第3話 蘇る企画ぅ
我輩は本である。名前はまだない。発売は三ヶ月後である。
我輩より先に生まれるはずだった本が監修者に大人の事情(覚せい剤使用容疑で逮捕)という不測の事態が発生したため、急遽それより前のタイミングでの発売に前倒しされた。こういうことはよくあることだ。編集者とは常に不測の事態への対応の積み重ねである。編集にルーチンワークなど存在しない。同じ本は絶対に二度は作らないからだ。常にカスタムメード。常在戦場。千変万化。一億玉砕。
編集プロダクションの社長と若者がやってきた。二人揃って打ち合わせ室の下座に座る。来客なのに。社長といえども、身分の違いは逆転できない。これが出版界の常識である。そして中年スニーカー編集者も入ってくる。一般には来客が下座に座っていると上座にうつるように促すものだが、そういうことは出版界の新人研修では教えない。教えるのは10.5ポイントの大きさだけだ。
当然中年スニーカーはバタバタと入ってきてなんの迷いもなく上座に座り、バサバサと企画書を置いた。
「いやいやすみません急に来てもらっちゃって」
「あーいえ全然。それより、昨日は急に来られなくてすみませんでした」
ジャケットにボータイの初老の社長がひとまわり下の中年スニーカーにペコペコと謝る。この世界は年功序列ではない。出版社を頂点としたカースト社会である。頂点が出版社だとすると、編集プロダクションは最下層に位置する。手前に座ってるのも奥に座ってるのも、名刺に書かれる肩書きは「編集」であるが、その地位も仕事内容も給料も全然違う。編集者とは「人間」と同じぐらい広義の言葉なのである。
「ニュース見た? 桃島キラリの」
「あー昨日の。びっくりしました。結構好きだったんですけど」
若者が食いついた。ボータイ社長の方はキョトンとしている。
「あれがさー、ここだけの話なんだけどうちで進めてた企画があったんだよ」
「え!」
「当然ポシャったんだけど」
「まあそうですよね」
若者はまだ事態がわかっていない。ボータイ社長は桃島キラリも今朝のニュースも知らないので黙って聞いていた。
「で」
中年スニーカーが切り出した。
「代わりの本をね」
さすがにこれで編プロの2人は自分が呼ばれた理由がわかった。昨日の企画書がどうなったかの返答ではなかったのだ。
「あ、その前にこちらの企画書はお返ししておきます」
5分で20年の方の企画書が返された。ボータイ社長がうやうやしく受け取った。若者は戻された書類が1つしかなかったので、おやっという顔をした。まさか?
「あと1つはもう少し預からせてください」
「採用ですか?」
「いえ、時期がちょっとアレだったんで、来月また検討させてもらおうかと」
「あ、はい」
「よろしくお願いします」
ボータイ社長が薄い白髪頭を下げた。中年スニーカーはいえいえと軽く会釈をした。この角度の違いは身分の違いである。かつてこの土地には武家屋敷があったのだが、そこでも同じように身分に比例したお辞儀が繰り返されていたのだろう。角度に換算して約6倍の差が、この地には永久に存在していくのである。それはもうある種のの呪いかもしれない。全然関係ないが呪いと祝いは似ている。なんでどちらも兄が含まれるのだろう。
「で、本題なんですが、昨日の事件でAV本がお蔵入りになったんで、急遽代わりの本を作らないとならないんですが、そちらをお願いしたいんです」
「企画からですか?」
「あ、いえ、企画はこちらで提示します」
「そうなんですね」
編プロの企画が通ることは滅多にない。一番多いのは、手みやげに企画書をもっていくと、引き換えに出版社サイドで考えた企画の仕事をもらえるというパターンだ。むしろ編プロから出す企画書は、福引きの交換券のようなものだ。何件か持っていくと、1件仕事がもらえるくじ引きができる。全く出版社に出向かない編プロには仕事は回ってこないので、とにかく顔を出す口実が必要なのだ。昨日若者が5件の企画書を持ち込んだので、たまたまポシャった仕事の穴埋めを任されることになったわけだ。実際、中年スニーカーが若者の編プロに電話をしたのは、着信履歴の上位にこの編プロがあって、それにそのままかけたからだ。さらに言うとこの着信はボータイ社長が打ち合わせに参加できなくなった旨を伝えようと会社から発信したもので、人間万事塞翁が馬である。この慣用句は、人間というものはいろんな出来事がどういう風に作用するかわからないから、いちいち一喜一憂しても仕方がないということである。慣用句というのは、使い古された言い回しという意味である。ちなみに我輩は本である。たまに思い出さないと忘れてしまう。
「この企画なんですが」
