第5話

 濡れ縁のふち、足下の水面を揺らして鮮やかな鯉が、センを見上げては去って行くさまを見るともなしに眺めていた。水に反射した光がゆらゆらと軒下を撫でている。


「時雨が行ってしまって不安なの?」


 声をかけられて初めて傍にいた存在を知る。

 今朝の竜田姫は、垂らし髪を結い、白無地に紅い絽を重ね、菊の刺繍絵が縫われた帯を絞めていた。こちらへおいでと白い手が差し伸べられる。漆器のように赤く塗り固められた爪が艶やかだ。


 室内にもどると、卓のうえには軽い朝食が用意されていた。

 白帝は昨夜ご酒が過ぎたようでまだ姿は見えない。この離れは小さいとは言えいくつか部屋があるようだ。その部屋のひとつにセンは泊めてもらった。


 余りお腹はすかないものの、温かいお茶をもらって人心地つく。 竜田姫は、白帝よりもお酒を召していたのにも関わらず涼しい顔でお粥を食べていた。


 少しの沈黙に鳥のなき声がやけに通る。

 食後のお茶を楽しみはじめた竜田姫が、思い出したようにセンへ話しかけた。


「そう言えば、昨日廊下で約束した話を貴方に話すのを忘れていたわ」


 なんだっけ?

 ここに着いてから、色々なことが起こったせいで突然言われても直ぐには思い出せない。瞳をくるりと上のほう、宙を見据えてしばし考え込む。焦てきたのかセンが言う前に姫は答えを言ってしまう。


「露白が私よりずっと年上だって言った話よ」


 忘れちゃったの? と、つまらなそうな顔をする。

 そう言えば白帝の年齢がどうとか言う話を、そこにいる侍女の夕錦に止められた気がする。この話はあまり歓迎されるものではないようだ。せっかく忘れていらしたのに、と夕錦の咎めるような視線が竜田姫に向けられた。されど、視線を向けられた当の本人はどこ吹く風である。


「約束したことは守るほうなの。それにこの話は誰でも知っているじゃない」

「それはそうですが、わざわざ」


 白帝のいるところでその話をするのは躊躇われると見える。 困った顔をして夕錦が奥の部屋を気にしていた。


「遅かれ早かれ耳に入るなら、こそこそしないで今ここで教えてあげたほうがいいのよ。変に気を使われるのも疲れるものよ」


 そういって、竜田姫が教えてくれた話は、確かに本人の前では話しづらいことだった。


 露白ロハクとは白帝がまだ東宮だった頃の呼び名である。

 今や彼をそう呼ぶものは、竜田姫と朱上皇の二人以外いない。


 白帝の髪がまだ鮮やかな赤髪だった頃、三人の妻が彼をその名前で呼んでいた。


 遠い昔、夏宮と冬宮の間で氷河期と呼ばれる戦が起こり、はじめは中立を保っていた秋宮と春宮も巻き込まれる形で戦乱にのまれた。


 白帝と青帝はお互いに話し合い。

 力の均衡を保つため、秋宮は夏宮に、春宮は冬宮に付くことに決めた。両宮は連係し、戦乱がなるべく早く収まるよう働きかける算段であった。しかし、冬宮の勢いを削ぐ画策は思うように進まなかった。


 そのような最中青帝がみまかってしまい、--暗殺疑惑が真しやかに囁かれていたが、真相は藪の中である--即位したばかりの幼帝では駆け引きできる状況になく。武力に勝る冬宮に押され夏宮は劣勢に立たされた。


 それと同時に冬宮と国境を接する秋宮は、凄惨な戦火へさらされる結果となってしまう。


 類は城におよび、守備を承っていた二人の息子は最後まで抵抗して城壁で討ち死にしたそうだ。 自分の命の灯火がもうこれまでと悟った妻娘たちは、湯爪櫛の方に自分達に残されていたであろう余命を全て白帝へ譲らせてほしいと願った。


 女神は思いを聞き入れたと言う。

 その為、白帝は天人の倍以上の世を生きていると言われていた。

 この話は広く伝わっているがあえて口にするものはいない。

 話すことを禁じられてはいないが、彼の心を思いやってのことだろう。


 戦火が彼の家族を浚っていったとき、国境付近の戦場にて知らせを受けた白帝の髪は、一夜にして白く変わったそうな。


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