第19話 タイトリング・インフェルノ

 我輩は本である。名前はまだない。これから決まる。


 本にとってタイトルは顔であり、アイデンティティであり、表札であり、名刺であり、レーゾンデートルであり、コミットメントである。よくわらないがとにかく重要なものである。


 特に近年はアーマーゾーンなる野生の仮面ヒーローのようなケッタイな名前の通販サイトの利用が広まっていて、書店で手に取って中身をチラ見して買うという従来の王道的購入行動が取られにくくなっている。これは重大なパラダイムシフトである。購入にあたって我輩がお客様に提示できる情報は、書影(表紙カバーの画像・帯なし)と書名、監修者名、短い説明文、あとはせいぜい目次から抜粋した内容のリストぐらいものだ。これはでは我輩の最大の魅力である、ニシカエデのキュートなおばあちゃんイラストであったりとか、感動を呼ぶハートフルなミズシマ某による創作エピソードであったりとか、デザイン会社ストレイシープの社長の熟練テクニックにより緻密に構築された巧みな視線コントロールによる高度な読みやすさといったものはまったく伝わらない。ユニクロが粉骨砕身して鋭意構成中の高精度なさくいんについても、購買時にはまったく考慮されることはないのである。


 とにかく我輩の命運はこれからはじまる営業会議によって決定されようとしていた。まったく不安しかない。


 タイトルがいかに重要かは、タイトルで注文も売れ行きも重版もその後のロングテールかどうかもみんな決まってしまうからである。人間にも生まれたときに親に勝手に名前をつけられて、それで社会に放り出されるという奇妙な習性があるらしい。ただ人間の場合は、親の趣味と子どもの自我が不一致だった場合は、ペンネームだのハンドルネームだの偽名だのでごまかすことはできるし、社会通念上許されている。


 しかし我輩は本である。一旦発売してしまえば、売れなかろうが返本されようがそう簡単に改名はできない。同じ内容の本を改題してまた出しましたなんてのは、なくもないが、あまりない。めったにない。実際やると間違えて買った読者から大いにクレームが来るだろうから難しいのだ。本としては大幅に改定した上で、別企画として出すしかない。それはもう我輩とは言えない本である。その場合は「あたし本かも?」とか「僕はかつて別のタイトルの本だった」とかそういうタイトルで書き直されなければならない。いまさら一から書き直しなんてまっぴらだ。このまま行かせてくれ。


 たとえば本稿のタイトルは「我輩は本である」である。これはかの文豪★夏目漱石閣下の処女作「吾輩は猫である」のパロディであり剽窃であるのだが、なぜ「吾輩は本である」ではなく「我輩」としたのかはほんの少しだけ理由がある。用字上はこれはどちらでもいいことになっている。我輩でも吾輩でも意味はかわらない。常用漢字(かつては当用漢字)が定められたとき「吾」の字がラインナップされなかったのであるが、当時、出版人の中ではできるだけ常用漢字でやりくりせねばならない、とくにタイトルは方々に出回るので常用漢字の中で完結させる必要がある。なに? 吾の字がないだと? 吾輩はどうするんだ。我輩なら大丈夫なので? そうか、じゃあ我輩でいいだろ。ということで我輩が多用された……、かどうかは、知らない。誰も調査していないし、そんな文献もない。一応こんなリスト(http://homepage3.nifty.com/nada/page042.html)があり、「吾輩は猫である」のパロディがずらっと並べられているのだが、「吾輩」「我輩」「我が輩」「わが輩」など雑多なバリエーションがあり、特に意図的な振り分けは感じられない。若干戦後になって「わが輩」という表記がチラホラするが、数点だけ拾ってみても傾向は読み取れない。本稿のように作者がぐだぐだと言い訳をするような資料が方々から見つかれば、なぜそのような用字をしたのかわかるので、前述のような仮説の証明も可能ではあるが、もうそれは不可能である。「パロディは我輩と使う傾向にある」という説もあるにはあるのだが、それは本家が「吾輩」だから「我輩」の全てはパロディになってるってだけのことで、リストを見てもパロディならば「我輩」だという明確な傾向は確認できない。ただまあ本稿作者の場合は、「吾輩」だとちょっと罰当たりな気がしたので、控えめに「我輩」にしておいた、と、まあそういうあたりのメンタル的なブレが主な理由である。


