第25話 ラストチャンス
我輩は本である。ついに色校正までたどり着いた。制作は大詰めであるが、本としてはまだ途半ばである。
営業ニッタが何食わぬ顔で色校正を版元のビー社に届けたので、ガミラス事件が表沙汰になることはなかった。マージン大事。血色良いキャラクターが微笑む、良い出来映えに中年スニーカーも満足気だった。
さて、ところで我輩に関してはそもそも日程がだいぶ圧縮されている。同時期に発売になる本はとっくに色校を戻して、印刷工程へとコマを進めていた。それらに追いつかせるにはここで踏ん張るしかない。誰が踏ん張るか。それは、かのユニクロである。
結局のところ、我輩の内容について最も理解や把握をしているのは担当編集者である編集プロ社員ユニクロだ。監修者の税理士ピンクネクタイや弁護士アライチヒロでもライターミズシマ某でもないし、ましてやイラストレーターニシカエデでもなければ、デザイン事務所ストレイシープの須藤夫妻でもない。出版元であるビー社編集部の担当者中年スニーカーや営業部タレメ課長でも本の中身はそんなにわかっていない。職務上一通りの素読みは済ませて確認してはいるが、詳細までわかっているわけではない。そもそも他にも仕事がある。我輩のことだけ考えているわけにはいかないのだ。ユニクロの同僚のアキヤマも内容までは知らないし、ボータイ社長もタイトルと進行状況以上のところは興味を持っていない。東京ダルマ印刷の営業ニッタは、印刷上のミスがないかはきっちり見ているが、内容のどうこうまでは興味がない。カミカタ印刷のカミカタ社長はイラストの顔色は気になって見ているが、本文はまるで読んでいないし、アス印刷のアナガワら社員も文字化けや版ズレチェックはしても内容までは頭に入っていない。唯一ある程度内容について知っているのは、ビー社の校閲チームであるが、すでに他の本の作業に入っているので、我輩の内容など忘却の彼方であった。
版元から色校正を受け取ったユニクロに与えられたタイムリミットは、翌17時までであった。現時点で前日の11時であるので、正味30時間ということになる。分に直すと1800分。224ページあるので、1ページあたり8分少々。そう考えると短いようだが、見開きであれば16分なので十分とも言える。とはいえどこかで休まなければ集中力が保てない。みっちり全てのページにその時間が確保できているわけではないのだが、扉や大扉、イラストが多いページなどを加味すれば3時間ほどは眠れるだろう。本文ページもペースが上がってくれば時間圧縮になる。
逆に時間をかけるべきページもあった。目次と索引だ。とくに索引は終盤になって追いかけて作ったので、チェックが十分とは言えなかった。ユニクロだけでは無理があるので、ボータイ社長に相談して2人充ててもらった。編集アキヤマと編集ソガである。編集アキヤマには、最終校正のPDFを元に、索引に羅列した項目の参照先が他にないか確認してもらった。他にあった場合は追加すべきか省略すべきかをユニクロが判断する必要がある。編集ソガは筋トレダイエットの企画を出した新人女子である。本当に筋トレダイエットを実践しているようで、最近急に引き締まった感じがしていた。丸顔メガネなので違和感バリバリであるが、それは我輩には関係がない。ユニクロは彼女に、索引の参照先が正しいかの確認を頼んだ。ただし、最終チェックはユニクロがやる必要があった。ダブルチェックになるし、結局は担当がすべてを確認しなければならないからだ。
もう一つ懸案事項があるとすれば、あとになって追加された弁護士アライチヒロの微妙な指摘であった。最終校正を過ぎたあとでも、ユニクロの元には五月雨式に修正指示が送られてきてた。アライチヒロの生真面目な性格がそうさせるのだろうが、ユニクロにしてみれば少々持て余し気味であった。大半は言い回しがどうの、イラストがどうのという主観的なものばかりなのだが、中にはいくつか法解釈に関する指摘が混ざっているので無視もできなかった。これをどこまでを受け付けるかの判断はユニクロに任されていたのである。
