第57話「異界(10)」
どこまで続くのかわからない谷底を、親父は奥へ奥へと進んでいく。
視界は暗く、周囲はほとんど見えない。氷壁の狭間の一本道であるために、かろうじて先へ進むことができる。
日が落ちてきたのか、風が強まってきたのか、それとも体力が急激に落ちてきているのか、寒さが一段と厳しくなっている気がする。
一方で、喉に強烈な渇きを覚え始めていた。
全身の痛みは当初よりかなり弱く感じられる。冷えや渇きなどの感覚や、恐れ、焦り、不安というさまざまな感情が混ざりあい、痛覚を鈍らせているのかもしれない。
その鈍い痛みの合間に、断続的に、耐えがたい空腹感がせり上がってくる。
ポジティブな要素が何ひとつないこの状況で、それでも親父は動きを止めず進み続けた。止まることは死を意味する、とでもいうように。
親父は単独行を好んだ。狩りはひとりでやるものだ、野生とはひとつの個として向き合うべきなんだ、とずっと昔俺に言ったことがある。
今回もガイドや仲間を伴わず単身でやってきたに違いない。待っていても救助は望めない、動くしかない、そういう親父の思考が手にとるようにわかる気がした。
どこまで進んでも変わらない、薄闇の谷底をわずかずつ這っていく。
やがて、親父はそこにたどり着いた。
谷底の、最奥部だった。
それは親父が期待した場所でも、予想した場所でもなかったはずだ。ただ、単なる行きどまりではなかった。
親父の視点を借りてそれを目にした俺は、意識の中で思わず息を飲んだ。まただ、と思った。
穴だった。
親父も驚いたのだろう、衰弱した体を引きずり、ふちまで這って中を覗き込んだ。
両側の氷壁が放つ青白い淡い光のほかに光源のないここでは、もちろん穴の内部を見通すことはできない。それでもそこに潜む何かを確かめようとするみたいに、親父は、じっと穴の奥を見つめ続けた。
本当に長い時間そうした後、ゆっくりと、慎重に体を起こして、後方の氷壁に背をあずけた。足が激しく痛むのか、一度、かなり大きな声でうめいた。
親父はふたたび頭上を仰いだ。誰にも踏み抜かれていない雪の屋根がクレバスの裂け目を覆い隠している。それから視点を移し、氷の絶壁を上から下へと眺め、谷底の地面を、そして自分のつま先、足、腹、腕、肩、と視線を這わせた。
親父の考えていることが、また伝わってくる気がした。
足の傷、全身の打撲、飢え、渇き、体温の低下……ここを出て地上に戻ることはないだろう、俺はこの場所で果てる。
自分にそう言い聞かせている気がした。
細く長いため息の後、親父が上着の内ポケットに手を入れ、何かを取り出した。写真だった。
俺たちの家族は、親父がほとんどいつも不在だったために、一般的な家庭にある旅行をはじめとする行楽の行事が驚くほど少なかった。それに親父は勤め人の経験もなく高校を中退して大自然を生業のフィールドに選んだ人間で、大勢が集まる公共の場所やフォーマルな場を極端に苦手としていた。
駅前のちょっとしたレストランや郊外のショッピングモールに出向くことさえ嫌がったものだ。登山や釣りのようなアウトドアにはもちろん好んで足を伸ばしたが、今度は姉貴とおふくろが億劫がり、家族全員でどこかへ出かけたという記憶はほとんどない。
だからその写真も、自宅の居間での食事の風景を写したものだった。姉貴がセットしたセルフタイマーで撮影したのだろう、俺たち四人は少しだけ中心からずれ、ピントもわずかにぼやけている。
古びた小さな食卓を家族が囲んでいるだけの、ありふれた光景。おふくろと姉貴が穏やかに笑い、俺はふざけた顔をして、その横で親父がぎこちない笑みを浮かべている。遠い異国への旅路に持参するような記念写真ではない。いくら我が家でも、もう少し見合った写真があるだろうと思った。
それでも親父は、この写真を選んだ。俺にはそれがいかにも親父らしい気がして、死と隣り合わせの状況にもかかわらず、心がなごんだ。
親父はその写真を、じっと、長いこと見つめていた。
それから写真をポケットにそっとしまい、頭上を見上げ、深く息を吸い込んだ。何かを決意した仕草に思えた。俺は親父が何をしようとしているか想像できた。不思議と悲しみの感情はない。親父自身から、悲壮感のようなものが感じられなかったからかもしれない。
壁にもたれた姿勢のまま、後ろに伸ばした両腕で体を支え、腕に力を入れる。同時に腰をわずかに浮かせて、一歩ずつ、穴に向かって、親父は進みだした。
ふたたび穴のふちまで来て、一度動きを止めた後、最後の別れを告げるように、写真が収まっている胸のあたりに手を当て、目を閉じた。
そしてまぶたをきつく結んだまま、親父は、頭から倒れ込むようにして、その縦穴の中へと落ちていった。
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