第24話 アスくん、君は馬鹿かね
我輩は本である。いよいよ印刷編に突入した。もうユニクロの出番などない。あっては困る。
まず、入稿データを元に印刷用のデータを作る。何が違うのか。データはデータだろう、と思うのが普通だ。そうだ。今までレーザープリンターでガバガバプリントアウトしていたのだから、そのままやったらんかい、と思うのが普通だ。ところがそうは問屋が卸さない。印刷に使われる機械はそのままのデータは受け付けてくれないのだ。まだ。いずれはInDesignからそのまま出すことができるようになる可能性がないとは言いきれないが、今のところここに1工程挟まることになっている。印刷機メーカーの食い扶持はギリギリで残してもらえているわけだ。
現在のデータは1ページ単位で作られている。これをまずEPSという形式で書き出すところから始まる。簡単に言うと論理的なデータ形式である元のファイルを、強引に全部画像として描き出したものだ。略す前の名称なんか誰も知らないのでエロいポルノはスケベとか覚えておけばよろしい。EPSで書き出された1ページごとの我輩は、FACILISという特殊なソフトウェアで片面8ページ分ずつに組み合わされる。これをギョーカイでは「面付け」と呼んでいる。
ここでEPSの代わりに1bitTIFFしたり、逆にPDFにしたりするケースもある。PDFを使うのは最近主流になっているようだが、こちらはプリントオンデマンドへの親和性が高いので今後需要は延びていくと思われる。ただ、そうなってくるとそもそもPDFの本家はAdobeであるのでうっかりInDesignに面付け機能がついちゃった日は、また1つ出版界の食い扶持がリストラされることになる。FACILISは120万円もするから真っ先に消えていくだろう。ま、我輩には関係ないけど。
なんで面付けなんてことをするのか。話せば長くなるけど、印刷紙の裏表に1ページずつ刷って、ただ束ねて製本するなら、こんな面倒をする必要はない。印刷機の使用料がかさむぐらいで、技術的にできないわけじゃない。ただまあ見積はびっくりする金額になってしまうので、現在のところはもう少し効率化する必要がある。
今回使う印刷機に入るギリギリ大きなサイズの印刷紙の場合、我輩の四六版というサイズなら1枚に8ページ分刷ることができる。裏表で16ページ分である。こうすると印刷機の使用コストが下がるのでオトクだ。ここでやめると1ページ裏表ずつのものをバラバラとたくさん作って1枚ずつとって製本すればいいのだが、そうすると製本コストが無駄にかかってしまう。なんでなのかはまた製本のところで説明するとして、とにかく何ページかまとまっている方が都合がいいのだ。
このページのひとまとめを「折」と呼ぶのだが、我輩の場合は8面付けができるので、16ページで1折になるということになる。大きな紙にまとめて刷って、それを3回折る。広げてみると裏表、天地(上下)が複雑に絡み合う。ここで間違えると5ページめ次が8ページめになってしかも上下逆みたいなひどいことになる。当然刷り直しだ。しかし、120万円のFACILISさえあれば台割に合わせて自動的面付けされるというわけだから、人間が面倒な作業をリスキーにやるぐらいなら、機械に任せた方が安心である。
我輩は224ページであるので、14折になる。裏表合わせて28面ということになる。さらに2色なので56枚の刷版が必要になる。もしも面付けしなかったら448枚の刷版が必要なのだから莫大な請求金額になっているところだ。コスト増は定価の肥大化に繋がる。あるいは制作費の圧迫にも直結する。出版界の発展において、面付けは非常に重要なファクターなのである。
その刷版とは何か。簡単に言うとインキをつけて紙に印刷をするアルミの板である。表面には感光剤が一様に塗ってある。ここに印刷する内容を光で当ててから洗い流すと、光の当たったところだけ感光剤が残るわけだ。この感光剤は親油性があるのでインキが付き、そうでないところはインキが弾かれるので何も付かない。これを紙に押し付けてやれば、版画のように印刷されるという寸法だ。細かいことを言いだすとキリが無いのでこのぐらいにしておくが、印刷屋にしてみれば常識である。が、編プロや版元はなんとなくしか知らない。忙しいので見学になどは行かないし、興味もないからだ。データを収めると数日後に刷り上がって納められる。彼らにとってその中間はブラックボックスであり、マジックなのである。
