第23話 アキレスと亀
我輩は本である。編集レベルでの不確定要素は一掃された。いよいよ入稿に向けて全ての関係者が一気に駆け出す時期である。
アキレスと亀の寓話を知っているだろうか。ゼノンだのアリストテレスだのという古代ギリシアの屁理屈屋がひまつぶしに考えたネタである。
のろのろと歩くドジでのろまな亀を、ハンデをつけてあとからスタートした瞬足のアキレスがダッシュで追いかけるというアレだ。アキレスが猛追してもその間に亀は亀なりに亀基準では前に進んでいる。その分をアキレスがさらに走っても、その間にまた亀は前進しているため、一向にアキレスは亀に追いつくことができないじゃん? アハン? というパラドクスの一種である。
この話は、実際はアキレスが亀を追い越すことができるという事実を加味すると、単に追い越す瞬間までをどんどん細かく突き詰めているというだけであるので、数学的には矛盾しない。哲学的にのみ考える場合、どうなん? という言葉遊びであるので、現実にはアキレスは亀に追いつくし、足の遅い子は瞬足をおばあちゃんに買ってもらってもかけっこで勝てないし、あとはもうお手てつないで同時ゴールするぐらいしか平和的な解決方法はない。あと余談だが、イソップのホラ話のひとつであるウサギとカメではウサギはいくらなんでも寝過ぎている。あれはカメサイドから裏金をもらっている八百長試合に違いない。
我輩の場合、入稿日は基本的に動かせない。工程が進むごとに納期が延びてくれるのであれば永久に編集作業を続けることができるのだが、現実はそんなわけにはいかない。ドイツの詩人・シラーは「未来はためらいつつ近づき、現在は矢のように速く飛び去り、過去は永久に静かに立っている」とのたまったし、英国の劇作家・シェイクスピアは「君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ」と言い放っているし、ドイツのハイパークリエイター・ゲーテも「問:時を短くするものはなにか。答:活動」などと禅問答のような言葉を遺しているらしい。
とかく「時間」というものは、立場と状況によって感じ方がまったく異なるものである。納期前の時間はどんどん細分化され、1時間単位が分単位に切り刻まれ、さらに秒単位に微塵切りになり、編集者の意識は60分の1秒である格闘ゲームのフレームですら認識できるほどに研ぎすまされていく。たぶんこのタイミングでゲーセンに行ければ相当強いと思われる。のだが、身体の動作は高速化された意識には追随してこないので作業は極めてスローに感じられ、精神的な疲弊は加速度的に高まっていくのである。
我輩のような実用書の納期直前ともなれば、関係作業員の時間感覚密度はブラックホールでも発生するのではないかというぐらいに高圧縮される。これが図解本や複雑な工程解説本であろうものなら、現場監督的制作編集者や、不幸な担当オペレーターは極限の苛烈なストレスに晒されることになるが、我輩の場合はそこまで複雑な内容ではないのでまだマシではあった。
ユニクロが帰宅を諦めてから3日めの朝を迎えようとしていた。いつ風呂に行くか迷っているうちに、東の空はもう白んでいた。さすがにこの時間ではサウナに行くにもソープに行くにも中途半端だ。泣いても笑っても夕方にはデータ入稿なので、それまでに全ページのチェックを終えなければならないのだから、今は捨て身で作業を進めていた。関係スタッフの本日の進行スケジュールはこれ以上ないぐらいに細分化されていて、とにかく「朝」までに最後の奥付までの赤字指示をストレイシープに送るのがまず最初のチェックポイントだった。
すでに6章までは昨夜のうちに送ってあったが、第7章の「Q&A」は数時間前に新監修者アライチヒロ弁護士からの大量の赤字校正が送られてきており、相当のボリュームがあった。しかも「これは大丈夫ですか?」「もっと詳しく?」「これはいらないのでは?」などの疑問系の指摘が多く、ユニクロを悩ませていた。本の制作経験のないアライチヒロがこのような赤字を入れてくるのは、本来であれば担当編集のユニクロがあらかじめ想定してしかるべきであるが、今回は人選と交渉をアキヤマに任せてしまっていたので、アライチヒロ本人とのコミュニケーションが十分ではなかった。人となりのわからない相手との遠隔での書面のみのやりとりは一層ストレスを高めていた。
しかも、現時点で監修者変更(実際は追加)を理由に版元が印刷会社と交渉して3日間ズラしているのだから、工程のどこにもマージン自体がもう残っていない可能性がある。いや、残っていないことは確実である。ユニクロは本能的に今日夕方の入稿は本物のデッドラインであると認識していた。これまでにない速度で赤字の疑問に対して類書を確認、ネットを確認、法律の文言を確認した。ひたすら確認していくだけの作業が続く。本来であればピンクネクタイ税理士やライターのミズシマ某に作業を振り分けてもいいのだが、この圧縮されたゾーンの中ではその発想も余力もなかった。
