アドレサンスの牢獄

南枯添一

第1話

 あたしにそっくりだね、と少女は言った。

 このお母さん、幾つ?十七才?

 返せ、と彼は少し硬い声を出し、少女はらしくなく目を伏せた。

 ごめん。

 構わない、と彼は内心の狼狽を気取られまいとぶっきらぼうに言う。


 海岸から突き出た突堤は長く、そこから見える空は、いっそ雨が降り出せば良いと思える色をしている。海も鉛色だった。風は冷たい。麻か、麻に似た合成繊維でできた、透けるような白のワンピースから伸びた少女のむき出しの脚には鳥肌が立っている。不器用に逸らせた視線がそこに落ちてしまい、彼は慌てたようにもう一度視線を外す。

 けれど、少女の視線の方がそれを追いかけて来た。見返した目が笑っている。どうしていいか分からなくなった彼の鼻先に少女は折りたたんだ〈マップ〉を差し出す。しなやかに伸ばされた細い腕の先で華奢な手首が反っている。その仕草はまるで〈マップ〉ではなく手首を受け取らせたがっているみたいだった。

 一瞬見せたしおらしさが嘘のようだった。そして、そのことはよく分からないレベルで彼の自尊心を傷つけた。

 その所為だろうか。彼は「どうでもいいんだ」ともう一度言ってみせる。

 けれど、彼の口調はどこかいじけてるように聞こえた。その上、言葉の選択を間違ってる。今の少女は彼の許しの言葉を必要とはしているようには見えない。

「どうでもよくないよ」けれど、少女は目を光らせる。「あたしがクラッカーやテロリストだったらどうする?」

 それはそうだった。

 少女は彼の胸から引き出した〈マップ〉のロックを彼の人差し指を使って解除してみせた。そのままアーカイヴに進んで、隠してあると言っていい彼の母親の映像記録までアクセスする。出会ったばかり女の子にこんな真似を許したと知れば、セキュリティ担当の講師は間違いなく彼に落第点を付けるだろう。どうでもいいことだけれども。

 実際、どうでもいいことだった。だから、今度は意図的に彼は、

「どうでもいいよ」と繰り返した。

 少女はまた、大人びた笑みを浮かべた。坊やはこれだから仕方がない、と言わんばかりの笑み。

 けれど、どうでもいいと思っていることは本当なのだから仕方がない。

 落第なんかはどうでもいいし、彼にかすめ取られるような資産はなかった。信用も将来性もないから金を貸してくれる人間もいない。だから、彼の名前で借金を踏み倒すことも出来ない。ついでに言うと、夢も希望も、明るい未来もなかった。

 卒業後はおそらく、ベーシックインカムで喰っていくことになる。彼みたいなタイプの人間は、無理に働かれる方が行政の負荷が大きいのだ。表だけならともかく、裏側にダダ漏れで資金が逃げていく、無駄な公共事業で働かれるくらいなら、素直に福祉で喰っててくれと行政は思ってる。その方が安上がりなのだ。ずっと前から。

 彼にとってもその方が都合が良い。もはや世界に有意義な仕事なんて残ってない。仮にあっても、それは一握りのスーパーエリートのものだ。彼のような凡人が労働を通じた自己実現なんていうカビの生えたお題目にしがみつけば、消耗品としてあっという間に摩耗し尽くされるだけのことだ。その手の戯れ言に乗せられるほど、彼はおめでたく出来てはいない。

「取られるようなものが入ってなくても、踏み台に使われるかも知れないよ」

 けれど、棘の刺さる感じはある。だから、社会のことは嫌いだ。政府も行政も大人も嫌いだ。

 テロリストが俺の端末を踏み台にするって、結構なことさ。ご自由に。

 この国も、社会も人類も、ついでに地球も滅ぼしちまえ。

 そう思ってる。どこかで、ホントにそうなったら困るなと思いながら。だから。

「どうでもいいよ」とまた繰り返した。

 少女はため息を吐いて突堤から立ち上がった。ワンピースの裾を軽く払う。そのまま海の方を見つめる。海は鉛色が沖になるほど濃くなっていって、水平線のところ、墨の色に変わろうかと言うその直前で急に白くなっている。晴れ間なのかも知れない、その隙間に目を向けて少女は動かない。

