《法医学研究室、岡島進》。
「失礼します」
そう言って、部屋に入ると、真壁はぎょっとした。
部屋は狭く、テーブルには何やら得体の知れない物がホルマリン漬けにされた瓶がたくさん置かれていた。人の気配が感じられなかった。
「岡島先生?」
すると、テーブルの奥から白衣を着た小柄な男が姿を現した。
「君は?新しい研究生かな?」
「上野南署の真壁といいます。電話でお話したはずですか・・・」
「あ、ああ。そうだったね、准教授の岡島です。やっと来てくれたんですね」
真壁と岡島は東亜医科大学の前の路地でタクシーを拾い、パレス南上野に向かった。岡島は白衣姿のままで、医師が診察に使うような黒革のカバンを持ってきていた。
真壁はマンションの玄関先で待っていた管理人に言った。
「遺体はどのへんにあったんですか?」
「アリッサムの花壇に倒れてたんですよ」
岡島は黒革のカバンからメジャーを取り出し、マンションからアリッサムの花壇とハボタンの花壇までの距離をはかっていた。
「それは頭から?それとも、背中から?」
「頭からですよ。ちょうど・・・水泳の飛込みをやるような感じです」
真壁はハボタンの花壇を指した。
「部屋のベランから覗くと、ハボタンの花壇が真下になります。事故の際、ハボタンに何か痕跡はありましたか?少し乱れていたとか?」
「いや、そんなことは・・・無かったと思います」
岡島が戻ってきた。
「アリッサムとハボタンの花壇は、約3メートルの距離があったよ」
真壁が言った。
「直接の死因は?」
「頚椎の骨折と脳挫傷が認められた。その同時損傷で絶命したんだ。そのほかに、肌が露出していた部分に無数の擦過傷があったけど、花壇に突っ込んだ時にできたんだろう」
「事故か他殺か、どう判断しますか?」
岡島は腕を組んで少し悩んでいたが、さっと答えを出した。
「これは、他殺だね」
真壁は眼を見開いた。
「どうしてですか?」
「報告書の状況だと、おそらく裕也君は真下に落ちるはずだ。だから、ハボタンの花壇に跡が残るはず。でも、それは無い。遺体は隣のアリッサムの花壇に落ちてた。すると、横向きの加速度が必要になるんだよね」
「横向きの加速度?」
岡島は真壁のそばに立ち、右手でその胸をぐっと押した。
「要するに、押しだす力だ。誰かがベランダから裕也君を外に投げたんだ」
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