帰途
第1話
明かりの増す望月の宵のこと。
月より迎えの使者が秋宮を訪れた。
夜空からの使者を迎え入れるべく、中庭に面した戸を開け、篝火を焚き、秋宮の面々が身を正して見守っている。すっかり身支度を整えた羽廾と兎の姉妹が、皆と共に夜空へかかる月を見上げていた。
「もう、帰っちゃうんだね」
竜田姫より是非にと送られた赤い振袖の袂をつかみ、黒嶺が名残惜しそうに呟いた。白嶺も同じことを思っているらしい。姉妹はいつも元気そうにぴんと立てている長い耳を、今は萎れたように伏せていた。
「秋宮と月は
また同じく、傍らで別れを惜しむように寄り添う竜田姫が、寂しそうに笑って見せた。短い間ではあったが、姫と姉妹は友のように心を通わせたようだ。一層名残惜しんで互いの手を取り合う。
「大丈夫。うち、月読みさまに、また来れるようにお願いするから。それに、いっぱいお手紙書くね」
白嶺は力強く頷いた後、意味ありげに力輝を正面から見据えた。
数日前の説教の事もあり、少年の姿をした白虎はたじたじと目をそらす。
そのさまを見て、羽廾と白帝が軽い笑い声を立てた。
「これから西の護りに片目を瞑ってもらうお願いをするときは、月の兎さまにお伺いを立てなければいけませぬな」
「全くですな。後が恐ろしゅうございますゆえな」
「もう。他人事だと思って……」
妙なる楽の音が染み入るように近づいてくる。
ここにいられる時間もあとわずかだ。
「お白ちゃん」
力輝が、彼らしくも無くおずおずと白嶺のご機嫌をうかがっている。
白嶺は不機嫌そうな顔をしつつも耳だけはちゃんと力輝の方へ向けていた。
「せっかく秋宮に来てくれたのに、怒らせちゃってその」
むにゃむにゃと言い辛そうにした後『ごめん』と謝る。
その小さな声に白嶺は『そんなんじゃ聞こえませんよ』と言わんばかりにツンと背を向けた。
「ごめんなさい」
今度ははっきりと謝る。
「それで、このままじゃ楽しくないし、悪いから。次来た時は滝を見に行きながら……その、紅葉狩りに行かない?」
照れているのか、機嫌を伺っているのか。
歯切れの悪いものいいで、力輝が白嶺の次の来訪を誘っている。日頃と全然違う彼の態度に、皆が皆、面映ゆい笑みを浮かべて耐えている。
「また、様子を見に来てあげるから。ちゃんと約束守っていてよね」
黒嶺に突かれ、白嶺はぎくしゃくと目の端で力輝を気にしながら返事をよこす。
『大丈夫、ちゃんと守るよ』と力輝が破顔したのを見て、困ったように白嶺も笑った。なんだかんだ言っても、お互い気になる存在なのだ。
「はい、これ。前あげたのは、もう匂いがしなくなっちゃったでしょう?」
つかつかと歩み寄ってきて、白嶺は力輝の手に小さな鈴が付いた匂い袋を握らせた。力輝はそれを受け取った逆の手で、懐から少しくたびれて古くなった匂い袋を取り出した。山津波の塚を解こうとしたとき、彼を止めるように微かになった鈴をつけたお守りだ。お守りなど、霊獣には無用の長物。
けれど、この小さな鈴の音は、力輝が無茶をしそうになった時、白嶺を思い出させた。
「きっと、古くなっちゃったからご利益が減っちゃったのよ。これと交換ね」
古いお守りを取られそうになり力輝は手を引いた。
白嶺が驚いていると。
「これも俺にくれたんだろう。返してなんて言うなよ」
「だって、新しいのがあるんだからいいでしょう?」
「これも気に入ってるんだから、一緒に持ってる」
「変なの……」
二つあったら倍ご利益が増すだろう。
そんなことを言って、力輝は言葉を濁した。
「羽廾さま」
センに声をかけられ、白虎と白嶺を眩しげに見守っていた羽廾は、ゆっくりと振り向いた。
「山津波の時は助けてもらい、また、稽古をつけてくれてありがとうございました」
「なんの。射止めたのはセンの運と力であり、習得はそなたの努力のたまもの故。私は幾ばくか助言をしたに過ぎぬよ」
通常月を離れない身であるゆえ、月と雨女の里、お互いに離れた場所へ帰れば、またいつ会えるともしれない。
「息災でな」
「先生もお元気で」
先生と呼ばれ、羽廾が目を丸くした。
センからすれば羽廾は弓術、馬術の先生である。
「そうか、そうであったな」
そう呼び掛けられるのはなん百年ぶりだろう。
羽廾はくすぐったそうに笑う。
「困ったことがあらば訪ねてこられよ。師として力になりましょう」
兎顔をふっくら綻ばせた。
そんな師弟の会話を見守るように、少し離れたところへ立つ時雨に、黒嶺の視線が注がれていた。その視線に気づき、雨女は振り返る。
--似ている。
かつて黒嶺が思いを寄せた川の主、
「あの……」
「なんでしょう」
「うちは黒嶺という月の社でお世話になっている妖です。名前を教えて貰てもいいでしょうか?」
「これは、ご丁寧に。私は雨女の時雨ともうします。このたびはセンにお力沿いをいただき、誠にありがとうございました」
儚げな美しさを持つ雨女から黒嶺は目を離せなかった。
着ているものは違っても、その顔は、姿は、あの軸の絵そのものであったから。
「あの、もしかして。時雨さまは、昔、人の世におりませんでしたか? お名前を……」
--
そう問いかけようとした時、夕錦が会話に割って入った。
「黒嶺さま。もうすぐお迎えがおつきになります。こちらへ」
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