 彼は少女を見上げた。

「なんか食べよ」

 返事なんか待たずに突堤を戻っていく。彼はこれ見よがしに舌打ちをしてから立ち上がる。おきまりのように沖を見て、5まで数えられなくて3で少女を追いかける。

 砂の上を滑っていく少女の後ろ姿は白くて、思っていたより小さい。

 彼女の後ろ姿を見たのはそれが初めてだと彼は気付く。出会ってから1時間なのだから、そんなものかも知れない。

 その更に半時間前に彼は宿を追い出されていた。もう少し寝ていたかったのだが、宿泊は十時までだった。自走式の清掃ユニットは文句を言う気になる相手ではなかった。怖いわけではない。けれど、ユニットの滑らかな表面には言葉が引っかかる隙間がない。抗議をする前に空しくなってしまう。

 小さなリュック一つを持って彼は宿を出た。彼は旅行中だった。資金は未成年者給付金を1年分、丸々当てた。学校と父親には許可を取った。別に何も言われなかった。無許可で行ったならどうなっただろうと考えてみた。やはり、何も言われなかった気がする。

 旅行に行ってみたいと考えた理由は忘れた。もしかしたら最初からなかったのかも知れない。人に訊かれたら海を見たかったと言うつもりだが、本当に口にしたら、多分後悔するだろう――あまりに凡庸だから。

 宿を出て、見上げた空は鉛色だった。

 当惑している自分に、彼はそのとき気付いた。行く当てがなかったからだ。夏にはまだ早い海辺の街は肌寒く、面白くことなど何もありそうになかった。坂を下り始めてから、海に向かっていることに気付いた。なら、そうするしかない。

 不規則にくねる坂道はだらだらと長く、潮の強い香りがした。残念なことに、それは決して心地よいものではなかった。坂の両脇には民家が並んでいた。皆貧相だった。薄暗く、住人の姿は見えない。代わりのように、軒先からは異様なまでに繁茂した植木があふれ出ていた。植物性のモンスターに乗っ取られた無人の街、そんなことを彼は想像した。

 最後の角を曲がり、海が見えた。そこで彼は立ち止まった。

 目元が涼しいとはこういうことを言うんだろうな、と自分に向けられた目を見て、彼は最初の印象で、そう思った。

 まるで彼を待ち受けていたように、少女がそこに立っていた。

 少女は白のワンピースにブラウンの鞄をたすきに掛け、素足を同じ色のフェイクレザーのサンダルで包んでいた。黒髪はあごのところで切り揃えられて、裾が内に丸まっている。キノコみたいと言えばイメージが湧く。

 そして、驚くほど彼の母親に似ていた。

 多分〝神様〟がいけないんだろう。彼が描くマンガの主人公たちは、無免許の天才外科医どころか、十万馬力のロボットでさえ、みんなマザコンだった。その影響下で昭和の少年主人公たちはみんなマザコンになった。今でも、その正統の系譜は受け継がれていて、もはや、生身の少年たちでさえ、気を抜くとそんな風に振る舞ってしまう。

 それに彼の場合はそんな風に振る舞って許されるだけの理由があった。本当に母親と会ったことがなかったからだ。

 今の彼と同じくらいの年齢だった彼の父親は、ほとんど行きずりで彼の母親と知り合い、子供まで作った。その子、つまり彼を父親の元に残して、彼女は姿を消した。それは本当に姿を消すという言い方が相応しい、鮮やかな去り際だったそうで父親は今も母親のことを「失踪した」とは言わない。

 交差する双つの円弧が一瞬だけ交わって、また離れていくようにとか、なんとかかんとか。

 それは身も蓋もなく言ってしまえば、母親が極めつきの美少女だったことを意味した。

 彼もそれには同意する。もし、残された映像続記録が本当に母親のものなら。彼の父親のような、何の取り柄もない青年が、こんな美少女と結ばれたなら、その時点で一種の奇跡だろう。

 とは言え、母親の話として、その手の〝伝説〟を散々聞かされれば、たとえその気がなくとも、少しは変になる。しかも、映像記録そのままの美少女が目の前に突っ立っていたのだ。彼の言動が少々ぎこちなくとも、それは仕方のないことだった。

「なに、ぼけっとしてんの?」

 腕を組んで眉を吊り上げて、少女は言った。まるでそこで待ち合わせてもしていたかのように。

 返事を彼はしなかった。出来なかったが正しいかも知れない。代わりに、彼はあごを突き出した。少女から視線を外すと、鈍色の空の一角が見えた。視線は固定した。そうでもしないと間違ったところを見てしまう、そんな確信があった。

 何も言わずに少女の前を行き過ぎた。肩のこりそうな姿勢のまま、しばらく行って気が付くと、少女が付いてきていた。彼が立ち止まると少女も立ち止まった。振り向いてにらみつける。