 閑話休題。


 本題は我輩のタイトルのことである。

 工程上も営業上ももうタイトルを確定させないとまずいということで「遺言書の本(仮)」の仮をとりはずすデッドラインがやってきた。なんらかのシリーズであれば話は簡単で、「できる!○○」とか「図解○○のしくみ」だとかそういう定番シリーズなら、○○の部分を「遺言書」あるいは「自筆遺言書」に差し替えるだけでいい。そうすればシリーズで占領している書店の棚に差し込めるし、平積みもしてもらえるだろう。しかしこの出版社にはそのようなシリーズ戦略はなく、場当たり的に単発で本を出してきただけなので、こういうときにパッっと放り込める仕掛けがないのだった。


 会議室のブレインストーミングには、メイン担当編集の中年スニーカー、担当営業の中年課長、あとヒマだった編集部の若手2名、営業の新人が駆り出された。若手と言ってももう30歳前後だし、新人と言ってももう3年めだが、細かいことは気にするな。新人がホワイトボード担当に任命された。


「編プロの方からは?」

「三案上がってきてる。『自筆で書こう、あなたの遺言書』、『自筆遺言書の書き方教えます』、『自筆遺言書の書き方実践テクニック7』」

「ベタっちゃあベタだが、さすがに基本は押さえているか」

「まあな」

 中年スニーカーはレジュメをテーブルに置いた。ホワイトボード担当がホワイトボードに慌てて3案を書き写すが、遺言書が遺書になっている。


「おい、遺書になってるぞ?」

「え?」

「遺書じゃなくて遺言書」

「違うんですか?」

「全然別物だ」

 あーそうなんすか、と書き直す。若手の2人も鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている。こいつら遺書の書き方の本だと思ってたのか。そういえばこないだ居酒屋で「自殺を助長するような本って大丈夫なんですかね」とか言ってたのはそのせいか。この本の話だと思わなかった。まあ誰もが通る道だけどな。と中年スニーカーは思った。そうだ、我輩は遺言書の本である。遺書ではない。


「とりあえず思いつく限り挙げてって、絞り込む感じでいきますか」

「そうだなあ、ハイブリッドにしてもいいだろうしな」

「んじゃまあ、それぞれ思いつくのを言ってくれ」

 めいめい勝手に書名を挙げていく。ホワイトボード担当が必死に書いていく。あまりキレイな字ではなかった。営業課長は他の人間に代わった方がいいのではないかとも思ったがいまさら面倒なので、このまま書かせることにした。


 我輩のタイトルの候補として挙げられたのは以下の通り。


『遺言書を書くと家族に幸せを残せる』

『遺言書は自筆でいつ書くの、今でしょ』

『愛を込めて自筆遺言書書き方を学ぶ』

『ザ・自筆遺言書』

『すぐに書ける、自筆で簡単遺言書』

『自筆遺言書、48のテクニック』


「48もあるの?」

「章立ては確か7までだな。48にするなら構成変えないと」

「間に合わねえよ」

 『自筆遺言書、48のテクニック』の「48」が消されて「7つ」になった。


『自筆遺言書、7つのテクニック』

『あるとないとで全然ちがう。それが遺言書』

『わしとおまえの財産をかわいい孫に残す自筆遺言書』


「自筆遺言書って英語でなんて言うんですかね」

「ウィルとかテスタメントだったかな」

「ウィルじゃ語呂が悪いな。じゃあテスタメントで」

 右側の若手編集の指示でホワイトボード担当がルビを振った。


『わしとおまえの財産をかわいい孫に残す自筆遺言書テスタメント

 

 左の若手編集が「ぽい、ぽい」と喜んだ。貴様たちは真面目にやる気があるのかと思ったが、どうやら至って真面目なようだ。我輩を売ってくれようと本気では考えているようだ。じゃあ表紙に萌え系のイラストを入れてくれ。たぶん少し売れる。


