第3話
その頃、夏宮の奥の御殿。
書物や竹簡、巻物に埋もれるように、優しげな顔をした御仁が文机に向かっていた。
灰鼠色の髪には、染め抜かれたような白髪の束が混じる年ごろ。少々恰幅の良過ぎる体を椅子に詰め込むようにして、書簡をしたためている。
「やれやれ、
誰に溢すでもない愚痴を溜め息ながらに呟いた。
炎とは彼の息子。夏宮の現在の帝である『赤帝』のことだ。そんな相手に愚痴をこぼしているこの御仁こそが筒姫の父、
帝として政を動かすには、気が優しすぎる言われ続けたこの御仁は、息子が元服してまもなく帝の地位を退いた。
炎は、賢帝と誉れ高かった彼の曾祖父を彷彿とさせた。臣を束ね動かす事を得意とし、早くからその才能を発揮して采配を振るっていた。
その姿を見て、継ぐに値すると判断したのである。
これでようやく肩の荷が下りた。この後は余生を趣味に生きようと、第二の人生を夢見ていたのだが、息子はそれを許さなかった。
「何を仰います父上。この後は後ろ楯として御尽力頂きますぞ」
かくして朱上皇の隠居は、お預けとなってしまったのである。
そして今日も、季節を滞りなく巡らせるため采配を振るう息子に代わり、ブツブツ不平を言いつつも書簡の束に埋もれて仕事をしていた。
そんな代わり映えのない一日を過ごす筈だった。
娘の筒姫が、雨女と共に彼の書院へ飛び込んで来るまでは。
バタンと勢いよく観音開きの扉が開け放たれ、複数の足音と共に上皇を呼ばわる声が響く。
朱上皇は、最初の音に驚いて筆を取り落とし、袍に墨付けて思わず声をあげる。手近な布で慌てて拭うもシミが残って肩を落とした。
「お父様! お知恵をお貸し下さいまし!」
「何じゃ!? 何用かの?騒々しい。驚いて筆を落としてしまったぞ」
福与かな瓜ざね顔の眉根を寄せて、朱上皇が娘を咎めるように見やる。
「
不知火とは、朱上皇の今は亡き最愛の妻の名である。
もちろん、炎帝と筒姫の母親だ。
女に生まれたのが不思議だと言われるほど男勝りで、情の厚い人だった。その気性から、一生嫁には行けぬと回りは諦めていたのだか、ひょんなことから、当時まだ東宮であった朱上皇と出会い。お互いに一目惚れしたのである。
数ある妻の中の一人になる気はない。
その妻が病床につき、
「貴方のような手の掛かる優しい人を、独り残して逝くのは心配です。私がいなくなった
そう言葉を残した。
回りの臣も帝がいつまでも独り身ではいけないと、選りすぐりの姫を傍へ連れて来ては勧めた。しかし、朱上皇はそれを頑なに拒み、炎が元服すると共に帝を退いた。
「もうわしは帝ではない。わしの皇后は不知火だけじゃ。探してる暇があるなら炎が気に入る見合い相手でも連れて参れ!」
日頃穏やかで怒ったためしのない朱上皇に、このように激しく一喝されては臣も引き下がるより他ない。一方色々と押し付けられる形となってしまった炎は、怒り心頭である。そう易々と楽隠居させてなるものか。
今、隠居の身でありながら、酷使われているのにはそれなりの理由はあるのである。
「お父様の持ち物は、全てお母様の贈り物ではないですか」
「そうじゃが、これは祝言をあげて五年目の記念日に貰った袍なのじゃ!」
毎日のように何か贈り物をしていた母も母だが、それをいちいち覚えている父も父である。
相思相愛も過ぎれば目の毒とはこの事だ。
「それよりお父様。先程も申しましたがお知恵をお貸し下さいまし」
不満たらたらな父の袖を引き、こちらへ注意を促す。
ようやく袍の染みから気持ちが離れ、雨女を見て驚いた。
「どうしたのじゃ! どうして雨女がここにいる?」
梅雨は滞りなく明けたのでは無いのか? 何か問題でもあったか?
雨女が、上皇のいる書院まで足を踏み入れることは今まで無かった。時雨を知らない訳ではない。されど長雨を降らすことを得意とし、それに従事する雨女はとおに役目を終え、唹加美神の元へ戻ったはずである。
正に今、その礼の文を認めていたところなのだ。
この後来るにしても俄か雨や夕立、雷雨に従事する雨女のはずだ。
さて、どういう事かと首を傾げていると、センと目が合う。
「ほ? これは人の子ではないか!」
「ですから。この事でご相談したくて来たのです!」
筒姫は、なかなか進まぬ話にじれてきて頬を膨らませた。
娘に甘い父親は、そのようすに取り合えず話を聞いてやるのが賢明と悟り。書物に埋もれた机から抜け出すと、応接用の椅子と卓が置いてある窓辺に皆を誘った。
侍従に申しつけ、茶を運ばせると一息つく。
「さて、このわしに借りたい知恵はいかなるものか聞こうかの。誰が話してくれるのじゃ?」
ほっとする柔和な笑みを浮かべ、皆を見渡した。
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