「なんで、付いてくんだ?」

「何のこと?」

 少女は空とぼけた。

「俺の後を、どうして、付いてくんだ?」

「このあたしが?あなたの後を?ふーん。自意識過剰って知ってる?」

「うそつけ。ずっと俺の後を付いてきてたじゃないか」

「単なる偶然よ、偶然。あたしが行きたいと思ってる方角に、あなたが偶々、先に進んでっただけのこと、それだけ。解った?」

「じゃあ、次は何処に行きたいんだ?」

 少女は海を見た。「うーん。突堤かな」

「分かった。それなら俺は突堤なんか行かない」

「バカみたい」

「誰がバカだ」

 少女はそれには答えなかった。海沿いの土手を見上げている。その上の道路を黄色のEVが走っているのが見えた。ほんの少し目付きが険しい。

「どうした?」

 キュッと首を回すと少女はいきなり彼の手を取った。

「行こ」

 会話が途切れる前にそんな算段が出来上がっていたかのように、少女は彼の手を引っ張って突堤に向かった。数歩引きずられただけで彼の方もそんな気分になっていた。抵抗する気は一瞬のうちに霧散した。

 彼女が行きたがった突堤はコンクリートで出来た飾り気のない箱で、鼠色の海に向かって真っ直ぐに伸びていた。側面では波が白く泡立っている。

 少女と上に出ると風が強くなった。目に見えないほどの細かい飛沫が時折降り注いだ。

 少女の髪が風に吹き散らされた。ワンピースの裾が風を孕んで膨れあがる。少女は気にしなかった。風に向かって顔を上げて、大きく息を吸い込んだ。

「ホントの海の近くって、案外、潮の匂いってしないね」

「町の中の方が、坂道の方がした」

 そう言いながら、彼は突堤の角に腰を掛けるようにする。ふと、のぞき込んでみた海は垂直に落ちていて、波は大きくうねっていた。落ちたら危ないかも知れない。角を離れかけて、少女の視線を感じた。素知らぬ顔で座り直す。

「海は始めて?」

「ううん」と少女は首を振る。「昔、海辺で暮してたこともあるし」

「どのくらい?」

「うーん。全部で20年くらいかなあ」

 彼は軽く吹いた。

「20年って、君、まだそんなに生きてないじゃんか」

 突っ立ったままの少女は得体の知れない笑みを浮かべて彼を見下ろし、それから土手をまた見やった。

「そうだね」

 少女は足下を見た。何かが光っていた。多分瓶の欠片だった。かなり大きくて鋭く尖っている。あぶないと言うより先に、少女は両手を広げた。そのまま真後ろへ倒れ込む。ガラスの欠片が植わっていなくても、コンクリートに後頭部を打ち付ける。

 彼は何も出来ず、思わず目を閉じた。悲鳴の類いは聞こえない。恐る恐る目を開ける。

 少女は無事に突堤に横たわっていた。どうにかして受け身を取ったらしい。首を捻って彼に微笑みかける。きらきら光る欠片越しの笑顔。

 彼は何も言えない。少女は笑みを消し、顔を戻す。

「あーあ」

「冷たいだろ」ようやく彼は言う。欠片は見ないようにする。

「うん」

「なら起きろよ」

「うん」

 もちろん、少女は起き上がったりはしないから、彼の方が身体を少し倒す。腐った毛布みたいな雲の腹を見上げている少女の横顔を見る。

「君、名前は?」

「そんなこと、訊きたい?」笑いを含んだ声で言われて、彼はむっとする。「教えたげようか」

「知りたくねーよ、そんなもん」

 少女はくすくす、笑いだし、ふと思いついたように彼のポケットから〈マップ〉を抜き取った。簡単にセキュリティを突破し、母親の映像記録にまでたどり着いた――。


 砂浜を離れて少女の向かった先はコンビニエンスストアだった。海岸沿い、道路沿いにある何軒かの一軒で屋外式だ。取り出し口を備えた3Dディスプレイが外壁に沿って並んでいる。他に客は地元の人間らしい小汚いデブが一人だけだった。

 少女は無造作にディスプレイをかき回してカツサンドとLLサイズのホットコーヒーを指定した。支払いは当然のように彼に押しつける。思い切り肩をすくめて見たものの、少女が〈リング〉もしていないことに彼は気付いた。それじゃあ、支払いは出来ない。

