第21話 ツカミホン

 我輩は本である。名前は決まった。長いので割愛する。


 本は印刷物である。さらに加工される複雑な工業製品でもある。現在の印刷手法は、15世紀にヨハネス・ゲンズフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクが考案した手法に改良に次ぐ改良を重ね、最新テクノロジーを盛り込んで成立している非常に高度なものである。製本技術もまた長年の改良を積み重ねて、高効率かつ美しい製本が実現している。


 製本にもいろいろあるが、我輩のような実用書は並製本が一般的だ。並製本の対義語は上製本であるが、これは板紙を仕込んだ固い表紙の製本でハードカバーなどとも呼ばれているものだ。文芸書や人文書などにできるだけハクをつけるために用いられる製本法である。さらに高級になると専用のケースがセットになった「函入り」ということになるが、実用書分野ではまずありえない。なので割愛する。


 並製本とは、本文よりは厚いが、芯のないペラペラの表紙で作られる本である。ペーパーバックなどとも呼ばれるが、ソフトカバーというのはあまり使われない。そういう言い方をしている人はいるかもしれないが、少数派だろう。我輩はペーパーバックで設計されている。それにカバーを巻き付けて店頭にならぶ商品となる。


 主に書籍の印刷を請け負う中堅印刷会社、トッカン印刷の営業ニッタは昨夜、の本が再び二色印刷に変更になるとの連絡を受けた。まだ単色になる場合の積算を出していなかったので、それはそれで好都合だった。同時にそろそろ束見本を手配してくれともいわれていたので、どうしようかと思ったが、仕様を見るとなんだか見覚えのある数字がチラホラしている。


 224ページ。並製本。四六版。あの会社の四六版は正常のものよりタテヨコ1mmずつ大きい。そうすると棚差しになったときにちょっとだけ出っ張るので目立つのだとかいうことをもう30年以上も続けているのだった。果たしてそんな小細工が売り上げに影響しているのかどうか甚だ疑問ではあるが、出版界にはそのようなおまじないのような謎の商習慣がはびこっているのもまた隠された事実であった。


 仕様書をじっと見てから、営業ニッタは右に積み上げてある束見本ツカミホンの山を眺めた。新書判からA5判までが乱雑に積み上がっているが、山の中腹あたりのものを1部スコっと素早く抜き出した。山は揺れたが、崩れることもなく元の状態へ戻った。営業ニッタはそれをペラペラとめくってみるが、どうやらこれがアタリのようだとニッタリ笑った。さらに全く同じ物を別の山から同じように抜き出した。少し紙質が違うが、本のサイズは同じであった。表紙をめくると付箋に束見本の仕様が走り書きしてあったので間違いない。


 束見本とは、簡単に言うと印刷してない紙を製本してみたものである。表紙も中身も白紙で作られている。紙は本番用に使うものと同じ紙を使う。実際の本のサイズがはっきりとわかるので、カバーのデザインの前には必要である。今回は日程があまりないということで、ストレイシープには仮のサイズで指示があったが、本来は束見本を参考に決めるのが筋だ。

 もっとも我輩は実用書の中でも極めて標準的な仕様であるので、あまり大きな誤差はなかった。版面サイズ(縦横の寸法)も、この出版社が一般的な四六版より1mmずつ大きいこともストレイシープは心得ていたので工程上まったく混乱はなかった。ここで下手に新しいデザイナーを起用したりするとやりとりで何工程か増えてしまうので、短納期のときはとくに経験者優遇である。

 

 営業ニッタが手にした束見本は、我輩専用に作られたものではない。奇遇にも我輩と同じ仕様(同じ版面サイズ・同じ紙厚・同じページ数)だった別の本のために作られた束見本である。ちょうどいいことに、本文用紙が微妙に違うのでバリエーションを用意したようにみせることができるのも好都合だった。


 一応仕様書を書くために、細部を確認する。表紙はベトナム製紙の「ダ・ヴィンチS」というアートポスト系の紙を使っていた。おそらく連量は220kgだ。少ししっかりした表紙用の紙である。連量とは紙の厚みを指定するときの単位で、同じ紙の厚さを1000枚束ねたときにどのぐらいの重量になるのかで示したものである。紙は種類によって密度が違うし、薄いので厚さで測るのが難しかったのでこのような形式で表現するようになったと思われる。たぶん。ちなみにベトナム製紙はとくにベトナムに由来があるわけではなく、創業者の米藤宏べいとうひろしの名前からつけられたとウェブサイトに書いてある。


