第5話

「さて、ここからが肝心なのじゃ」


 真剣な面持ちで上皇はセンに向き直った。


「センよ。もし、今年の実りがうまく行き、飢えることなく暮らせるとしたら人の世に戻りたいと願うか?」


 そんな事は考えていなかった。

 冷害や害虫によって、じわじわと疲弊した大地に実りが見込めず、センの親は一家で野垂れ死にするか、しないかの瀬戸際にあったのだ。まさに苦渋の選択だった。


「今年は皆が飢えずに済むの?」

「すまぬがこれは言葉の例えじゃ。わしが言いたいのはな、センよ」


 上皇はなるべくセンにも解りやすいよう、注意深く言葉を選んで話しを進めた。


 そなたがこのまま天人となるとしよう。

 さすれば、そなたは人の世を離れ、この先人とは違う時の流れを過ごさねばならなぬ。


 その間、親しき者はそなたより先に、それこそ瞬きほどの時の中に消えて行くのじゃ。求めても得られぬ物は、そなたの思うよりずっと沢山人の世にはあるのじゃよ?


 ここへ留まるとは、それらを捨てると言うことなのじゃ。

 解るか? 後戻りはできぬのじゃ。


 こちらと人の世とでは時の流れる早さが違う。

 それは昔話に語られた、竜宮城で時を過ごすのと同じ、いにしえの仙界に留まる人に起こった出来事と同じことが起こるのだ。


 考えてみた事も無いような話であったが、上皇が何を言いたいのかセンにも理解できた。


 そんなセンの横顔を注意深く観察し、己の言葉が上手く幼子の心へ届いたかを見極めながら、上皇は一つの提案を差し出した。


「世には『神隠し』と言う方便もある。時雨が拾うた縁じゃ。そなたが望みさえすれば、暫くは人としてここに留まり。時期を見て人の世に返すことも出来るぞ?」


 人は人の世で暮らすのが一番だ。

 そこに産まれた定めと言うものがあり、それが一番自然なことだから。


 上皇の声はあくまで優しく、労りがこもっていたが、その目はいたって真剣そのものだった。己の行く先を安易なことで決めてはならないと、その目は諭していた。


「おれ、自分で家を出るって決めたんだ」


 手元に視線を落としたままセンは言った。

 顔をあげて時雨を見つめる。それから上皇と視線を会わせた。


「本当は一番下の弟が捨てられるところだった。でもおれ、自分で決めたんだよ。だから、帰れない」


「そうか」


 センの目は真っ直ぐに上皇の目を捉えていった。上皇はその視線を穏やかに受け止めている。この歳にして、重き選択であったの。

 上皇の厚く大きな手が、労うようにセンの頭を幾度も撫でた。


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