 彼も同じものを注文した。自分の好みを知られたくないからだ。どうしてそう思うのかは自分でも分からない。

 ディスプレイには人の良さそうな女の子が現れて頭を下げた。

「恋人さんですか?」

「はい」

 少女が真顔でうなずく。彼はそっぽを向いた。

 彼は「機械を全てくず鉄に」とか「人の手に世界を取り戻せ」とかやっているイカレポンチの仲間ではない。あいつらは頭がおかしい。

 けれど、機械に相手に会話をすることが彼には出来ない。プログラムに話しかけている自分を客観的に想像すると恥ずかしく仕方がなくなる。ディスプレイの女の子は合成画像に過ぎない。チューリング・テストにフルマークで合格したところでプログラムはプログラムだ。CPUは彼に善意も悪意も抱かない。彼らを人間扱いすることは、何というか、偽善的だ。

 かといって、合成映像の店員に絡むバカの真似は尚更出来ない。もう一人の客のデブが今それをやっていた。感心するくらいのしつこさでクレームを付け続けている。

 もちろん、絡まれようが罵声を浴びせられようがCPUが困る訳ではない。グラフィックスアクセラレータが困った顔の店員を描画しているだけのことだ。

 そんなことにも気付けないバカってうっとうしいよな、テイザーでも喰らえよ。

 コンビニのそれとは別にむやみと広い駐車場があって、人気のない、その隅にベンチがあった。たき火にでもするつもりなのか、乾いた流木がその手前に積んであった。海がそれ越しに見えた。相変わらず鈍重な灰色をしていた。見えたところで、ありがたいわけではない。

 背もたれのないベンチの中央に食べ物を置き、その両脇に二人は腰を下ろした。

 彼が手ふきを使おうか、迷っている間に少女は食べ始めていた。大きく口を開けて、精一杯長くパンを口の中に押し込み、噛み切る。もぐもぐやってる間は自分が噛み切った痕をにらんでいる。嚥下が終わったら直ぐさま、口を開いて、押し込んで、噛み切る。これの繰り返しだ。

 よほど腹を空かせていたのだろうか。

 あきれた彼が食べることも忘れていた所為もある。けれど、少女が食べ終えたとき、彼はまだ一切れ目だった。

「食べないの?」

 コーヒーカップに顔を埋めたまま少女が言う。

「まさか」一切れ目の残りを彼は口に押し込んだ。

「こんな街に何しに来たの?」

「……旅行」

「旅行?」

「うん」

「海を見に来たとか」

「まあ、そう」彼は居心地悪げに首を回して「君はどうなの?君こそ、こんな街に何の用だい?」

「君に会いに、君を追っかけてきた」

「ふざけんな」

「間が悪いときに旅行なんかしてくれるから、見つけるのが大変だった」

「だから。ふざけんなって」

 フフフと少女は笑い、またカップに顔を埋める。

「ねえ」

「うん?」

「死んだらどうなると思う?」唐突に訊いてきた。

「なくなる」

 無造作に彼は答える。こんな質問は得意だ。海を見て続ける。

「人間なんて物だから、死んだらなくなる。それだけ」

「魂なんて」

「信じない」

 フフッと少女はまた笑い、「今時流行らないんじゃない?その手の無神論風味の唯物主義って。如何にも薄っぺらな科学原理主義者みたいだし」

「流行りは知らない。けど、魂なんてある訳ないんだから、仕方ないだろ」

「精神もないんだって」

「精神?」

「魂どころか精神もない。人にあるのは肉体だけ。精神というのは肉体に備わった単なる機能に過ぎないって」

「誰が?誰かがそう言ってるんだろ」

「あたしの周りの大人」

「君の周りの?」

「うん」

「君の周りにはそんな大人がいるんだ」

 少女は答えずに笑い、彼はコーヒーを飲もうとした。

 そのとき、肩を小突かれた。

「あちっ」

 コーヒーが飛び散って、彼は飛び上がった。ベンチの後ろにさっきのデブがいた。

「なにしやがんだ。おまえ」

「そこは俺の席なんだよ」

 彼を睨めつけるようにしながら甲高い声でデブは言った。身長は彼より低かったが体重は倍くらいありそうだった。締まりのないぶよぶよした体型で、肌が悪く、垢じみたジャンパーを着ていた。髪は短かったがフケが浮いている。

「そんなこと知るか!」

「俺の席なんだよ」

「うるせえ。そんなことより、あぶねえだろう。コーヒー熱いんだぞ。被ったらどうすんだよ」

「そんなこと知るか」小馬鹿にした口調でデブは彼の真似をしてみせた。

「てめえ」彼はベンチを飛び越えた。「やんのか」

「やんのかあ」

 デブは小馬鹿にした口調のまま、手をひらひらと振ってみせた。彼はキレた。一歩踏み込んでデブの左の頬を右の拳で殴りつけた。拍子抜けするほど簡単にデブは尻餅をついた。そのまま嫌な目付きで彼を見上げる。どこからか〈マップ〉を取り出して広げる。