 表紙をめくると、色上質で見返しが貼られている。これが本の補強になる。それと少し高級感を持たせる効果がある。ちなみに見返しに印刷した紙を使うものものある。一覧表や豆知識、凡例などを載せてあるものを見たことがあるだろう。デザイン的に何か図柄を印刷したものもある。我輩の場合は何も用意されていないので、色紙を使うことになるだろう。文芸書と違ってここにコストをかける意味がないので、おそらくはシンプルな無地一色の紙になると思われる。


 その次からが本文になる。この束見本の本文用紙は大王子製紙のゴールデンスフィアS2である。通称キンタマ2。非常によく使われる書籍用紙である。大量生産されているので安く仕入れられるし、在庫紙が常にあるので納期も調整もしやすい。黄色みがほんの少し強いので、色が沈むため2色印刷では忌避される向きもあるが、暖色系と聞いているので今回はおそらく問題にはならないだろう。

 もう1つの束見本に使っている紙は同じく大王子製紙のシルバープラチナRである。通称シルプラRも人気の書籍用紙であるが、キンタマ2よりこちらの方が少し白い。インク色の再現性は高いので、ひょっとしたらこちらの方が選ばれる可能性はある。寒色系の場合はこちらになるかもしれない。

 ペーパーゲージと呼ばれる紙の厚みを測る装置でカシャカシャと測って計算してみたところ、連量はともに72kgだった。同じページ数であれば同じ束(本の厚さ)になるので、好都合なのだ。仕様書にその旨も書き入れる。これらは書籍用紙としては標準的なものだ。


 ちなみに紙にはYとTがある。Yは紙を漉くときの目の方向が全紙の状態で横方向に入っていること。Tはそれが縦方向に入っていることだ。Yであれば8つ折(裏表で16ページ)にしたときに、紙の目が本の向きに対して縦になる。なんのことかわからない? 我輩もわからんから気にするな。まあ目が縦になってれば、ページが少しめくりやすくなるらしい。横目の本なんてないので比べたことないが、そう言われている。


 もしも我輩が文芸書などであったとするならば、装丁家なる上級デザイナーがついて、やれ表紙カバーの紙はこれにしろ、見返しはこういうのにしろ、本文用紙はああしろ、場合によっては特注の紙を使うのだ、などと手厚く情熱を注いでもらえるだろう。しかし、残念ながら我輩はしがない実用書である。社運もかかっていなければ、期待もしていない。新刊リリースの頭数を合わせるだけの存在といっても過言ではない。定番の仕様で定番の紙で十分なのである。それでかまわないのだ。実用書は、実用性が第一である。読みやすい、それ以上の要素をここで盛り込む必要は微塵もないのだ。だが、せめて表紙カバーはPPマットコートぐらいはお願いしたいなあ。ちらっと見たら営業ニッタの見積はマットニスになっていた。トホホ。


 営業ニッタは、2冊の束見本を社用封筒に放り込むと、二つに折りすでに見本本でパンパンになっている営業バッグにぎうと押し込んだ。背後で鼻毛を抜いている営業部長からはその時期は印刷機に余裕がないから納品は厳守してもらうように厳命を受けていた。雨の多い時期なのでインクや糊の乾きも気になる。印刷屋のマージンは圧縮できないマージンなのだ。営業ニッタは席を立ち、上司に声をかけた。


「じゃあB社さん行ってきます」

「ああ。あー、なんだっけ」

「遺書の本ですよ。束見本届けに」

「遺言書じゃなかったか? それ」

「え? 遺言書と遺書って違うんですか?」

「どうだかな。書いたことないからわからん」

「ないんですか? ぼくはありますよ」

「お前財産なんかあるのか?」

「財産はないですが、女にふられたときは書きたくなるんです」

「おかしなやつだなあ」

 話がまったく噛み合ってないが、特に問題はなかった。

 

 我輩は本である。念のために言っておくが、遺言書のの本である。遺書の本ではない。


つづく

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