『感謝を伝えたいあのひとに。自筆遺言書は幸せ宅急便』


「前半はサブタイ?」

「まあそうです」

「宅急便は商標だからだめだ」

「じゃあ宅配便で」

 ホワイトボード担当が急の字を書き直した。


『感謝を伝えたいあのひとに。自筆遺言書は幸せ宅配便』


「これなら大丈夫」

「書名ってよりは帯コピーぽいなあ」

「帯と言えば今回どうするの?」

「刷り込みにしようかと思ってるけど」

 これは表紙カバーに最初から帯的な要素まで組み込まれているものだ。実用書にはよくある手法で、帯に関するコストが一切合切カットできるというメリットがある。帯替えで営業戦略の変更に対応したりはできないが、実用書はそうそう重版がかからないし、かかっても売り方が変わるわけじゃないから、それでいいのだ。


『スワバシ流自筆証書遺言の書き方』


「スワバシって誰?」

「監修の税理士」

「有名人なんですか?」

「特に有名ってことはないけど」

「キャラ的に美味しい?」

「普通のサラリーマンみたいな人だって編プロのチノくんが言ってたけど」

「チノさんってあのユニクロさんのことですよね」

「あ、そうそう」

 ユニクロはここでもユニクロ扱いなのか。ユニクロしか着てないから仕方ないが。ピンクネクタイ税理士よりもユニクロの方はキャラが立っているようでは、冠にはできないな。


 その他全部で20件ほど挙ったところで、営業課長がそろそろ決めるかと言いだした。とにかく「自筆」「遺言書」は外せないので、ホワイトボードに「自筆遺言書」と書かせた。あとはこの周囲をどう固めるかということになる。サブタイトル方式はやめることになった。帯コピーとかぶるし、ネット通販では文字列が切れてしまう。前側に長いサブタイを置くと本題が途中で切れてしまうこともある。それとあまり長いタイトルににすると、背表紙の文字がゴチャゴチャと小さくなる。我輩のような実用書は平積みの可能性は低い。というかほぼない。いきなり書架に棚差しが基本である。仮にあっても最初の1週間だけだろう。そのあとは返本されるか、棚差しでじっと待つことになる。つまり背表紙で客の目を引かないとならないのである。そういうことも考えると、タイトルは我輩にとって実に重要なファクターであるといえる。


 あまりノリだけで決めて欲しくないが、ここに金をかけて研究機関やマーケティング会社にレポートを依頼したりすることはない。非常に重要であるにもかかわらず、科学的に調査されて決まったタイトルというものはない。感覚と直感で決めて、デザインでどうにかして、本屋に放り込んでじっと待つわけである。科学的根拠がないので、タイトル決定の指針となるのは市場の傾向(の印象)である。書店で見たことある感じであったり、売れ筋の本とちょっと似た感じであったり、とかそんな感じでタイトルを決めていく。本の運命は、ノリとカンで決まっているのだった。


 さて、ブレストで1時間半も練った挙げ句、ようやく我輩の名前が決まった。検索してみたところ、かぶっている類書はなかった。これなら大丈夫だろう。売れるかどうかはまた別の話であるが。


 中年スニーカーは消されるホワイトボードを眺めながら『わしとおまえの財産をかわいい孫に残す自筆遺言書テスタメント』が気になっていた。選ばれなかったが、一番印象に残ったからだ。これは若手のどっちが言いだしたんだったかな。そいつを自分の後継者として育てたいなと思ったが、右だったか左だったか思い出せなかった。本人に問いただすのもなんだし、まあいいかと思った。


 我輩は本である。名前は決まった。『心をつなぐ自筆遺言書テクニック7』である。


 我輩からはじまった「テクニック7」シリーズは我輩以降いくつも作られてこの会社の屋台骨をささえるシリーズになっていくのだが、それはまた別の物語である。

 あと、この2年後に別の出版社から出た『わが王が魔法王女に残したひみつの遺言書テスタメント』というライトノベルが少し売れた。これを担当したのは転職した右側の若手編集であったが、これもまた別の物語である。


つづく

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