「ほら」

「なんだ?」

「おまえのやったこと、れっきとした傷害事件なんだよ。訴えてやるからな。おまえと俺の傷の映像は押さえたし、今からアップロードするから」

「はあ?」

 こんなことで傷害と言われてもイメージが湧かない。ただ漠とした不安感が広がって、身体も頭も動かない。

「ちょっと抗議しただけの俺にこんな暴力振るいやがって。ただで済むと思ってンじゃないだろうな。世の中は甘くないんだよ。さあ、どんな刑が下るかな。サイアク懲役だってあるぜ」

「お、おい」

「へへへへへへ訴えてやるぞ。訴えてや」

 ゴンッ。

 デブは膝を突いて頭を抱えた。デブの背後に忍び寄っていた少女は流木を放り出すと、デブが取り落とした〈マップ〉を拾い上げた。

「捕まえてて」

「え?」

 少女は彼をにらみ据えた。「その豚を捕まえてろって言ってるの!」

 殴りつけるような言葉に、従わない訳にはいかなかった。彼は立ち上がりかけていたデブの上から座り込むようにして押し潰した。汚い髪に血が滲んでいた。ベンチに戻った少女はデブの〈マップ〉で何処かのサイトにアクセスしているようだった。かなりな時間、少女は顔も上げなかった。

「放せよう」

「おい、まだか」

「もういい」

 彼が離れると、よろけながらデブが立ち上がった。少女も立ち上がった。コーヒーのカップを手に戻ってくる。〈マップ〉をデブの足下に投げ捨てた。拾い上げたデブが悲鳴を上げた。

「ああああああっ!」

 〈マップ〉の中央に黒い染みが出来ていた。染みはあっという間に広がって、〈マップ〉の全面を塗りつぶした。

「ウィルス?」

 彼の問いに少女はうなずいて

「もう大丈夫だよ。思い切りタチの悪い奴をダウンロードして、ネット人格を丸ごと抹殺してやったから。万一、何処かのクラウドにでもバックアップが残ってても、アクセスも出来なくなってる」

「こんちくしょう」デブが涙声で少女に詰め寄る。

「なんでそんな非道いことすんだよ。なんもかも、なくなっちまったじゃないか。ただじゃすまさないからな。弁償してもらうからな」

 割って入ろうとして彼は変なことに気付いた。少女が手にしているカップの腹に赤い炎のマークが浮き出ている。〈沸騰危険〉のサインだった。少女はカップの追い炊きをオンにしていた。

「ただじゃすまさな・ああああああああっ」

 デブの言葉は途中から絶叫に変わった。

 煮えたぎっているカップの中身をデブの顔面に浴びせた少女はまた流木を拾い上げた。勢いを付けて顔をかきむしっているデブの側頭部に叩きつける。デブが変な声を出して、膝を突いた。そこをもう一発。

「代わって」

 流木を太い杖のように立てると少女は彼の目を見て言った。彼は目に見えない糸に引っ張られているように少女に近づき、流木を受け取った。唾を飲んだ。目の前が不意に赤くなった。

 一声吼えて、彼は流木をデブの背に振り下ろした。5度目か6度目に、流木に縦にひびが入り、あっという間に粉々に砕けた。流木を放り出すと同時に、彼はデブの後頭部を何度も踏みつけた。それから、胴を蹴り上げた。助走を付けて、思い切り横腹を蹴上げると、デブは口から黄色い液体を吹き出しながら、転がって仰向けになった。白目を剥いて、まだ反吐を噴き上げている、その顔を、彼は踏みにじった。足下がずるりと滑った。

 もう一度かかとを上げたとき、デブの顔から皮膚が剥がれかけているのが見えた。だから、足が滑ったのだ。肉から浮き上がった皮膚に靴跡が残っている。途端に、息が出来なくなった。吐瀉物と糞便の匂い。彼はそこから後ろによろけた。なんとか踏みとどまって息を吐いた。

