【三題噺】影の幻想

黄黒真直

影の幻想

お題「太鼓」「豆」「舌」


 大きなテントの中に、百人近い客が入っている。開演時間はもう間もなくだ。

 僕は自分の持ち場について、ばちを構える。小さな太鼓を胸の前に掲げて、カーテンの陰に隠れる。ステージの向こうから、ざわざわと観客の声が聞こえた。

「今日も緊張してる?」

 ディーが僕の隣にやってきて、顔を覗き込んできた。

「バカ言え」

「ほんとに?」

 くすっと微笑み、一歩引くディー。

 緊張はしていなかった。強いて言えば動揺していたが、それは開演が近いからじゃない。ディーの格好を間近で見たからだ。

 踊り子の衣装を着たディーは、普段よりずっと綺麗だった。長い黒髪を後ろでひとつに結び、頭の左右に金色の髪飾りをつけていた。ピンクを基調としたセパレートの服は、ディーの褐色の肌を引き立てていた。ひだが多めについたトップスは、彼女の慎ましい胸を大きく見せている。自分の衣装はいつも胸の小ささを思い知らされて不満だと、いつだったか彼女は言っていた。

 やがて客席のざわめきが小さくなった。団長がステージに立ったのだ。

「やば、持ち場に戻らないと」

 と彼女が僕から離れていく。ちょうど、ステージから団長の声が聞こえてきた。

「紳士淑女の皆さん! 今宵は我が幻想曲芸団の舞台にお越しいただき、誠にありがとうございます。私は団長のエレオ・パスカルと申します。以後、お見知りおきを」

 さて今宵の演目は……と、団長が開演の挨拶を続ける。今宵の演目は、まずディーや僕達のダンス、猛獣達の曲芸、マジック、そして空中ブランコや綱渡りだ。

 僕達は、いわゆる前座だ。主役のマジシャンや曲芸師達が気持ちよく演じられるように、観客を盛り上げる役目。この団の中でも立場の低い、ある種の日陰者だ。

「では皆さま、月が眠るまで、我らの幻想をお楽しみください!」

 団長の台詞が終わると同時に、僕達はカーテンから外に出た。

 統一感のある衣装に身を包んだ踊り子たちが、団長と入れ替わりにステージ中央へ一斉に出る。その中にディーもいる。僕達楽隊は楽器を奏でながら、その後を追う。ラッパが、ドラムが、彼女たちの踊りを彩る。僕も必死にドラムを叩きながら、彼女たちとともに踊った。


「ふいー、お疲れ、シロ君」

 楽器を片付け終わり、ステージ裏でぼんやりしていた僕に、着替え終えたディーが話しかけてきた。僕達の出番はほんのわずかだ。最初に少し踊って、それで終わり。今は人気マジシャンのビリオンが、愛嬌を振りまくアシスタントのハナとともに、脱出マジックに挑んでいる。ドラムロールが鳴っているが、僕のような日陰者はそれすらやらせてもらえない。今夜はもう、撤収作業まであまりやることはない。

「お疲れ、ディー。今日の踊りも良かったよ」

「ほんと? ありがと」

 いつものやり取り。でも決して、お世辞で言っているわけじゃない。僕は彼女の踊りは、いつだって最高だと思っている。

「ね、シロ君。撤収作業まで暇だよね? ちょっと私の部屋に来てくれない?」

「ああ、うん、いいよ」

 部屋に呼ばれてドキリしとしたのは、最初の数回だけだった。今じゃもう、慣れっこになってしまった。

 この団では、団員全員に個室が与えられている。とはいえ、決して広い部屋じゃなくて、ベッドが部屋の大半を占めるような窮屈な部屋なのだけれど。

 彼女の部屋は僕の部屋と同じ広さで、ベッドと洋服用の小さなチェストが置かれている。それだけでもう、足の踏み場もない。僕はいつも通り、ベッドに腰を下ろした。

 チェストはあるが、中身はほとんど空だと彼女は言っていた。少しばかりの下着と、数着の着替えが入っているだけだという。僕もディーの服は、数種類しかしらない。寝巻きと、露出の少ないゆったりとした服と、あといくつかだけだ。

 ディーはチェストの上に置かれた植木鉢を手に取ると、僕の隣に座った。そして、植木鉢を嬉しそうに僕に見せる。

「ね、見て。もうすぐ咲きそうじゃない?」

 丸みを帯びた大きな葉っぱの陰に隠れるように、黄色いつぼみがついていた。弾けそうなくらい膨らんでいて、今にも花開きそうだ。

「落花生の花って、朝咲いて昼にはしぼんじゃうの。シロ君、明日の朝、もし来れたら見に来ない?」

「どうかな、朝は何かと忙しいし……。でも、うん、来れたら来るよ」

「絶対だからね」

 もちろん、絶対来るつもりだ。ディーが誘っているのだから、断るなんてできない。

 ディーはときどき、こうして植物を育てている。でもパンジーやチューリップのような綺麗な花はあまり育てず、カイワレとかゼンマイとか、よくわからないものばかり育てている。最近のお気に入りはこの落花生らしい。今までの例に比べれば、まともな方だろう。