そのマジックのタネはここ十年ぐらいのあいだで結構な変化があった。かつては面付けデータを一旦フィルムに露光してから、プレート(刷版)に焼き付けるという段階を踏んでいた。なので見積にはフィルム代などというこの工程のものが乗っていたのである。フィルムを経由するので、青焼き校正という段階が存在した。色校正の修正時に時間短縮のために用いられたものだが、印刷機を使わずに修正箇所を確認するために行うものだ。今でも行なわれてはいるが、これはいずれなくなるだろう。
我輩はCTPと呼ばれる手法で刷版が作られた。コンピューター・トゥ・プレートの略であるが、プレートセッターという機械をパソコンに直接つなぎ、面付けデータを直接刷版に焼き付けるという方式だ。工程は減るわコストは減るわクオリティは上がるはでいいことづくめである。この印刷屋ではCTP導入をあまり喧伝していないので、見積は従来方式のまま。坊主丸儲けであるが、導入費用を回収するまではマイナスとも言えるので、これについてとやかく言える者はいないだろう。
この印刷会社は明日印刷株式会社という会社で、営業ニッタの所属する印刷会社ではない。入稿が3日ずれこんだせいで営業ニッタの会社では自前の印刷機が使えなくなり、下請けの印刷ブローカーに話をもちかけ、そこの手配でこのアス印刷が受注したのだ。いわば孫請けということになる。昨日ユニクロがデータを持ち込んだのがここだ。営業ニッタが別件で出先から戻れなくなったので、直接ユニクロに頼んで届けさせたのだが、届け先はビー社には言わないように口止めしておいた。隠すこともないのだが、直接やられてはたまらないから伏せておくのは常識だ。
刷版ができたので、今度は色校正を刷りだす工程になる。色校正と言ってもさまざな種類があって、日程や費用や求められるクオリティでさまざまだ。とくにCTPの場合途中工程が抜けているので、色校正のためにわざわざ特大インクジェットプリンタなどで印刷して見せたりすることがある。厳密には色校正でもなんでもないのだが、内容の確認にはなるのでコストとのバランスを考えてこれでよしとすることも多い。我輩の場合は仮にも印刷の花形である商業出版であるので、本機校正を行なうことになっていた。本機校正とは実際に印刷をする印刷機を使い、同じインキ、同じ条件で試し刷りをするものである。色校正とは本来これを指すはずだが、1回余分に印刷しているのと同じなので、非常にコストがかかる。
今回は2色刷りであるが、1色はスミ。黒一色である。もう1色はDIC179が指示書に書かれていた。DICとは世界最大のインキメーカーであり、179とはそこで生産されるインキの色番号である。印刷のオペレーターは指定の色に合わせてシアン(水色)、マゼンダ(濃いピンク)、イエロー(黄色)、スミ(黒)の4つのインキを混ぜ合わせる。配合表を元に、職人芸による微妙な手加減で見事に指定色が再現されていく。大量の印刷であれば指定色のインキを仕入れるのがいいが、無数にあるインキを在庫しておくのは不可能であるし、書籍の印刷数は、印刷界の中では非常に少ない部類だ。今回は超特急なので日程に余裕がないし、わざわざ取り寄せる必要もないのだ。ここ最近は以前よりも2色印刷がぐっと減っているので、何年かしたらこのような職人芸は失われてしまうかもしれない。それと、2色の上手いデザイナーもまた絶滅危惧種であるし。人知れず消えていく文化もあるのだ。
刷版にインクが馴染んできちんと印刷できるまで印刷機を動かす。100〜200枚ほど刷る。この印刷機は新聞やチラシを刷る回転ドラム式の「輪転機」ではなく、平らにセットした刷版を上下に動かして紙に刷っていくタイプで「枚葉機」という。通称は「平台」。前から言ってる「台割」の台はこの「台」である。ガッシャンガッシャンと我輩の内容が片面ずつどんどん刷られていく。折数分刷版を付け替えて、ようやく印刷を終えた。インキを乾燥させればあとは元請けに納めるだけだ。
乾燥したところで、制作部で内容の確認を行なう。刷り上がりに見本ゲラを重ねて、ペラペラと小刻みにめくって、目の残像現象を応用して、文字化けやズレがないかを確認していく。制作部の担当者は1つだけ違和感があったが、面倒なので気づかなかったことにした。責任を取るのは自分ではないからだ。
刷り出しのうち何枚かは折らずにそのままにし、4セットを製本状態に近づくように裏表二枚に重ねて折っていく。まず大きく縦に折り、横に半分、もう一度半分折る。折ったままの状態のものを1つと、残りの3つは天地(本の上下)と小口(本の外側)をばっさりと断裁した。これで、製本していないだけで、実際の本とほぼ同じ状態である。片面印刷なので厚みは倍である点が違うぐらいだ。アス印刷の営業アナガワはそれらをすべて無地の巨大なクラフト封筒に突っ込んで、印刷ブローカーのカミカタ印刷の事務所へ持ち込んだ。
