第8話

 湯から顔を上げると、岩の縁の奥、黄葉したニレの樹下に泉を見つけた。湯から上がり、泉に近づいて手を浸してみる。先程のところよりぬるく碧い湯は、センを誘っているように澄んでいた。


 こっちの方がいいや。


 体を沈めて黄葉した梢を見上げる。と、その時、センの手の甲を何かがくすぐって来た。ぎょっとして手を湯から上げると、蛙のような丸っこい魚が張り付いている。抹茶の葛まんじゅうにヒレがはえたみたいだ。じっと見つめていると、笑っているような大きな口を小刻みに動かして手の甲をかじり始めた。


「うわ! くすぐったい!」


 思わず振りほどく。魚は頑張ってくっついていたが、何度か手を振ると離れ、弧を描いて飛んでいき水面に波紋を描いて消えた。かじられた手の甲は傷もなく、少しつるりと滑らかになったような気がした。


 なんだったんだろう?


 すると今度は足をくすぐられて飛び上がる。

 剥ぎ取るようにつかみ上げると例の魚だ。捕まれた魚は抗議するように膨らんできゅっきゅと鳴いている。


 気付けばここそこの水面に、緑の魚が円らな目を出してこちらをうかがっていた。嫌な予感しかしない。


 つかんでいた魚をそっと水に戻して、温泉の縁にじりじりと後退する。うっかり何かを踏んづけてしまった。 プカリと浮いてきた魚がけたたましく鳴き出したのを合図に、水面の魚が一斉に飛び付いてきた。


 盛大な水しぶきの合間に、笑い声混じりの悲鳴が上がる。


 這う這う(ほうほう)の体で泉からはい出し、肩で荒い息を付きながら振り返る。蛙魚たちはまだまだやる気満々らしく、水面を埋め尽くすように顔を上げてこちらを睨んでいる。

 きゅっきゅと盛んに鳴いていた。


「もう勘弁してよ。お前たちの家を荒らしたのは悪かったからさぁ」


 眉尻を下げて呟けば、朗らかな笑い声が聞こえてきた。誰もいないと思っていたのに! 驚いて振り向けば、大きな岩の上に白い虎が伏せてこちらを見ていた。この虎が笑っていたのである。


「それは違うぞ。玉美(たまよし)たちはお前と遊びたいんだ。怒っているわけじゃない。それにくすぐるのは、ご婦人の肌を磨くのが彼らの仕事だから仕方がないんだ。怒ってくれるなよ」


 そう、笑いをこらえながら教えてくれた。


 白と黒の縞模様、澄み渡る空のように青い瞳の虎は表情豊かに笑みを見せる。近くに猛獣がいることに恐怖して然るべきなのに、のんびりと寝ころび笑っているせいなのかちっとも怖くない。それどころか虎が口をきいているのに、センは何の違和感もなくそれを受け止めていた。


「玉美ってなに?」


「今しがたそいつらに擽(くすぐ)られていただろう?

 緑の餅みたいな魚の名だよ。あいつらは温泉に住み着く妖化しさ。でも悪い奴らじゃない。肌の表面に付くいらないものを食べて生きている。だから肌を磨きたい女人に重宝されているのさ。さすがに飛び込むやつは居ないがね。手足を浸けるのが関の山さ」


 そういって思い出したのか、またひとしきり笑った。


 センのもといた国に虎はいない。

 いてもせいぜい山猫くらいだ。そんなものだから、生まれてこのかた虎を見たことがなかった。だから、目の前にいる虎を大きな猫としか認識できなかったのかもしれない。 好奇心に目を輝かせ、虎のそばへ寄っていく。


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