2
何だかさわさわと、何かが顔に触れる感触で、明信は目を覚ました。さわさわしていると感じたのは、もるすけの顔だった。
「起きた?」
もるすけは例の甲高い子供のような声でそう尋ねた。表情はよく分からないが、心配していたらしい。
「おにーさんだけ落ちたの。べちゃっていったの」
「……そ、そうか」
モルモットたちは全員無事着地に成功したのに、明信は一人で惨めに地面に落ち、そのまま気を失っていたようだ。
恥ずかしさを隠すために、明信は強引に話を変えた。
「もるすけ、ここはどこだ?」
慣れてきた目に飛び込んできた光景は、明信を驚かせるのに充分だった。目の前には森が広がり、後ろには地平線が見えそうな草原があり、ちょっと先には山のようになっている岩場が存在した。
今明信が倒れていたのは、どうやら牧草の畑らしかった。近くに生えている一本を手に取ってみると、見慣れた形をしている。
「ティモシーだ……」
モルモットやウサギたちの好きな牧草である。乾燥していないのを見るのは初めてだ。
そして何よりも彼を驚かせたのは、先ほど満月が見えていた空に、月のようにぽっかり浮かんだ青い地球だった。
「ここ、私たちの国」
もるすけは、堂々と胸をそらして(というか、顔が上を向いているというか)そういった。
「モルの国?」
「ううん、草を食べる国」
どうやら彼女は、草食動物の国だと言いたいらしい。
そういえば、森の中には駆け回るウサギたちがいるし、岩場にはチンチラがいるみたいだし、牧草の畑はあちこちがさがさ動いている。
ここには天敵がいないらしい。草食動物たちが楽しげにウロウロしているのが、何とものどかだった。
でも何故地球があんなに綺麗に青く見えるのだろう。印象に残った者は夢に見やすいと言うけれど、最近こんなリアルな地球を目にしたことがあっただろうか。
……そもそもこれは夢なのか?
色々な疑問が頭に浮かんできて、明信は頭を抱えた。写真でしか見たことのないような立派な地球の姿に感動する余裕もない。
「おにーさん、草食べる?」
そんな明信を見て、もるすけが心配そうに声を掛ける。どうやら何かを食べると元気になると思っているらしい。
さすが草食動物だ。
「大丈夫」
そうはいってみたものの、全然大丈夫じゃない。草を食べて落ち着けるものならそうしたい。
はっきりいって明信は戸惑っていた。来てみたものの一体何をどうしたらいいか分からない。
もるすけに何をしたらいいか尋ねると、彼女は不思議そうな顔をした。
「おにーさんは、何かしてなくちゃいけないの?」
「え?」
もるすけの言葉は、ある意味衝撃的だった。
そういえば、彼はいつも何かに追われていたような気がする。それが大学の課題だったり、家賃の催促だったり……。
「ここは、好きなことをしてていいところだよ」
「好きなこと……」
そうはいわれても、彼にはいまいちそれが思いつかなかった。
やらなくちゃいけないことは、いつも沢山あったが、好きなことをしてもいいと、いわれると分からない。
考えてみても特にやりたいことは見つからなかった。意外と自分は、余裕のない人間なのかも知れない。
「好きなこと……何だろう」
呟いて口に出してみた時、ふと自分の部屋で埃をかぶっていたギターのことを思い出した。大学に入ってから、バイトに勉強にと追われて来た彼は、その存在をずいぶん長いこと忘れていた。
彼は高校時代に少しギターを弾いていた。父親が昔弾いていたという古びたフォークギターで、今はもうすっかり弾く気もしなくなっていた。
何故それを思い出したのかは分からないが、何となく弾いてみたくなったのだ。
「もるすけ、ギター……なんてないよな」
それに対するもるすけの答えは、想像通りだった。
「ぎたーって何? 美味しい?」
「言うと思った……」
モルモットに食い物と寝床以外の何が分かるというのだ。
仕方なくゴロンと横になって大きく伸びをした。
青い地球が本当に綺麗だ。宇宙に出た人は、ほとんどがその地球の美しさに人生観が変わるというが、何となく分かる気がする。
「ぎたーってこれ?」
ぼんやりしていた明信の耳に、もるすけの声が唐突に聞こえた。もるすけは何かの上に乗っかって、糸をびょんびょんと前足で引っ掻いていたのだ。