 変わった趣味を持つ彼女は、サーカス団の中で浮いていた。彼女とよく一緒にいる僕も、それは同じだった。いや、浮いている同士が仲良くなったと言うべきだろうか。

 それから僕達は少し雑談をした後、ステージ裏に戻った。ちょうどマジックが終わったところで、手の空いている者達が片づけを手伝っていた。僕達もその中に加わる。

「なんだ、シャドウズもいるのか」衣装のマントを脱ぎながら、マジシャンのビリオンが僕達を睨む。「汚すんじゃないぞ、大事な商売道具なんだからな」

 アシスタントのハナも僕達を侮蔑の目で見下してから、ビリオンにべったりくっ付いて控え室へ入っていく。彼らはいつも一緒の控え室で着替えている。ハナは観客にいつも愛嬌を振りまいていてファンも多いが、実はビリオンとできているのだ。

 下っ端の僕達は、他の人たちにシャドウと呼ばれている。影のような存在だからだ。僕達はただ、彼らのような光を輝かせるためだけに存在している。

 それで構わないと、僕は思っていた。僕は光になりたいなんて、少しも考えていない。ディーさえいれば、それでいいんだ。

 親に捨てられ、路頭に迷っていた僕を、このサーカス団は拾ってくれた。そのときにたまたま太鼓叩きが足りなかったから、その役を任された。だから僕は太鼓が得意なわけでも、ましてや好きなわけでもない。団長のエレオには感謝しているが、その恩はもう十分返したと思っている。僕はいずれここを出て、外の世界で生きていきたい。そしてそのときは、隣にディーにいて欲しい。

 僕もディーも、黙って片付けを手伝った。僕と話すときはあんなに明るいディーも、他の人の前ではなんだか暗い。きっとディーも、僕と同じ気持ちなのだろう。自分はいつかここを出て行く、ここはそのときまでの、仮の場所だと。


 翌朝僕は、約束通りディーの部屋へやってきた。今日が食事当番ではなかったのが幸いした。掃除当番なら、急げば少しぐらいなら暇な時間が作れる。

「あ、本当に来てくれたんだ。嬉しい」

 彼女は僕を迎え入れ、ベッドに座らせる。チェストの上から植木鉢を取った。

「ほら、ここ見て」

 昨日見たつぼみが、二枚の黄色い花びらを目いっぱい広げていた。その中心で小さな花びらが、貝のように閉じている。

「この中におしべとめしべがあって、自家受粉するの。あ、自家受粉っていうのはね……」

 彼女が僕の隣で落花生の花について説明する。彼女が喋るたびに、彼女の黒髪が僕の腕を掠める。僕は彼女の髪を撫でたい衝動を抑えながら、話を聞いていた。

「収穫できるのは十日後くらいかな。そしたら、シロ君にも食べさせてあげるね」

「うん、楽しみにしてる」

 それから僕達は食堂へ急ぎ、朝食を食べた。今日も一日、大忙しの予定だ。今夜のショーに向けてステージを整えたり、テントの前でチラシを配ったり、その合間を縫って練習したりしなくてはいけない。ディーとゆっくり話す時間はなかったが、練習のとき、目が合うたびに僕達は微笑みあった。

 数日後の夜、落花生はなんだか奇天烈な形になっていた。花の咲いていたところからとげが伸びて、土に突き刺さっていた。

「これは?」

「不思議でしょ。落花生って、地上で花が咲くのに、地下で実がなるんだよ。この状態になったら、あとちょっとで収穫だよ」

 とげの先にさやがあり、その中にふた粒の豆ができるのだという。僕はへえ、と言いながら聞いていた。

「ディーはここを出たら、園芸家になりたいの?」

 僕は何気なく質問してみた。そういえば、将来の話はあまりしたことがなかった。僕はこの世界の外のことをよく知らない。それはディーも一緒だ。サーカス団を出たいと思っていても、出てからどうするべきなのか、本当のところはよくわかっていないのだ。