朝9時30分、ついにユニクロは奥付の修正指示を作り上げ、ストレイシープに送信した。次に行なうのはイラストレーターへの修正指示だ。5点ほどで色付けのミスがあったので差し戻して作業してもらうようにニシカエデにねじ込んだ。
10時が過ぎたので、掲載している電話番号すべてに確認の電話をかけた。我輩には法律相談などの番号を10件ほど載せてある。だいぶ昔のことではあるが、ある編プロではちょっと筋のよろしくない事務所さんの番号を間違って載せてしまったことで怒鳴り込まれ恫喝されて示談金というか詫び料を支払う羽目になったこともあると聞いたことがある。電話をかけるときは本の内容を説明して許諾を取るのが本来ではあるが、そもそも本件に関しては掲載に許可はいらないし、電話口のオペレーターに細々と詳細を説明してもしょうもないので、間違い電話を装うのがベターである。電話番号が合っていればそれでいいので、お互い余計な時間を使わなくて済む。幸い電話番号の間違いはなかった。
11時ごろから順次ストレイシープの修正ゲラが送られてきた。章単位で届くのでレーザープリンターで出力して修正漏れがないかチェックする。だいたいは漏れがあるので、指摘して差し戻していく。
正午頃にはニシカエデからの修正が届いたので、内容を確認してストレイシープに送り込んだ。この時点でニシカエデの全作業は終了したので、いち早く離脱することになった。離脱はしたが、その先には一旦止めていた他の仕事があり、そちらに復帰したので決して休息できるというわけではなかった。が、それは我輩には関係のない別の物語である。
午後1時に第7章と奥付の修正が届き、チェックして差し戻す頃には3章までの修正ゲラが届いていた。このあたりになるとユニクロとストレイシープのジャグリングのようなやりとりになる。ファイル名に付けられるタイムスタンプは昨日までの日単位から時単位へ、そして分体位へとなっていた。いつのまにかニシカエデのイラストも最終バージョンに差し変わり、章ごとの修正漏れも格段に減っていく。ゴールは間近だった。
以前であればフォントの関係で最終ゲラはデザイナーの環境でなければ出力はできなかったのだが……、おっともう少し詳しく話しておくと、フォントの関係というのはかつてフォントには低解像度と高解像度があり、パソコンにインストールしてディスプレイ表示に使うものと、プリンタにインストールして使うものが別々であり高価であった。デザイナーのところにあるフォントと編プロにあるフォントは必ずしも一致していなかったために、最終段階の出力見本はデザイナーの事務所にあるプリンターでなければ出せなかった。編集者は最終チェックを終える前にデザイナーの元へ向かい、現地で最終確認を行い1時間以上かけてプリントアウトし、またMOにレイアウトデータを収めるのにも数十分を要し、さらに出力票をそえてから出版社に向かわなければならず、ここに半日分の工程ロスがあったのだ。
しかし、インターネットの高速化などの技術革新が画期的な工程圧縮を可能とした。編プロでもPDFから出力見本相当のプリントアウトができ、大容量データの転送も可能となり、納品もやはり安価なCD−RやDVD−Rで高速で行なえるようになった。今回はさらに時間を圧縮するために、先にユニクロが出力見本とデータを直接印刷会社に届けることになった。版元へはPDFを送信、今日のところの中年スニーカーの内容確認はそれで済ませ、出力ゲラは明日届ければいいことになったのだった。
マイクロライン社製のプリンタから奥付のページがトンボ付きでプリントアウトさてきた。内容を確認し、前のページまでの下に重ねた。最終の出力見本は見開き単位ではなくページ単位で行なう。カラーレーザーのカウンタが倍になるので、これをやるのは最終だけだ。以前はここまでのやりとりも全部一旦プリントしてから紙の上で赤字を入れ、スキャンして行なっていたが、あまりにコストがかかるため数年前からPDF上で行なうことにしていた。ただでさえ低予算なのに1セット5000円近くもかかるものを何セットもプリントしていたのではキリが無い。それに紙代だってバカにならない。
ノンブル(ページ番号)を確認し、4セットをダブルクリップで留めた。1つは印刷所に渡すもの。1つは明日版元に渡すもの。もう1つはユニクロが自分で見るもの。もう1つは最終確認のためにアライチヒロ弁護士に渡すものだった。ミズシマ某とピンクネクタイ税理士の分はもうなかった。彼らにはPDFで送ったが、おそらくはもう見ないだろう。
ユニクロはそれぞれを社封筒に収め、セロテープで封をした。まとめてバッグに押し込むと、ホワイトボードに「印刷所・直帰 翌日ビー社立寄」と書いて社を出た。
電車で30分ほどかけて印刷所に直接データと出力見本を届けると、印刷会社の営業ニッタも来ていて、二人は名刺交換をした。狂言回しはここでバトンタッチとなる。よろしくお願いしますとお互いにお辞儀をした。ここに握手の習慣はない。
我輩は本である。アキレスは亀に追いついた。
つづく
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