第2話
時雨は不意にセンのことを思い出した。
あの子なら何処の宮を選ぶだろうか?
時雨が初めて連れてきた伴い子。
もう七つを越えているため、里に入れたとしても共にいられる時は少ない。
その間で、彼に似合いの宮を探してあげることが出来るだろうか。
時雨には、春霖がとても頼もしい親に見えた。
自分も同じようになれるだろうか。
大道が途切れ、湖の縁に接する辺りに平たい岩が台のように置かれている。時雨と春霖はそれに上がり訪いをたてた。
「時雨がご挨拶に参りました。お目通りをお許しくださいませ」
そのとたん、社の方から『びきびき』とも『ばりばり』とも、なんとも形容しがたい底鳴りがして氷の橋が掛かった。真っ直ぐに社へ続く白い橋の上に時雨と春霖は足を踏み入れる。
許しのないものに橋はかからない。
橋が掛かったと言うことは、入れということに他ならないのだ。
春霖は、もう不機嫌な巫鳥の顔が浮かんでいるらしく、眉尻を下げて嘆いた。
「あぁ、時雨ちゃんが遅れた理由を何て言いましょう!」
子を伴ったためとは言えなさそうだ。
だって肝心のセンがいない。
それに、歳の問題が解決しない限りは、巫鳥に知られるわけにはいかない。決まりを守ることに関しては、炎帝の比では無いくらい頭の固いお人なのだから。
『困ったわ。なにも思い浮かばないなんて』と、春霖がぶつぶつと独り言を漏らす。
こちらの心の準備が、できていようが、いまいが、関係なく社は近づいてくる。焦る春霖とは対照的に、時雨は腹を決めてしまった。叱られるなら受け止めよう。それで罰を受けるなら甘んじて受けようと。
橋を渡り、階段を上がった先の社の扉が、ふたりを迎え入れるように大きく開いた。
拝殿に通されて座る。
本殿に近い内拝殿に、巫鳥が相変わらず厳しい顔をして座っていた。御簾の奥、仕切られた本殿に唹加美神がいるのであろう。
「ただいま戻りました。ご報告遅れまして申し訳ありません」
真のお辞儀--最も丁寧な深いお辞儀--をとって顔を上げぬまま沙汰を待つ。
「本来ならば、真っ先に報告に上がるのが筋であろう。任されていた勤めを疎かにするとはどういう了見じゃ」
語調はあくまで穏やかだ。
けれど、そこから苛立ちのような圧力が感じられた。礼状よりも遅れての帰参である。当然と言えば当然な反応だ。頭ごなしに叱られても文句は言えない。
しかし、巫鳥はお説教をしたりはしない。
今更一々言わずとも、大人であれば知っていて然るべきである。彼女はそう考えている。
「何故遅れたのか? 面を上げて説明なさい」
するべき事を知っている者が遅れたのである。
何か支障があって遅れたのかもしれない。この後の段取りを組むときの参考に知っておきたいと思っているようだ。
「あ、あの! 時雨は伴い子を連れていまして!」
その時、時雨の後ろに控えていた春霖が
「春霖、私は時雨に聞いている」
ピシャリと黙らせる。
時雨を連れに行ったことはご苦労さま。しかし、お前の妹はもう子供ではない。報告に一々ついてくる必要はない。控えておれ。
春霖は萎んだ花のようになって黙るしかなかった。
「時雨、伴い子を連れてきたとは誠か?」
「はい」
「姿が見えませぬが?」
子を伴った場合、共に参っていち早く唹加美神に報告するのが筋である。それなのに肝心の伴い子の姿がない。いよいよ巫鳥の眉間のシワが深くなった。
特大の雷が降る。
いや、氷結するような冷たい言葉がぶつけられると、背後の春霖が身を縮めたとき。本殿の御簾の奥より、心地好い気配が流れ出てくるのを感じた。
唹加美神が、何か言葉を発したらしい。
巫鳥が深めた眉間のシワを解いて、奥へ向き直り聞き耳をたてている。
雨雪の女神の雨音のように穏やかな声は、外拝殿に座る時雨のもとまでは聞こえては来ない。それでも、その声が発する心地好い波長のようなものは感じた。
『よろしいのですか?』
『女神さまが仰られるのでしたら、私に異存はありませぬが……』
などと、何か話し合っているらしい巫鳥の声が聞こえてくる。やがて釈然としない表情を浮かべながらも、巫鳥が時雨たちに向き直った。
「今回の事は不問にする。しかし、二度とこのようなことがないように」
背後で春霖が明らかにほっとしたような息を漏らした。それに対し、巫鳥はまだあると言いたげな咳払いをする。とたんに気を抜いていた春霖が背筋を正した。
「時雨は伴い子を迎えに行くように」
時雨が少し不安な顔をしたのを見つつ巫鳥は先を続ける。
「そなたの心配事は解決したそうじゃ」
何の事かは分からぬが、女神さまがそう仰られている。
その言葉を聞いて、時雨が明らかに嬉しそうな顔をしたのを、なんと判断してよいのやら分からぬと言ったようすで巫鳥は眉を潜めた。
何かあったように察するが、女神さまは何も仰らぬ。
時雨が伴い子を連れてくれば分かるとだけ言ってな。うやむやのままにされるのは気持ちが悪い。早う連れて戻り説明をするように。
それだけ申し渡すと、巫鳥はふたりへ退出の許可を与えた。
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