第9話

「人の子をみるのは久しいな。坊、幾つだ?」

「八つでございます」


あっと息を飲んだ。

炎帝の顔が再び険しくなる。


「時雨。なぜ連れてきた? お前が定めを知らぬ訳があるまい」

「炎よ。これには子細があっての……」

「いくら父上の執り成しであっても、こればかりは曲げられませぬ」


センを捕らえようと大股に近付く炎帝を、筒姫が止めようとしたその時である。絹を裂くような悲鳴が上がった。


「お兄様、酷い!」


行く手を阻もうとした筒姫の足を、炎帝が踏みつけてしまったのだ。軍馬のようにがたいのいい男に、花のように華奢な姫が足を踏まれたのだから堪らない。

余りの痛みに床に座り込んで、わあわあと泣き出してしまったのだ。


「済まぬ。済まぬ。筒よ。痛むか? 此処か?」


余程痛かったと見える。両袖で顔を覆って泣き止む気配がない。


「これ、誰かある! 医師を呼べ!」


弱り果てた炎帝は膝まずき、泣き止まない妹の足の甲を撫でさする。すっかり兄に戻ってしまい、先程の威厳も形無しである。

朱上皇もいよいよ心配になり側へ寄ろうとする。

と、その時、兄から顔が見えないのをいい事に、袖の隙間より筒姫が顔を覗かせて、父に目配せしている。


それを見て上皇が苦笑した。


娘の意を汲んだ父親は、今とばかりに、呆気にとられているセンを時雨と共に廊下に逃がす。


「済まぬな。炎は良いやつじゃが、少々頭が固い。ほれ、今のうちじゃ。秋宮が何処かは時雨が知っておるの? さぁさぁ、気を付けてお行き」


泣き声と怒声と侍従らがバタバタと騒ぐ最中、宮を後にするセンと時雨を朱上皇が笑顔で見送ってくれた。


時雨が水溜まりを作り、そこに二人で飛び込む。

例のごとく揺らがぬ水面はすんなりとふたりを向かい入れた。


不思議な水を潜りながら、センは朱上皇がいった言葉を反芻していた。水に飛び込む前に


「夏宮の天人になりたくなったら、いつでも戻ってくると良い」


そういって送り出してくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る