第56話「異界(9)」
狭く深い、氷に覆われた世界。
そこは両側を鮮やかなブルーの氷壁に囲まれた谷間だった。
氷壁は絶望的な高さでそびえていて、その遥か上部にぽっかりと空いた穴からは、明るい光が差し込んでいる。しんと冷えた空気が放つ独特の香りがする。
クレバスだ、と思った。
周囲を見回す。
視界に映るのは何メートルあるか見当もつかない両サイドの氷壁と、その壁の隙間に落ち込んだ、どこまでも続くこの谷底だけだった。
はるか頭上では唸るような音が轟いている。風だ。雪と氷が支配する大地で吹き荒れる、恐ろしく冷たい風。じかに食らえば、表面の細胞が瞬時に凍てつくことだろう。その風も、クレバスの底であるここまでは届かないらしかった。
もう一度あたりを眺める。背の低い草木の生えた大地に降り積もる雪や遠くに連なる山々、豊かな水をたたえる大河、そういった風景は何ひとつ見えない。
にもかかわらず、俺はここが極北のアラスカであると理解した。
俺、いや、親父は、アラスカの自然の中にいる。ただし写真で見るようなパノラマの大風景の中にではない。狭苦しいクレバスの底に、だ。
見えている景色は親父の視点を通じたものに違いない。俺は親父の記憶を追体験しているのだろう。俺の意識は存在するが、親父の肉体をコントロールできるわけではなさそうだった。親父の目を借りて見るだけで、俺自身にできることはないようだ。
親父は地べたに座り、鉄のように硬い氷壁の一方を背もたれにし、片足を投げ出していた。
伸びたその足は、ふくらはぎから太ももにかけて、防寒服がボロボロに破れ、どす黒い血が流れ出している。血液は薄く積もった地面の雪を染め、融かし、隠れていた地表がそこから顔を覗かせていた。
患部に痛みは感じない。重傷のために痛覚が麻痺しているのだと思った。痛みのかわりに、麻酔を受けて鈍った神経のようにそこだけぽっかり浮いたような奇妙な感覚がある。そして患部を除く体のあちこちが、激しく痛んだ。
親父が背後の氷の壁を振り向いて見上げた。あまりの高さにめまいを覚えた。とても登れない。そもそも、負傷した足と痛む全身のために、ほとんど体の自由が利かない。周囲を見ても、手荷物は何もなさそうだった。ハンティングのプロフェッショナルである親父がこの大自然に手ぶらでやってくるはずはなかった。
親父はもう一度氷壁の頂上を見据えた。足を滑らせるか何かして、あそこから落下したのだろう。よく見ると壁の表面は滑らかではなさそうだった。ところどころ、突起状に壁がせり出した部分が見られる。落下する途中でそれらの突起にぶつかって足をひどく負傷し、着地の衝撃でからだ全体に打撲傷を負ったらしい。
腕や足の骨は折れているかもしれない。ザックは見当たらない。野営地にでも置いてきたのだろうか。あるいは頭上の、雪に覆われたクレバスの口の近くに転がっているのだろうか。
他に手荷物も見当たらない。食料も水も持ち合わせていないということになる。親父自身の焦りが、記憶を共有する俺にまで伝わってくるように思えた。
ズボンのポケットにあった手ぬぐいで足をきつく縛りかろうじて出血を抑えた後、親父はしばらくそこから動かなかった。動けなかったのだろう。
谷底の落下地点にとどまることで救助を期待したのかもしれない、一瞬そう考えたが、俺はすぐにそうではないと思い直した。
親父が、おもむろに、その場から移動を始めたからだ。
移動といっても、立ち上がってすたすたと歩くことなどできなかった。動かすたび、体のどこかが軋み、ひどく痛む。親父はじりじりと、文字どおり地を這うようにして、氷壁に沿って長く延びる谷底の道を奥へと進んだ。
ちょうど採光窓のようになっていた落下地点の真上に空いた穴から遠ざかるにつれ、谷底の景色は、暗く重苦しく変化した。気づけば視界の先の道はほとんど闇のようになっていて、俺は唐突に、自分たちを異界へと導いた縦穴に続く漆黒の洞窟を思い出した。
俺はふいに、そちらへ行ってはいけない、という強烈な恐怖の念に駆られた。
ひどい痛みのために、ときおり低いうめき声をあげながら、親父はわずかずつ、ずるずると地面を這っていく。
親父、そっちへ行くな、行っちゃだめだ、
俺の警告は声にならない。当然親父には届かない。
どこへ向かうのか、傷ついた体を引きずって、親父は正面の暗闇に向かい這い続けている。
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