下請けのカミカタ印刷の応接室では同社のカミカタ社長と東京ダルマ印刷の営業ニッタが待ち構えていた。アス印刷の営業アナガワはわざと息を弾ませながら「お待たせしました」と言いながら応接室に小走りで入っていった。
「どうにか間に合いましたかね」
「ごくろうさん。大丈夫やで」
カミカタ社長がにこやかに営業アナガワを迎え入れた。営業ニッタはどうも、と言って会釈はしたが名刺は出さなかった。おそらくカミカタ社長が嫌がると思ったからだ。ブローカーにとっては元請けと孫請けが直接取引されたのではたまらないからだ。
「では拝見します」
営業ニッタがメガネを輝かせながら色校正を封筒から取り出した。大判のものをばさっと広げて全体を見る。ルーペを取り出して拡大して見たりもしたが、これはハッタリのポーズであり、何かが見えているわけでもなかった。次にカットしたものをぺらぺらとめくっていく。最後に折っただけのものを、スキマからのぞきながらノンブルを確認した。営業アナガワは緊張しながら営業ニッタの一挙手一投足を見つめていたが、カミカタ社長はお茶をすすりながらニコニコと眺めていた。立場の違いは明白であった。
「問題なさそうですね」
「ありがとうございます」
「あっと、見本ゲラはありますか? 念のため」
ああ、はい、とアス印刷の営業アナガワがガサガサとチェックのためにしわしわになった見本ゲラを取り出した。特に異状はないようだ。
ここで、お茶を飲みながら何気なく色校正を手にしてしたカミカタ社長が言った。
「しかしあれですな、やはり遺書の本というのは陰気くさいもんですなあ」
「あ。いやいや遺書じゃなくて遺言書ですよ」
「ちゃうんでっか?」
「違うらしいです(笑)。私も間違えてました」
わははと3人で笑って、その場は和やかな雰囲気に包まれた。印刷業は持ちつ持たれつのお互い様。チームワークが肝要なのである。
「みんな顔が青白くてデスラーみたいやから、自殺の本かと思いましたわ」
カミカタ社長が1人でカラカラと笑った。みなさんぐらいだとヤマトは知らんですかね、などと言っていたが、営業ニッタと営業アナガワは本のイラストと同じぐらい顔が青くなっていたのでそれはまったく耳に入っていなかった。
見本ゲラではイラストはみんな血色のいい感じであるが、色校正では青白い顔になっていた。なぜだ。どこで間違えた?
まず営業アナガワが会社に電話をして社内の仕様書を確認させた。DIC179の記載を確認した。カミカタ社長にカラーチップを借りると、間違いなくブルー系のカラーであった。当然こういう顔色になる。ユニクロが持ち込んだ入稿袋は今営業アナガワが持参していたので手元にある。袋にはデザイナーが用意したと思われる仕様書が入っていた。備考欄にDICの番号が書かれている。アス印刷ではここから転記して社内の仕様書を起こしたのだ。短いセロテープが貼ってあるが、そこに見本チップはついていなかった。
「これは179?」
「119? かも?」
「779の可能性は?」
「119かなー」
営業ニッタが鮮やかな手さばきでカラーチップの綴りをバババとめくる。DIC119はオレンジ系の色だった。
「あ」
アナガワがクラフト封筒の底に落ちていたDIC119のカラーチップを発見した。謎解きはここまでだった。
結局やり直すことになったが、営業ニッタが確保していたマージンをギリギリまで使い切って、どうにかスケジュール通りに色校正をビー社に納めることができた。なのでこの事故は隠蔽され、表沙汰にはなっていない。表沙汰になっていないので、カミカタ印刷から東京ダルマ印刷への請求書は当初予定通りであった。
後日カミカタ印刷とアス印刷の間では、歩引きのありなしと遅延損害を値引くか値引かないかでひと悶着あったが、遅損金なしの代わりに歩引き5%をアス印刷が飲む形で決着した。歩引きとは大阪ならではの商習慣で、なんの根拠もなく請求額から何パーセントかを割り引くものである。なので、大阪系の会社と取引するときは、あらかじめその分を盛っておく必要がある。おっと、我輩は本であるので、その辺の人間の経済活動は知ったことではなかったな。
アス印刷では刷り直し分をまるごとロスしたことになり、あまり美味しい仕事にはならなかった。が、責任の所在が曖昧なままで収束してしまったので、営業アナガワの査定には響かなかった。というかもともと昇給も賞与もないので査定もへったくれもないのだが。
我輩は本である。ちなみにこのエピソードは「ガミラス事件」として、カミカタ社長によって尾ひれをつけられ大いに吹聴されたのだったが、それは我輩には直接関係がない。
つづく
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