中年スニーカーがA41枚をペラっと差し出した。タイトルには「誰でも書ける遺言書(仮)」と書いてある。概要は2行。監修者は未定。判型は四六版。2色印刷。224ページ。この企画は1年前に提示されたものがずっと塩漬けになっていたものだ。
「どうですかね」
どうですかね、と言われても納期も費用も提示されてない。しかし、ここで受け付けないことには先の話を聞くことはできない。ボータイ社長はわかりましたと引き受けることを宣言した。
「納期は来月末でお願いします」
「うえ!」
若者が思わず声を上げた。社長は想定していたのか全く動じなかった。話の経緯を聞けば想像できるレベルだったからだ。まだ月半ばになっていないのだから、実質2ヶ月ある。やってやれない期間ではない。監修者未定など不安要素はあるが、どうにかならないことはない。
「わかりました。大丈夫です」
ボータイ社長は受諾した。契約書などは納品後まで作られないので、この言質が事実上の契約となる。それがこの業界の商習慣だ。最近はIT業界の影響をうけて細かい契約書を作る会社も増えたが、本来はお互いの信頼関係のみで構築された業界である。だいたい契約書なんかあったところで「ここに書いてある」なんて主張が通じるはずもなく、結局泣き寝入りするのは変わらないのだから、そんなもの書くだけ時間の無駄なのである。徹底して無駄が省かれた成熟した商社会、それが出版業界なのである。あるある。ちなみに我輩は本である。
「予算感はどんな感じでしょう」
「それがねえ、仕掛かりの本の方で予算食っちゃうでしょう? いろいろ苦しくてねえ」
「まあそうでしょう」
「申し訳ないのだけど、150でやってもらえないかって」
「えっ」
さすがのボータイ社長も思わずのけぞった。150万。若者は自分の月給の何倍もの金額なのでピンと来ていないが、これは制作費の総額である。相当安い部類だ。ざっと脳内で勘定してみると、ページ単価6,696円だ。見開きで考えれば13000円か。むむむ。のけぞりから回復する頃にはボータイ社長はすでに立ち直っていた。
「まあ、なんとかします」
「よろしくお願いします!」
中年スニーカーは今日一番の深さで頭を下げた。せめて無理を通すときぐらいは深々と頭を下げるものである。とはいえ、ボータイ社長の角度よりはだいぶ浅いのだが。
「チノくん、きみ今月来月は大丈夫だよね」
「え、ボクですか? まあなんとか寄せられますけど」
若者はちょうど先日入稿を済ませた案件があり、次の仕事は少しスパンが長いのでねじ込むことは可能だ。しばらく休めると思っていた若者は気が重くなったが仕方がない。どうせ休んだところで家でゴロゴロしているだけだ。新作のゲームも出ないし、まあいいかと思った。ちなみに入稿というのは、この場合はデータ入稿のことで、レイアウト済みのデザインデータを出版社に納めることだ。出版社はそれを印刷会社に右から左で渡して次の工程にコマを進める。
「じゃあこの件頼むね。ヤギさん、チノくんが担当しますので、よろしくお願いします」
「ああそりゃありがたい。よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
若者と中年スニーカーはすでに何冊か仕事をしてきたので、お互いいろいろわかっていることもある。打ち上げと称して飲みに行った仲でもあるので、いろいろと具合がいい。単納期の仕事はこういう信頼関係が大事になる。ただ、逆を言えばこういうヤバい案件が次々と押し付けられるということでもあるので、あまり近過ぎるのも考えものである。
とりあえず、明日までに制作体勢を整えてから、改めて先の細かいスケジュールを決めることになった。監修者はすぐには見つからないので、とにかく制作だけ進めておいてから別途探そうということになった。監修者といっても実態はただの名前貸しであるので、肩書きがそれっぽければ誰でもいいのだ。おっと、あくまでこの本の場合だから、世の中全般がそうだってことじゃないからな。我輩は本である。
実際、他のとある本のことなんだが、当初は監修者ナシで進んでいた企画が、営業部判断で急に有名人が監修につくことになり、かといってその人物がその内容に詳しいわけでもなく、苦肉の策でその有名人にクイズ形式で出題していくというものになった、というケースがある。制作者も監修者も困惑したが、一番困惑したのは読者だろう。出版界は何が起こるかわからないワンダーランドなのである。ちなみにその本の上での有名人氏の正答率は5%程度で、まったく大変な企画があったものである。
というわけで、我輩は名前はまだ仮称であるが、企画は決まった。地獄絵図はまだ見えていない。誰もが楽観的だった。なぜなら今回の登場人物は編集者だけだからだ。
つづく
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