第8話
ふと、大気が熱を帯び、乾いていくのが感じられた。
急に湿気を奪われた紙や書が、カサカサパリパリと細かい音をたて騒がしくなった。
時雨が居心地悪そうにそわそわしている。
「まさかとは思うが、一応聞いておこう。父上も秋宮へお出掛けですかな?」
ギクリと肩を跳ねさせて、朱上皇が恐る恐る戸口を見やる。
鈍色の銀髪に冠を頂き、金色の目をした丈高き威丈夫が、豪奢な紅い錦を着て立っていた。
金糸でなされた鳳凰の刺繍が陽光を受け、揺らめく炎のよう。
その為、彼が佇む廊下の一角はさながら燃えているように見えた。
そこにいるだけで威圧感に押されるような姿に、センの目は釘付けになる。
「おぉ、炎か! もちろん行かぬよ! 気の毒な幼子に推薦状を書いたまでじゃ!」
考えを見透かされたように慌てる朱上皇を見て、分かったものではないと眉をつり上げたこの青年こそ、夏宮の主、現赤帝であった。
通常このように一人でふらりと出歩くことはないのだが、なにぶん此処は宮中の奥。極私的な上皇の書院であるため親しき者しか入れない。その気軽さもあり、炎帝は共も連れずに訪れていた。
赤帝と呼ばず、炎帝と呼ばれるのは、前帝であった朱上皇が健在のため、紛らわしくないようにとの配慮である。
あくまで宮中のみの呼び名であったが、激しやすい彼にしっくりくると、他の宮にも知れ渡っているらしい。もちろん正式の場で使われることはない。もし使うなら首と胴が離れる覚悟が必要だ。
『炎帝』と呼ばれるだけあって、太陽のような覇気がある。
センなどは、そばにいるだけでも眩しくて仕方ない気がした。時雨は苦手なのか、少し困ったように筒姫の影に座っている。
「そうですか。ところで唹加美神に贈る礼状は認めて頂けたでしょうか?」
「おぉ、あれならもう書けておるぞ。ほれ、このように」
話がそれてほっとしたのか、元気を取り戻した上皇は文机に積まれた書の中から文を一つ取り出して炎帝に手渡した。
書を受け取り、優しげな笑顔で父に礼を述べる。
笑うと随分柔らかい印象に変わるものだなと、センが感心していると、炎帝が『炎ビョウ』と声をかけた。
焔のような陽炎を纏った狼が目の前に現れる。
その口に書簡をくわえさせる。
「唹加美神のもとへ届けよ。粗相の無いようにな」
主に手短に用件を伝えられ、炎ビョウは恭しく頭を垂れた。風を起こし空へ向かう刹那、センと目があった気がした。
赤銅色の目が、軽く片目を瞑った。そう見えたのだ。容姿こそ炎のようだが、案外気さくな生き物なのかもしれない。
「さて、雨女。お前は私に報告があるのではないか? この様なところで油を売っている暇はないだろう。大体今年の梅雨は定められた時より長かったではないか。申し開きがあるのなら聞くがどうする?」
鋭い光を宿した金色の目に射竦められて、時雨が深々と頭を垂れる。言い訳を述べようとしない彼女を心配した上皇が、思わず執り成す。筒姫も、この寡黙な友人を助けるべく口を挟む。
「あぁ、炎よ。時雨はな、初めて子を伴ったので歩みが遅かったのじゃ」
「そうなの。それでその子を、お兄様に報告に行く間私に預けようと訪ねてくれたのだけれど。ほら、久し振りでしょう? 話が長くなってしまって」
炎帝はその言葉を聞いて、初めてセンに気が付いたようだ。睨み下ろされるように見詰められてセンの背筋が延びた。昔、寺の門の中にいた仁王様を見て、怖くて泣いたけれど、此方の方がもっと怖いと思った。
それでも時雨のため、顔をあげて炎帝をみる。
そうしなくては、雨女が責められるような気がしたから。
「報告が遅くなり非礼をお詫び申し上げまする。今日を持ちまして卯の花腐し頃、滞りなく過ぎましたこと伏してご報告申し上げまする。梅雨明けを宣言すると共に、女神の元に戻ることお許し下さいませ」
雨女は膝を折り、優雅に頭を垂れた。
そのまま炎帝の言葉を待つ。
「本来なら謁見の間にて受ける報告であるが、父上に免じて今回のみ許す。二度目は許さん。大義であった」
さてこの件は終わりとばかりに、先程までは険の目立つ炎帝の表情が少し和らぎ、センをみた。
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