黄海へ

第1話

春宮、夏宮、秋宮、冬宮。

各々オノオノの大陸が輪のように連なる中心は《黄海コウカイ》と呼ばれる海が広がっており、その中心は雲におおわれている。そこは神の領域であり、天人ですら滅多に足を踏み入れることはない。


新たな大陸があるとか、ただ雲の中に天界に通じる門があるとも言われている。しかし、本当の姿をみたものは殆ど無く、噂のみが真しやかに語られていた。


その黄海の深く立ち込めた雲のなかを、時雨シグレ春霖シュンリンは衣に風をはらませながら緩やかに飛んでいた。


「はぁ~」


淤加美神オカミノカミの社へと向かいながら、春霖はもう何度目になるか分からない深いため息を吐く。さすがに見かねて時雨が声をかけた。


「お姉さま、幸せが逃げてしまいますよ」

「そんなこと言ったってねぇ。これから巫鳥シトドさまに報告するかと思うと」


気が重いわと、顔を曇らせて再びため息をついた。

時雨の顔に苦笑が浮かぶ。とは言え、春霖の気持ちに同意せざる終えなかった。


《巫鳥さま》とは唹加美神に直接仕えている最も古い巫女で、実質雨女のオサのような人だ。時雨はこの方が機嫌良く笑っているさまを、雨女として連れてこられた日から見た覚えがない。春霖もそうだと言う。


小柄で痩せており、髪は白く、見たところ七~八十のオウナに見える。常に背筋をただして眉間にシワを刻んでいた。その年に似合わぬ凛とした声をしており、厳しい雰囲気をもった女人である。


これは噂で、誰も本人に確めたことはないのだが、--とても聞ける雰囲気ではない--元は吹雪女フブキメであったそうな。


報告、特に今のように余りよくない報告の時に会いたいと思う人物ではない。


「時雨ちゃん。もう少し早く帰れなかったかしら」

「ごめんなさい」


社が近づくにつれ益々気が重くなってきたのだろうか、春霖は泣き言めいた呟きを漏らした。かといって、素直に謝る妹をそれ以上責める気もないらしく、ため息をついて肩を落とす。


報告もなく帰りが遅れたのは、時雨の落ち度である。

なので、それほど辛いなら時雨ひとり行かせれば済むことなのだ。何も春霖まで共に行かないでも良いものを、本来のやさしい性質からそれが出来ないらしい。

姉として庇うつもりなのだ。


それでも、春霖はそういった交渉事に通じているわけではない。あえて言うなら不得手ヘタだ。だから一緒に来たところで共に叱られることになってしまうのだが……。


黄海の渦巻く雲の中心へ近づく。濃霧のような視界が薄れ、い並ぶ巨大な柱の影が見えるようになる。

それはただの柱ではない。

点在する岩島の上に建つ無数の鳥居の影だった。


古さや色、大きさ様々なそれらの門は、ひとつづつ違う世界へ繋がっているという。


ただし、門は迎えるべき者を知っており、資格のないものが潜っても何も起きない。それ故うっかり足を踏み入れた者がいても、不思議な建造物の群れをみるだけで、あちら側へ迷い混むことはないそうだ。


