第20話 デザイナーズ・テンション
我輩は本である。名前は『心をつなぐ自筆遺言書テクニック7』である。ISBNコードはまだない。
ここからはいくつかの伏線を回収していこうと思う。
我輩のデザインを担当したのはデザイン事務所ストレイシープである。ストレイシープは夫の須藤ヒロシと妻の須藤レイコの夫妻による夫妻のためのデザイン事務所である。大手デザインファクトリーのオペレーターだったヒロシとデザイナーのレイコが職場結婚してから独立したもので、まあ不倫関係だの元カレ元カノだの横恋慕だのストーカー騒動だのすったもんだがあったんで居辛くなって2人で逃げ出したというのが実際のところだ。ヒロシは元はオペレーターではあったが、それなりに場数を踏んだので実用書の本文ページぐらいであれば一通りこなせるようになっていた。妻は美大出身の本格派で、エディトリアルデザインは元々本業ではない。広告デザインがやりたくてこの業界に飛び込んだものの、元職場の上司がちょっとやらかして干されたアオリをくって書籍デザインの方へ流れてきたという来歴である。今は子育ての真っ最中なのであまり根を詰めた作業は出来ないが、夫の作業のディレクションぐらいなら問題ない。
「ヒロちゃん、ちょっと地味」
「え。そうかい? どうしたらいい?」
「そこ2色のをモノクロにしただけでしょう? マゼンダでやってたところを75パーぐらいにして、50:50のところはいっそ50パーにしちゃおうか」
「うーん、こうかな?」
「うん、いいと思う」
「ありがとうママ」
とまあこんな調子で、タフなオペレーターと天才肌のデザイナー夫妻はうまいこと補いあってやっておるのである。とはいえ今はもう再校正を作っているところなので、作業は膨大である。マスターページの修正で済むところはいいが、イレギュラーでごまかしていたところも無数にある。ヒロシは徹夜を覚悟した。
だいたい半分ぐらい進んだところで時計を見ると22時過ぎだった。まずまずのペースである。そこに珍しく電話がかかってきた。最近はメールやチャットでのやり取りが増えたので遅い時間の電話はめったにない。ストレイシープは自宅兼作業場であるので、隣室では乳児が眠っている。クライアントにもその辺の事情は知れているので、極力サイレントな通信方法をとってくれていた。ユニクロもレイコが怖いのでなるべく電話はしないことにしていた。が、今は緊急事態である。
「はい、ストレイシープ。あら? チノくん、ひさしぶり」
『え、あ、レイコさん。すみませんごめんなさい遅くに』
「あ、大丈夫よ最近はこのぐらいなら」
『すみませんすみません』
「どうかした?」
『あの、どうしようかな。須藤さん、あ、ヒロシさんは』
「鋭意作業中でございます」
レイコがおどけて言った。機嫌は悪くないようだ。
『2件あります。たぶんいい話と、おそらくよくない話の2つ』
「いい方から聞かせて」
『えーっと、悪い方からにしません?』
「ダメ」
『うああ』
ユニクロが電話口で頭を抱えているのがわかる。レイコはこの若者が嫌いではない。弟に似ているのでついからかってしまうのだ。後ろでヒロシが様子をうかがっている。レイコは聞いておくから作業を続けろとハンドサインを送った。
『いい方、いい方。ああそうだ。ええと、表紙もお願いします』
「表紙? 中の方よね」
本で「表紙」といえば、カラフルなカバーを取り払ったその下にある厚紙に印刷された地味なもののことである。地味なのでヒロシでもできる仕事だ。ただしタイトルが決まってからでないと無駄作業になる。ヒロシは電話のやりとりを聞いていて、相手がユニクロであることはピンときていた。さすがにユニクロ以外の客であればこんなぞんざいな物言いはしない。もう少し丁寧な応対になるからだ。
「タイトル決まったの?」
『ああ、はい。決まりました。「心をつなぐ自筆遺言書テクニック7」です』
「それはあとでメールしといて」
『はい、もちろんです、それでですね、表紙カバーの方もお願いしたいんです』
「あら」
『何パターンかデザインラフをお願いできますか?』
「ざっくりで3つなら」
『十分です」
「メインビジュアルは?」
『1つは本文イラストをベースに仕上げてもらうので、そちらにある本文イラストからピックアップしてください。あとの2バージョンはお任せしますが』
「が?」
『予算はあまりないので、新たに誰かに依頼とかは無理です。ニシカエデさんに新しく専用のものを発注することはできます。ラフまで優先してもらってそちらに』
「なるほどね。わかった。他に気をつけることは?」
『帯を入れてください』
「帯も作るってこと?」
『いえ、刷っちゃう帯です』
「ああー。わかったわ。コピーはもらえるの?」
『タイトルと一緒に送ります』
帯とは、本の下側に巻いてある、キャッチコピーなどが書かれている紙のことだ。腰巻きなどとも呼ばれている。通常は別の紙に刷って巻くのが一般的ではあるが、実用書に関しては、コストダウンのために表紙カバー自体に最初から組み込んでしまうものが少なくない。仮に販売戦略が変わった場合は、その上から新たな帯を巻けばいいのでとくに問題はないのだ。レイコは表紙カバーと聞いて自分で作るつもりでいた。ただし、今回は3案なので1案はヒロシにやらせてみるか、と思った。亭主は筋は悪くない、あとは場数だと思っていたからだ。
『で、もう1つのお話が』
「ああ、悪い方ね。なに?」
『えとですね。2色に戻りました』
「はああああああああ?」
『うわあああああああ!』
レイコが急に大声を出したので、ユニクロは電話口で仰天し、ヒロシはひっくり返りそうになって振り向いた。
「ちょっと、なんで?」
『詳しいことはわかりません。営業的な判断だとしか』
「ちょっとー。営業誰?」
『確か金田課長だったと』
「カネダぁ? ……知らないなぁ。んもーなんなの」
『すいませんすいません』
「まあ、わかったから。リスケできるの?」
『一応要求はしてあります。先方で調整中ですね』
「とりあえず進めるけど、マゼンダでいいの?」
『ああ、はい。暖色系とは聞いています』
わかったわと、レイコは電話を切った。
「どしたの?」
「いい話と悪い話があるけど、どっちから聞く?」
「えーっと、悪い方がいいかなぁ」
「男はみんなそうね」
「そうなの?」
「どんなクソ野郎でも、最後はいい人でいたがる」
「え?」
「ううん、なんでもない。2色に戻ったって」
「はああああああああ?」
ヒロシは本当にひっくり返った。
結局ヒロシの作業が膨大になったために、表紙カバーは3案ともレイコが手がけることになった。2色になったってことはイラストレーターもパンパンな気がしたので、ニシカエデのイラストを使う案は一つに留めた。あとはタイポグラフィと幾何学模様で1案。3案めは昔使った人物のピクトグラムを改造して、インフォグラフィック風に仕上げた。これだけバリエーションがあれば文句は言うまい。
翌々日、レイコはドヤ顔でカバーの初校PDFを送信した。同じタイミングでヒロシも再校正のデータを作り上げた。付き物もだいたいそろっている。ただし、イラストはまだモノクロのままだった。
我輩は本である。また2色に戻ったらしい。それで売り上げが左右されるとは思わんのだが、人間の考えることはよくわからぬ。
つづく
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