「行こ」

 少女が言った。

「こいつは?」

「懲りたんじゃない」

 少女はデブに近づいた。デブは仰向けのまま泣いていた。血と涙と鼻汁と、更に反吐でぐちゃぐちゃの顔をしていた。

「こっちを見て」少女はまたコーヒーのカップを手にしていた。

「教えて。あんた、何だかひどい目に遭ったみたいだね。どうしてそんなことになってんの?あたしたち、なんか関係ある」

 デブは何度か無駄に口を開け閉めしてからようやく言った。

「・・あ・あじまぜん・・」

「て言うか、あんたとあたしたち、ここで会ったっけ?」

「あ、あっでまぜん」

 少女はうなずいた。それからカップを逆さにした。デブは小さく悲鳴を上げた。

 もちろん、それは彼のこぼしてしまったカップで、中身は入っていなかった。ただ、冷え切ったコーヒーが一滴、デブの額に垂れた。

 少女は彼を見てうなずいた。

「行こ」

 海沿いの道を進む間、彼は口を利かなかった。先に立った少女も振り向こうとはしない。彼は視線を海に逸らした。海は変わらずに灰で、雨は降り出していなかった。

 少女が見せた残虐性はショックだった。けれど、あの場で少女に主導権を握られてしまったことの方が、彼にとってはダメージが大きかった。

 古い男根主義的な価値観だ、と自分に言い聞かせる。それでも、暴力が振るわれるような状況下で、女の子の指示に従うことも満足には出来なかった自分がどうにも情けない。あそこは男の出番だろと、どうしても思ってしまう。

 今も、少女にどう話しかけて良いのかが解らない。少女に「臆病者」とあざ笑われたらどうしようと、そんなことばかりが気になって、デブに致命傷を負わせてしまった可能性とか、誰かに見られなかったかとか、もっと心配しなければならないことに気が回らない。

 それとも、相手を踏みつけようとして気分が悪くなるなんて、自分は本当に臆病者なんだろうか。

「ああいうタイプってさ、根に持つでしょ」少女が不意にそう言った。立ち止まりはしなかった。けれど、身体を捻って顔だけは彼に向ける。

「自分のことは棚に上げて。だから、仕返しなんかする気にならないように。少し念を入れて焼きを入れとかないと」

「解ってる」

 ぶっきらぼうに彼は答える。言うまでもないことだ、自分は当然理解している、そんな顔で答えたつもりだ。出来たかはどうかは分からない。それに思わず付け加えてしまう。

「強いんだな」

 少女はフフッと笑った。

「女は弱し」それだけ言うと、前に向き直った。すたすたと何歩か進んでから、不意に飛び上がるようにして振り向いた。

「されど母は強し」

 少女が楽しげに笑う意味が、彼には分からない。

 そのとき、前方にカーブを曲がって黄色のEVが姿を見せた。あのEVだった。彼の視線を追った少女は、次の瞬間、道路を飛び出していた。土手を駆け下りて海浜を走る。彼も続いた。

「なんなんだ?」

 少女は答えない。ただ狂ったように走る。彼は肩越しに後ろを見た。三人の大人が後を追ってきていた。大男とひょろ長い馬面、一人だけ遅れているのは女性だった。

 追いつかれるのは時間の問題だった。大人の男と少女では速度が違いすぎた。それに少女のサンダルは砂地を全力で走ることには少しも向いていなかった。走り方もおかしくなっている。

 彼は右脚を思い切り砂にめり込ませると、その場で一八〇度のターンをした。

 あいつらを俺が食い止めてやる。

 けれど、大男の方がもう目の前にいた。気が付くと彼は砂に顔を半ば埋めていた。何が起こったか分からない。頭を振るって立ち上がった。

 もう一度弾き飛ばされた。世界が何回転かして、逆さになったまま止まった。その中を馬面が小さくなっていった。馬面は肩越しに彼を見て、嗤っていた。そのことが彼を逆上させた。

 彼は立ち上がって、よろけて、膝を突いた。吐き気がした。

 少女はさっきの突堤に走り込んでいた。半ばまで行かないうちに走り止め、立ち止まって振り向いた。大人たちももう走ってはいなかった。歩いて少女に近づいていく。最初に女性が少女のそばにまで行った。なだめるように仕草で両手を差し出す。少女は反応を返さない。彼の方を見ていた。

 うおっと彼は叫んだ。

 両脚を踏みしめると、全速力のつもりで駆けた。馬面が振り向いて、突堤から戻ってきた。正面から見る馬面は本当に馬面だった。顔も長くあごがはり出し、その広いあごいっぱいに気味の悪い紫色をした、分厚い唇が伸びている。

 飛びかかろうとした彼の顔面を馬面の大きな掌が捕まえた。思い切り突き飛ばされて、彼は仰向けに海岸に転がる。起きようと考えるより先に、胸板を踏みつけられた。身動きも出来ない。