多くの鳥居が点在するなか、時雨と春霖は迷うこと無くひとつの鳥居の前へ降り立った。肌の荒い白木の鳥居は、見慣れたわが家の扉のようなものだ。間違えるはずもない。


春霖は大きく息を吸い込むと、気合いを入れるように両手で頬をぱちぱちと叩いた。かたわらの妹の手をとり鳥居をにらむ。


「さぁ、時雨ちゃん。頑張るわよ」


肩をそびやかし、足を踏みしめて鳥居を潜る。門の向こう、濃霧に呑まれるようにしてふたりの姿が消えた。

その風景を洗うように、更に濃い雲が流れていく。


**


野花の咲きこぼれる草原の向こう、のどかな農村が見える。背後にそびえる鳥居から伸びた大きな道がその村まで続いていた。


村のなかまで通るその道を挟んで、両脇に茅葺き屋根の家が並ぶ。道の上には鶏や犬がのんびりとたむろして、それの後を小さな子供が追いかけて遊んでいた。


この村には女と子供しか住んでいない。

雨女とその養い子の村である。


「かか様~」


村にさしかかると、山吹色の小袖を着た尼そぎの少女が、春霖を見つけて駆け寄ってきた。そのままの勢いで抱きつく。

先程まで、緊張で固い顔をしていた春霖が溶けるように笑顔を浮かべた。


「霰や。ただいま。時雨おば様を捕まえてきましたよ~」


ぎゅっと抱き締められながらアラレと呼ばれる春霖の養い子が、時雨にも『お帰りなさい』と笑いかける。


草一ソウイチ刈萱カルカヤはどうしました?」


まだ幼い霰の面倒を任せた、上ふたりの少年の姿がないことに春霖は眉を潜める。


「池に鯉を釣りにいきました」


霰は小さいから着いてきてはいけないと言われてお留守番ですと、不服そうに頬を膨らませた。


「いけないニイやですね。それでは、兄や二人はお土産をお預けにしましょうね」


竹の皮に包まれたお団子を取り出して霰に渡す。

自分を仲間はずれにした兄ふたりを叱る春霖の言葉で、霰は溜飲リュウインを下げたのか嬉しそうに笑った。


「かか様はこれからお社に行かなければならないから、霰はこれを持って家に帰っていなさい」


直ぐに戻りますからね。大人しく待っているんですよと、我が子の背を優しく撫でた。霰はこくんとひとつ頷いて、家の方へと走り去った。その背を愛おし気に目で送る。春霖は母としては申し分のない人だった。


伴い子をすれば、育てるために人の世に出ることが少なくなり、そのため雨女として力を磨くことが遅れてしまう。その為、たいていの雨女は歳を経てから子を伴う。


しかし、春霖は雨女として自立してから直ぐに伴い子を連れてきた。

昔の自分と同じように路頭に迷う子を、放っておけない。春霖にとって雨女の務めよりも、迷える子をひとりでも多く助けることの方が大切なことらしい。


お師匠さまにも『お前ほど、子の多い雨女も居ない』と半ば呆れつつ言われたものだ。


もし、彼女が伴い子を今の三分の一に控えていたら、自分よりも優れた雨女になっていただろうにと、ぼやかれる所以である。


かなり前に、秋の長雨を任され、人の世にふたりで降りたとき、焼かれた村の側を通りかかったことがある。


その時春霖は、時雨に人だった頃の記憶をポツリと話してくれた。山賊に焼かれた村から死に物狂いで逃げ出した後、森の中で雨に打たれ、熱に浮かされていたところをお師匠さまに救われたのだそうな。


あの時の飢えと、寒さと心細さは忘れようもないと言う。

そして助けられたときの安堵も。


今までにたくさんの子を育て、男の子は四宮のいずれかに。女の子は雨女として一人立ちさせていた。余り知られてはいないが、雨女につれられた女の伴い子でも希に力を発揮できず、天人になる場合がある。春霖の子にまだそのような子は見られなかったが。


「草一はもう幾つになった?」

「来年で十二になるわ」


養い子は十二歳になると、雨女の里を出る準備ができたと見なされる。多少の猶予はもらえるものの大抵の者は十三になる前に里を出て自立する。

行く先を自分で探す者も居るにはいるが、大概は養い親である雨女か、巫鳥さまの見立てで仕える先を見つけるものが多かった。


「そう、それじゃあそろそろね」

「えぇ」


草一は春霖の見立てで春宮に行かせるつもりらしい。

まだ若い青帝が治める地だ。


宮へ上がった養い子は、そこで十六歳になるまで見習いとして教育される。それから、その子の得手不得手を見極めた後、合いそうな部所へと送られていくそうな。


「あの子は穏やかな性格だから春が似合うと思うのよ」


そう言って、春霖は少し寂しげに笑った。

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