色校正の段階で修正を入れると、修正費用が発生する。すでに8面付け単位で刷版が作られているので、その中で修正が発生すると、1面まるまる出し直しになる。大昔はこの段階ではフィルムであったので、フィルムの一部を切り取って代わりに修正して貼付けるという作業(ストリップ修正)という工程があったが、CTPが主流になってフィルムの工程が省かれたので、今は廃れた。同じ面であれば、何ヶ所修正があっても同じことであるから、1ヶ所でた場合は、他の修正も採用することになる。もし1ヶ所しかなく、その修正内容が軽微であればユニクロの判断でスルーしていた。
結局28面のうち、20面で修正があった。8面温存できたので御の字というところか。ユニクロには知らされていないが、予算としては全ページ出し直し前提で組まれていたので、8面分はまるまるビー社の経費が浮いたことになる。あと20面に関しても値引き要求がだされているので、規定通りの請求にはならなかった。
残り2時間になったところでチェックを終え、カットした色校正に書き込んでいた赤字を、ユニクロは折られていない校正紙に転記していく。修正のない8ページには修正ナシという付箋を貼付けた。修正のあるところは大きく丸く囲い、付箋を貼った。すべて転記を終えたところで、アキヤマに頼んで転記漏れがないかダブルチェックをしてもらった。アキヤマが1ヶ所の転記漏れを見つけ出し、それを追加したところでこの日の作業は終わった。手元にカットしたものを1つ残し、残りを茶封筒に戻して、ビー社に持参した。ユニクロの仕事はあと1つである。
ビー社から営業ニッタに手渡された「色校戻し」は、カミカタ印刷をスルーして、アス印刷の営業アナガワにもたらされた。普段あまり書籍印刷を請けていないアナガワは赤字の多さに「うぇっ」と声を上げたが、営業ニッタが「いつもこんなです」とたしなめたので、それ以上驚かなかった。
翌日の午後になって、アス印刷の校正ルームにユニクロが呼ばれ、修正箇所のチェックを行なった。もう本機校正はしないのでページごとの修正確認ののち、版面全体のインクジェット出力を確認した。最後の1面のチェックを始めたころに、中年スニーカーが顔を出し、ラストのチェックまで見届けてから、次の印刷所へ向かった。
これでもう内容の修正はできない。実はまだ1ヶ所だけ誤字があったのだが、人間は誰も気づかなかった。実はほんの1ヶ所だけキャプションの「遺言書」が「遺書」になっていたのだ。誤字というか脱字なのかもしれないが、これは我輩の読者1500人ほどの誰もが最後まで気づかなかった。どんな本でも1ヶ所はこういうエラーが隠れている。完璧な本など人間が作ることはできないのである。
ユニクロは営業アナガワと営業ニッタに別れを告げて、アス印刷を後にした。最後までどっちがどこの営業かよくわかっていなかったし、今いた場所が何という印刷所なのかもよくわかっていなかった。ただ、印刷所の酸っぱい匂いだけは印象に残っていた。街灯に照らされる夜道をとぼとぼと歩いて、ユニクロはこれからどうしようか考えていた。35歳になるともう転職はできないと聞いた。今ならまだ間に合う。昇給もボーナスもない職場で無駄に歳を食っても何も得るものはないのではないか。住宅街を通り抜けながら、ぼんやりと考えていた。そろそろ引っ越しもしたい。引っ越しついでに転職でもしちゃおうか。貯金はあんまりないけど。駅で黄色い求人誌を手にして読みながら帰った。
翌日ユニクロはボータイ社長に校了の報告をして、それから退職の意思を伝えた。編プロでは入れ替わりの激しい業種ではある。長く務められる人はそう多くない。独立するか転職するか、人それぞれであるが、5年もすればほとんどの顔ぶれが変わっているところも少なくない。ボータイ社長も慰留はしてみたものの、本気で止められるとは思っていなかった。これまでそれで翻意した者はわずかだったからだ。結局これから1ヶ月でユニクロが我輩の後始末と、他の仕事の引継をして、最後の1週間は有給消化をするということで話がついた。
我輩は本である。誤字脱字は1ヶ所だけ残った。
つづく
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