第26話 ネゴ・パブリッシング

 我輩は本である。今回はネゴである。


 あまりダイレクトに語ると刺激が強すぎて書くのも読むのも辛いと思うので、オブラートに二重三重に包み込んだ上でぼんやりとした感じで進めていきたいと思う。


 出版界は価格が曖昧な世界である。相場など有って無いようなものである。印刷・製本カテゴリにおいては一応工数に応じた単価が協会によって提示されているが、それはあくまで値引き前標準価格である。そして値引かれない見積や請求書などというものは存在しないし、受け入れるクライアントも存在しない。それが編集・制作カテゴリであれば尚更である。


 GMTという言葉をご存知だろうか。ご存知ではないだろう。当然である。いま、我輩が初めて言ったからだ。GMTとは出版の編集・制作カテゴリのギャランティ・ネゴシエーションの際によく使用される3つの言葉の頭文字を並べたものである。TKGならたまごかけ御飯であるし、GTRだとなんか速そうなクルマである。世間一般にはGMTといえばグリニッジ標準時の略号であるが、出版界でグリニッジ標準時などはそもそも用いられないので構わない。


 G。それは「グロス」である。つやつやしたリップのことではない。対義語は「ネット」。インターネットのネットではない。これも業界によって微妙にニュアンスが違うのだが、我輩に関係のある領域であるとこれは「量に応じて単価の倍数で」ということになる。ページ単価が2500円の仕事を224ページやったなら、ネットで56万円ということになる。一方グロスは「単価とかまあ気にしないで、全体としてこんなぐらい」という意味だ。


 用例としては「ストレイシープさん、今回はちょっと予算厳しくなってしまって、グロスでお願いしたいんですが、トータルで48万でお願いできませんか」などと使う。この額だと単価が2143円ぐらいなので、結構な値引き要求になっている。単価で示すとだいぶ損した感じに聞こえてしまうので、トータル額という大きな金額に言い換えることで、なんとなくいっぱいもらった気にさせてしまうというネゴシエーション・テクニックである。たとえば同じ服が楽天で2500円で売ってるのと2143円で売ってるのを見たらどうしたって後者を選ぶが、ボッタクリバーで56万請求されようが48万請求されようが、どっちも嫌だというのと同じことだ。うむ。説明はこれでいいな。ちなみに楽天とかで妙に安い場合は、送料が妙に高い場合があるので注意が必要だ。


 次行こう。Mである。それは「丸めて」である。世間一般に「丸める」といえば、反省の意思表示のために坊主頭にすることを言うことが多いが、価格交渉界では端数の切り捨てまたは切り上げのことを言う。四捨五入に近いが、そこまで線引きが明確ではない。多くの場合、値引き交渉であるので、端数切り捨てに用いられることが多いが、切り上げに使うこともある。というか使っていい。むしろ使えよ。


 用例を紹介しよう。「いや、48はちょっとさすがに厳しいので、丸めてもらって50でいいですか」などと使う。50万という丸い価格に対して、2万円分凹んでいるので、そこを盛って丸い感じにしてくれという増額要求である。56万ぐらいの本来価格にに対して8万円の値引きを要求されたのだが、それをそのまま受け入れるのは精神的苦痛が甚だしいので、せめてもの抵抗として2万円の増額を提示したわけである。ただし、この場合ユニクロはそもそも須藤ヒロシがそのように言ってくることを見越して、48万という数字を出していたのだが。このあたりはボータイ社長直伝のネゴテクである。


 そしてT。Tはタックス! つまり税金である。なんていきなり英語になってるかって? 細かいことは気にするな。語呂が悪かったんだよGMZ。ジーエムジーとか読むとわかりにくいしな。この場合、タックスは消費税を指す。つまり消費税をどうするかという交渉である。消費税は商取引が行なわれる場合、必ず発生する。発生はするが、納めなくていい業者もいる。たとえばストレイシープは納めなくていい業者である。詳しいことは割愛するが、消費税にはそういうお目こぼしがあるのである。ついでに言っておくとストレイシープは法人扱いなので、源泉徴収がない。


「わかりました、じゃあ50万ということで」

「ありがとうございます。消費税は……?」

「あ、込みでお願いします」

「ああー。わかりました。では請求書を送らせていただきます」

「よろしくお願いします」


 ということになる。ストレイシープ代表デザイナーの須藤ヒロシは、多少キツいスケジュールだったものの、仕事に穴を開けずに済んで50万円が入ってくるならいいかということで自分を納得させた。が、1つ大きなミスを犯していた。ユニクロも明確には把握していなかったが、レイコのやった表紙カバーデザインも込み込みでの請求になってしまっていたのだった。


 これに関してはレイコがあとでボータイ社長に怒鳴り込んでどうにか粘って5万円を勝ち取ることに成功した。ボータイ社長はしばらく悩んだものの、須藤レイコは腕の立つデザイナーであるし、ここであまりヘソを曲げられても困ると思い、支払いを受け入れた。ちなみにその後「テクニック7」がシリーズ化されたので、ここでストレイシープとの関係を維持したのは正解だった。


 イラストレーターのニシカエデもユニクロからGMTでのネゴシエーションを受けたが、彼女はまだ交渉経験が浅かったこともあってユニクロサイドの提示額をそのまま受け入れてしまっていた。内心、残念な気分になったものの、その直後にユニクロが退職を切り出すと寂しい気分になり、すっかり値段交渉のことは忘れてしまった。


 ライターのミズシマ某は20万円を提示された。224ページと考えると安いのだが、目次、索引、扉、図版のページなど差し引いていき、さらに見開き単位で考えるとそんなに惨い額でもなかった。ただ、取材に同行した分など勘案するともう少し欲しかったので、ミズシマ某は「2並び」を要求した。つまり「22万2222円」である。ミズシマ某は法人扱いではないので源泉徴収される。源泉額を差し引いてポッキリ20万円が手元に入るようにしろということである。この場合消費税は込みが前提であるが、そもそも消費税を納めないのでそんなのは名目上だけのことに過ぎない。


 印税額はボータイ社長がビー社と交渉して8%となっていた。当初は実用書の相場の5%だったのだが、監修者がビー社都合で2人になったこともあり、10%への増額を要求し、結果として8%を勝ち取っていた。著者扱いになったピンクネクタイに2%、監修者のアライチヒロ弁護士に2%、ボータイ社長の編プロが4%という配分になった。ちなみに編プロの取り分は編集印税と呼ぶ。


 我輩は本である。ちなみに定価は1600円+税。初版部数は4000部に決まっていた。


つづく

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