起きあがってみると、それは明信が父親から貰った、あの古びたギターだった。
「これ、俺の!」
びっくりしてギターを手に取ると、飛び降りたもるすけは、不思議そうな顔でギターを眺めた。
「美味しい?」
「美味しくない!」
明信はギターを眺めて、それからもるすけに見せた。
「いいか、これは歌を歌う時に使うもの……っておい!」
気が付いた時には、もるすけがフレットを囓っていた。
「美味しくない……」
もるすけは呟いた。
「当たり前だ!」
ものの見事にフレットの五つ目くらいに、二本の歯形がついた。さすがげっ歯目(しもく)、歯が丈夫だ。でもまあ、もともと古いギターだから、今更モルモットの歯形ぐらいどうって事はない。
付いた歯形をさすると、ため息をつきつつギターを構え直した。動かなくなった指で何とかコードを押さえて弾いてみる。
上手く音が出ない。数年前に好んで弾いていた曲さえ思い出せない。
「あ~あ、こりゃ駄目だ」
そんな明信の様子をしばらく興味ありげに眺めていたもるすけも、飽きたらしく、牧草を食べに行ってしまった。
一人になってギターに向かっていると、高校時代のことを懐かしく思い出した。
あの頃は何でも出来る気がしていたけど、いざ親元を離れて一人暮らしをしながら大学に行っていると、案外出来ることは少ない。
彼は自分の夢のために必死で勉強をしているが、それだってどうなる事やら。平日はコンビニ、土日はこの動物園のバイト。バイトと大学の往復が明信の毎日だ。
奨学金を貰っているとはいえ、金のかかる大学生活は想像以上に辛かった。大学に行ったらあれをやろう、これをやろうと思い描いていたものは、大半が実現していない。
そんな生活だから、ギターなんて弾いている時間はなかった。
唯一思い出せそうな曲を弾こうと、再びギターを構える。それは長渕剛の『乾杯』だ。初めて父親のギターを悪戯していた時に、父親が教えてくれたもので、これを最初の練習曲にしていたのだ。
動かない指、押さえられないコードに四苦八苦していると、ふと周りに沢山の気配を感じて手が止まった。周りには沢山の動物たちがいた。勿論もるすけもいる。
聞き慣れない音に興味を示して、みんな集まって来てしまったらしい。さすが草食動物、耳がいい。
「恥ずかしいから注目しないように」
もるすけにそういうと、彼はおさらいしていた『乾杯』をゆったりと弾き始めた。歌詞はデタラメだ。一番と三番が混じったり、二番が一番だったり様々になってしまった。
いつもはピックを使っていたのだが、ここにはないから仕方ない、指で弾く。それも初めてだから、なかなかうまく行かない。
でもモルモットや他の動物たちは、あの草食動物特有のつぶらな瞳で、じっと注目している。いくら人間ではないとはいえ、こんな下手くそな演奏では気恥ずかしい。
やっとの思いで弾き終わった時、動物たちは、一斉にジャンプした。どうやら拍手というものが存在しないので、面白かったことを全身で表現してそうなったらしい。
ぴょこぴょこ飛んでいるもるすけは、何となく楽しそうだ。
人を(動物だが)楽しませることは、楽しいことだと、明信は久しぶりにそう感じた。
「面白かった」
もるすけがそう言ってくれたので、明信は少し安心した。
そしてもるすけはこのお礼に、いいところに明信を連れて行ってくれると言いだした。
どこに行くのか尋ねても、いいところだとしか言わずに、トテトテと先を行く。その歩調に合わせて明信もゆっくり付いていった。
しばらく歩いたところで、もるすけは足を止めた。明信も足を止め、今まで足下のもるすけを見るために俯いていた顔を上げた。
「あ……」
思わず感嘆の声が漏れた。そこにはでこぼことしたクレーターが広がる、砂漠のような風景があったのだ。その姿に明信は見覚えがあった。この姿は、明信が知る月そのものだ。
「ここね、半分がこうなの」
何気ない口調で、もるすけがそういった。ということは、今までいた国は月の裏側? でも月の裏側はすでに調査されて、この月面と変わらない世界が広がっているはずだ。
そういえば月にはウサギが住んでいるという伝説はあったが、モルモットやプレーリードックまでいるとは予想外だ。
呆然と意味のないことを考えていると、もるすけがこちらを見上げて言った。