「チーフ」

 いさめるように女性が声を掛けた。顔色の悪い、中年の女性だ。

「あんまり手荒なまねはさせてくれるな」馬面が彼に向かって言った。

「くそったれ」

 胸に掛かる体重が急に増して、息が出来なくなった。か細い悲鳴が漏れる。馬面が顔を低く突き出す。分厚い唇がにたりと歪む。

「いきがるのは状況を考えてからにするんだな、ガキ。まあ、ママの前でかっこつけたいのはよく分かる」

「チーフ!」

 女性の声が更に尖った。

「いいんだよ。少しくらいホントのことを教えてやった方がこのガキも大人しくなる。なんにも分かんないままだと逆に何時までも引きずるんだ」馬面は彼に向かってまた顔を突き出した。

「教えてやるよ。あのコはな、おまえのホントの母親なんだよ」

「ふざけんな」彼は手足をばたつかせた。

「それがふざけてないんだな」またにたりと笑う。

「生化学の分野で最大の金脈は何だと思う?言うまでもなくエリクシル、不死不老の妙薬という奴だ。この分野で最大のブレイクスルーが生じたのは今から半世紀近く前のことだ。そして三〇年ほど前には最初の臨床試験の準備が整った。しかしだな、ぼうやが幾らバカでもこんな話をそうそう大っぴらにはできっこないくらいのことは分かるよな。誰も彼もを不老にしてやる訳にはいかない。そうなりゃあ、してもらえない奴らが黙ってるはずはない」

 馬面は声を上げて笑った。

「だもんで、最初の臨床試験は極秘で開始された。あのコはその最初の試験体の一人なんだ」

 首を巡らせて馬面は少女を見やり、彼も精一杯顔を上げた。

「十代から五十代まで、各世代毎に十名ずつ。それとどうしても待てない、リスクは覚悟って言うお偉いさんが何人か。いるだろ。歳の割に元気すぎるっていう財界人や科学者が」

「誤解しているかも知れないけど、わたしたちは法的にはもちろん、倫理的にも問題のあることをしているわけじゃないの」

 突堤の上を気にしながら女も戻ってきて言う。うつむいた少女は大男に手首を捕まれていた。

「あなたのお母さんは秘密裏にだけど、正当な募集を受けて、自由意思で実験に参加したの。リスクは理解しているし、不老が知られないよう、数年毎に転居をして人間関係を一新しなければならないことも納得していた」

「じゃあ、なんで」彼はまたもがいた。

「問題が生じたのよ。十代の被験者にだけ。他の被験者には全く問題はないんだけど」

「つまりな、十代の被験者は全員、ここの」馬面はこめかみをゆびさして「ネジが抜けちまったんだ」

「チーフ」

 女の硬い声を馬面は意に介さない。

「現れ方はみんな違う。おまえの母親は何かの弾みで攻撃性のスイッチが入ると抑制が利かなくなるんだ。おまえもさっき、駐車場で水ぶくれを半殺しにするあのコの手伝いをしたろう。まあ、気持ちがよかったけどな。あの糞袋が自業自得で痛い目を見るのは」

「他者を傷つけることに対するためらいがまるで感じられないの。今の彼女が他人を攻撃しないのは単にその必要がない場合に限られるわ」

「仕方がないから俺たちは隔離を検討し始めていた。さすがに人死にを出されると拙い。それに気付いたのか、あいつめ、逃げ出しやがった。もっとも、逃亡の理由がおまえに会うことだと見当が付いてからは簡単だった。知らないだろうが、おまえも俺たちの監視下にあるんだぜ」

「あなたは興味深いテストケースなの。理論上子孫に影響が出ることは考えられないから、それほど重要視はされてない、まあ参考程度だけど。データがあって困ることはないから」

「帰ったら父親に訊いてみろ。おまえの親爺はおまえのデータで俺たちからずっと金を受け取ってたんだ。ま、これからは精々おまえも協力してくれ」

「あなたにも謝礼を出してもいいわ。大した額じゃないけど」

「だから、おまえが気まぐれを起こして、こんなド田舎をうろついてたりしなければ、おまえとの接触前にあのコを確保できてたんだ」

「教えてくれ」

「あん?」ようやく、馬面は脚を彼からどけた。

「どうして、あのコは」母さんは、とはさすがに言えない。「おかしくなったんだ?」

「それが解らないから苦労してる」

「幾つか仮説はあるわ」女が腕を組んだ。

「他の世代での試験体に問題が発生していないことから、老化抑制技術そのものに欠陥があるとは考えにくい。だから二次的な要因、ことに心理的な物だという説が有力なの」

「心理的って?」

「歳を取らなくなるってどんなイメージ?例えば五〇年生きた人はどうなると思う?身体が十代のままでも、心は壮年になっている。そんな感じでしょ。実験開始時のスタッフもそう考えていたの。でも、精神なんて肉体の一部に過ぎなかった。肉体が固定されると精神もまた固定される。身体が十代なら心も十代のまま。何年生きようと壮年期の安定を心が得ることはない。例えば、あなたの母親はもう三〇年の間、十七才の不安定な心理を抱えて生きているわ」