「ここを、出たら?」

 ディーは小首を傾げた後、両手の中の植木鉢を見つめた。少し考えてから、口を開く。

「そう、だね。植物を育てるのは好きだし、そういう道を生きるのも、楽しいかもしれないね」

「じゃあ僕は、動物を育てようかな。鶏とか、豚とかさ。それで動物と植物を連れて、旅をするんだ。行く先々で放牧して、育てて、売ったり食べたりして……」

「なにそれ」

 くすっとディーが笑う。

「でもいいね。そういうのも楽しそう」

 僕とディーは見詰め合って笑った。それまで漠然としていた将来のことが、僕の頭の中で少しずつ具体的になっていくのを感じた。


「紳士淑女の皆さん。今宵の我らの幻想は、いかがだったでしょうか。名残惜しいですが、そろそろ月が眠りにつきそうです。我々も今宵はそろそろ眠るとしましょう。幻想の続きは、皆さまの夢の中でお楽しみ下さい」

 団長のエレオが、ステージで閉演を宣言する。客席がざわめき、客達が帰り支度を始める。

 僕達は総出で片付けにあたった。ステージ装置を片付け、掃除を始める。こうした裏方作業は、すべてシャドウズの仕事だ。

 今頃、エレオやハナは出口で客に挨拶しているだろうし、その近くで楽隊が静かに楽器を演奏しているだろう。ピエロは子供達と握手し、猛獣使いは檻の中の猛獣に挨拶させているに違いない。彼らは光で、僕らは影だ。でもそれでいい。

 すべての作業が終わる頃には、僕はくたくたに疲れていた。後は軽い夕食を食べて寝るだけだ。

 夕食には豆のスープが出た。僕はそれを見て、ディーに聞く。

「そういえば、あの落花生はどうなった? もう収穫できそう?」

「うん、もうできると思う。今夜少しだけ掘ってみようかなって思ってる。また明日、部屋においでよ。掘らせてあげるから」

「わかった」

 きっと彼女は、僕に一番に豆を食べさせるつもりなのだ。それとも、今夜先に一人で食べるのかな。それなら今夜、ディーの部屋に行ってみようか。

 僕はわくわくしていた。


 皆が寝静まった頃、僕はこっそりディーの部屋へ向かっていた。

 突然部屋に行ったら、ディーは怒るだろうか。それとも喜ぶだろうか。もしかして、もう寝ているかな。そうだったら、諦めて帰るしかないな。

 そのとき僕は、エレオの部屋の窓から明かりが漏れているのに気がついた。いつも早く寝ることで有名なエレオが、こんな時間まで起きているなんて珍しい。

 好奇心に駆られて、僕はカーテンの隙間からエレオの部屋を覗いた。

 そこで僕は、凍りついた。

 部屋の中には、エレオのほかにも人がいた。ディーだった。ソファの上で、二人は仲良さそうに寄り添って座っていた。

 ディーは手に、白いものを持っていた。それを割ると、中にはふた粒の豆が入っていた。落花生だ。ディーはひと粒の豆を、エレオの口に入れた。その指でもうひと粒の豆を摘むと、自分の小さな舌に乗せた。舌が口の中に引っ込むと、ディーはぽりぽりと豆を噛んだ。

 二人は見つめあい、ディーはうっとりとした表情で微笑んでいた。僕が見たことのない表情だった。

 それにディーは、僕の知らない服を着ていた。胸元の空いた露出の多い服だ。短いスカートをはいていて、太ももから下があらわになっている。ステージ上でしか見たことのないディーの脚に、エレオが手を置いていた。

 僕はその場に尻餅を付いた。

 ディーが。ディーが。そんな。嘘だ。

 だって、ディーはシャドウだ。僕と同じ日陰者だ。団長に気に入られているなら、光になっているはずだ。

 そのとき、室内の会話がわずかに聞こえてきた。

「ねえ、どうして私を、もっと目立つ役にしてくれないの?」

「だってディーは、僕のお気に入りだからね。君が目立ったら、僕だけのものじゃなくなってしまう」

「なにそれ、ひどい」

 ひどいと言いながらも、ディーの声には笑いが含まれていた。

 僕の中で何かが崩れるのを感じた。ディーとの思い出が、将来が、音を立てて崩れていく。

 ディー。ディー。

 ディーとともにいられないのなら、僕にはもう、ここにいる意味がない。ディーがいるから、僕はこれまでやってこれた。いつか出て行くその日まで、ここで生きていこうと思えた。なのに……。


 それからどうしたのか、僕は全く覚えていない。ただ気がついたときには、僕の手には割れた植木鉢があり、僕の足元にはディーとエレオの体が転がっていた。

 二人が生きているのか死んでいるのか、僕にはわからなかった。どうでもよかった。

 僕はふらふらと部屋を出て、そのまま影のような夜の中へ出て行った。

 僕にはもう、生きる理由がなかった。


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