[3]
深い闇に没した上野南署を振り向き、真壁は心中に呟いた。
《とりあえず、ぶつかってみるしかないだろう―》
浅草通りを歩き出した時、靴音が一対追ってきた。真壁はそのまま歩き続けた。相手は人目を警戒している様子で、声はかけてこなかった。常葉銀行の横の歩道橋に上がると、靴音はすぐに背後に迫り、やがて横に並んだ。
横顔を見るなり、真壁はあっと思い、その場に立ち止まってしまった。
富樫誠幸。大学の同期生で卒業後は全国紙の東都日報に入社し、初任地で札幌支局に派遣されていたはずだった。
「いつ、戻って来たんだ?」
「春に」
思わぬところで顔を合わせた戸惑いを、富樫は飄々と笑ってみせた。
「今じゃ、《七社会》の番記者」
「じゃあ、本庁か」
富樫とは、山岳部で同じ釜のメシを食べた仲だった。山で撮った写真や登山日誌をエッセイ風にして雑誌に投稿していたのは知っていた。経済学部の卒論は院の進学を勧められた程の出来栄えで、一流企業からも声が掛かっていたはずだが、新聞記者という仕事を選んでみせる変り種だった。
「ところで、事件の感触は?」
「おまえ、本庁担当だろ?」
「一課長とか署長の話だけ聞いたって記事、書けないんだよ。当たり前のことしか言わないんだから。現場のナマの声を訊きたい」
「ナマの声って・・・」
富樫が言った。「東上野の孤独死が気になるんだよね」
「どうして?」
「工場主と同じマンションに記者クラブの同僚が住んでてね。その同僚が言うには、工場主の子どもが2月の半ば頃に事故死したらしい。その子どもの父親が、東上野で見つかった孤独死した」
刑事課長が神経過敏になっている理由にこれも含まれているのかと思いながら、真壁は昨日の午後2時ごろのことを思い返していた。
現場となった東上野三丁目の自動車工場には、修理中の乗用車が2台置いてあった。西向きの壁に面してスチール製の机が2つ。机の上は帳簿や書類で散らかり、工具箱の中はどの器具も埃をかぶっていた。
遺体は、ビニールシートの上に寝ていた。検視で服は脱がされていた。眼は見開き、開いた口から舌が歯並びより前に出ていた。色黒の肌に、相撲取りのような大きな体。
「トドのようだな」
韮崎が青い顔をして言った。警部のまま17年を過ごし、野方東署盗犯係の係長から上野南署の刑事課長代理になった。虚勢をはっているつもりだろうが、死体に慣れていないのは明らかだった。
「死因は?」
韮崎が遺体のそばにしゃがむと、ペンライトを眼に当てた。
「顔面はわずかながら蒼白。両の瞼と眼球には、多数の溢血点。心臓疾患による急死の典型的な所見だ」
真壁はだんだん重くなってきた口で答えた。
「心臓発作による自然死だ。事件性はない」
富樫は急にジャケットに手を入れ、震えている携帯電話を取り出した。その場で少し話したかと思うと、「浅草で動きがあってね」と言い、上野駅前で別れた。
富樫が乗り込んだのは、ニュービートル。塗装がピンク色だった。真壁にとって、この友人は事件以上の難物だった。
大井町の駅前にあるコンビニへ立ち寄り、カウンター横の《あったか~い》と書かれたケースの中から缶コーヒーを1本買い、真壁は自転車で八潮高校近くの六階建てマンションに帰った。マンションの管理人と新宿西署で上司だった高城一範が懇意で、北新宿にある警視庁の独身寮を出るときに紹介してもらったのだ。
温かいコーヒーの差し入れをすると、年配の管理人は「今夜は早いですな」と長閑な笑顔をよこした。「おやすみなさい」と声をかけ、真壁は最上階にある自分の部屋まで階段を上がった。体力を落とさないためのささやかな努力だった。
部屋に入り、上着とネクタイを外す。ベッドに寝るのが面倒になり、真壁は毛布を体に巻きつけてリビングのソファに横になった。当てもなく事件のことをあれこれ思い描きながら、明け方ごろにやっと、少しだけうとうとした。
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