 女は冷たい目で彼を見た。

疾風怒濤シュトゥルム・ウント・ドラング。あなたは丁度そのくらいの歳だから解るでしょう。十七才が良い時期だなんて、それは歳を取って思い出したときにだけ言えること。十七才であると言うことは嵐の中で翻弄されるようなもの。人の心はそんな嵐が何時までも続くことに耐えられない。永遠に翻弄され続けることに耐えられない。結局、それだけのことかも知れないわ」

「俺たちに聞かされた話、話したいんだったら、誰にでも話せ。誰も間に受けやしないがな。まあ、試してみるなら」

 そのとき。

 咆吼が聞こえた。

 全員がその場で飛び上がって、突堤を見た。

 少女が叫んでいた。その叫びは到底人間のものとは思えなかったけれど、出所は少女だった。少女は白目を剥き、あり得ないほどの大きさに口を広げて、ほとんど頭が突堤に付くほど身体を海老ぞらせて叫んでいた。

 口から泡を吹いて、少女はそのまま後ろに倒れた。強ばったからだが痙攣を始めて、バネ仕掛けのおもちゃのように宙に浮いた。

「ちくしょう。てんかんの発作なんて初めてだぞ」

「そんな、脳に機能障害が出るなんて。技術の安全性が」

 彼のことなんか忘れて、二人は突堤に走った。力仕事が専門なのだろう大男は対処の仕方が分からないらしく、呆然と立ち尽している。馬面が少女の頭の脇にしゃがみ込んだ。

「緊急の医療ユニットを持ってきてくれ、それから」

 馬面が女を見上げたときだった。少女の右腕が独立した意思を持つ別の生き物のように宙に伸びた。そして。

「あ」

 馬面が首を押さえて中腰になった。押さえた手の指の間から、ガラスの欠片が生えていた。そして、血が噴き出す。灰色の空と灰色の海を前にそれだけが鮮やかに赤だった。

「あああああ。ああああああああ」

 跳ね起きた少女は馬面の頭をつかむと顔面をコンクリートに打ち付けた。二度、三度。その度にゴン、ゴンと言う音が彼のいるところにまで響いた。

 悲鳴を上げた女がよろけて、後ろに倒れ込んだ。そのまま這って逃げようとする、その腰を少女が突き飛ばす。海に落ちた。

 専門家のはずの大男が後ずさっていた。

 少女は大男を見、ただ口を大きく開けた。突き出された男の腕を這い上がるようにして、少女は男の顔に噛みついた。

 そのとき、彼は逃げ出した。

 人気のない海辺を何処までも走って逃げ出した。

 彼は少女が「逃げて」と叫ぶのを聞いたような気がしている。もちろん、嘘だと頭の片隅では分かっている。大男に噛みついていたのだから。

 仕方がないことなんだろう。

 人は自分自身の本当と簡単に向き合えるようには出来ていない。

 少なくとも、恋人か、あるいは母親が、おそらく彼のためと信じて命懸けで闘っているときに、彼女を見捨てて一人だけ逃げ出すような自分には。

 怖くて、怖くて、どうしたらいいのか分からず、一目散に修羅場から逃げ出してしまうような自分には。

 彼が信じていた自分はそんな自分じゃなかった。

 けれど、彼は何処かで、例えばこの砂浜の果てで、自分に向き合わなければならない。

 そう、〝大人〟にならなきゃいけない。

 何故なら、彼は〝大人〟になれないから。彼も少女と同じ思春期アドレサンスの囚人だから。まだ気付いてはいないけれど。

 だから、〝大人〟になるしかないんだよ。

 笑えることだが、この彼の経験がヒントになって、〈抗老化技術に起因する若年性精神障害〉への有効な対処方が産み出されることになる。だから、抗老化学会報のバックナンバーを漁れば彼の名が見つかる。

 むろん、今の彼の知ったことではない。それよりも。

 さよなら、十七才。

 彼はまだ走ってる。

 雨は降り出しそうにない。海辺は何処までも続いている。

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アドレサンスの牢獄 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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