「満月の夜だけ、ここは別の世界の入口になるの」
「別の世界?」
「満月の夜はね、草を食べる国が出来て、満月が終わると、またどこかに消えちゃうの。その時に帰り忘れたら、草を食べる国と一緒にどこかに消えちゃうの」
もるすけは明信を見上げた。もるすけの言っていることをわかりやすく考えると、満月の時だけこの月の表面に草食動物の国が現れて、満月が終わる前に帰らないと次の満月まで行方不明になるということのようだ。
そういえば、たまにモルモットが一匹行方不明になって、次の月に調べるとちゃんといるということがある。
数え間違いだったのかな? という事がこの動物園にはたまにあると聞いた。
「ここから見ると、お空がキラキラして、綺麗なんだよ。青い星も綺麗に見えるの」
もるすけはじっと地球を見つめた。その目には案となく寂しさが漂っているような気がして、明信は不安になった。
「もるすけ、お前、一緒に帰るよな?」
思わず口にしてしまったその言葉に、もるすけは寂しそうに明信を見た。
それだけで何となく分かってしまった。自分がここに来た理由と、もるすけのことを。
きっともるすけは、毎日忙しく、もるすけに愚痴をこぼしていた明信に同情していたのだ。だから好きなことだけして暮らしていいところに連れてきたのだ。
可愛がってくれたお礼に、お別れとして……。
でもそれは口に出す必要がないことのように思われた。遮る大気のない星の空を、一人と一匹で眺めて、青い星に思いを巡らせているだけでいいような気がした。
モルモットは元来忘れっぽい動物だから、いつかひょいとあの飼育小屋に戻ってくるかもしれない。そんな気がした。
「もるすけ、俺、ギター弾いてやるから、お前歌えよ」
「人間の歌分からないの」
「いいから」
ギターを構えて、さっきと同じようにたった一つ覚えている『乾杯』を弾いた。今度は明信は歌わずに、もるすけに、任せてみる。
もるすけの歌は、ただ単にきゅうきゅういっているように聞こえたが、不思議と曲に合っていたような気がした。
クレーターの向こうから、朝日が昇ってきた。
こうして満月の夜が終わった。
翌日の朝、明信はようやくモルモット小屋から解放された。不思議と疲れはなかった。これもモルモットたちのおかげだろう。
そしてやはり、小屋の中にもるすけの姿はなかった。
あの出来事を境に、明信はモルモットたちみんなから、一応仲間と認められたらしく、あまりビビられなくなった。でも、もるすけのように、自分から撫でてもらいに来る子はまだいない。
それから数週間が経った。
忙しい一日が終わって疲れた体を引きずりつつ、明信はいつも通りに自分の部屋に戻った。何もする気になれず、座り込んで見上げた窓の外は、あの日と同じく見事なまでの満月だ。
少しだけあの月の国の光景が懐かしくなって、古いフォークギターを手に取った。モル達と一緒に歌ったギターだ。
そのギターのフレットにはもるすけが囓った跡がしっかりと付いていた。どういう理屈でかは分からないが、あの時弾いたギターとこのギターは同一のものらしかった。
それが分かってから、このギターは常に部屋の隅に飾ってある。これだけが、あの日のことが夢ではなかった唯一の証拠なのだ。
明信はその囓った後をそっと撫でてみた。
「寂しくなったよ、もるすけ」
明信が呟くと、それに答えるように部屋のどこからか、がさがさと物音がした。一瞬ゴキブリかと思って身構えたが、何だか音が大きい。
しばらく耳を澄ませて聞いていると、生物と思われるそれは、何かに引っかかっているようだ。
恐る恐る近寄っていくと、ガラスのコップに入れた水がこぼれて床に水たまりを作っている。
そこにはあの日と同じく満月が映っていた。
まさかと思ってよく見ると、水たまりから小さなピンクの鼻の穴と、ピンクのくちびる、ヒクヒクと動く髭が覗いていた。その生き物は水たまりから、ゆっくりと窮屈そうに這いだしてきた。
白と茶色と黒の顔……。
「もるすけ!」
もるすけはきゅいと鳴くと、軽く片目をつぶって、ウインクした。
月夜の散歩 さかもと希夢 @nonkiya-honpo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます