第44話「フィンランド・ユヴァスキュラ(15)」

 連中の動きは恐ろしく早かった。あるいはゼンと俺がフィンランドへ訪れたときから、すでに準備がなされていたのかもしれない。


 老人の通訳を名乗るあの男からの連絡は、ケンジを救い出した翌朝に再びゼンのスマートフォンにかかってきた。


 俺たち三人はそのときちょうど、ユヴァスキュラの街のはずれにある、小柄な老夫婦が営むこじんまりとしたホテルの食堂で朝食をとっているところだった。ホテルは、あの後すぐにゼンが探し、手配した。とりあえずゆっくり寝られるベッドと清潔なシャワールームがあればいいだろ、そう言ってゼンはこの宿を見つけた。物言いはぶっきらぼうだったが、ケンジに配慮してくれているのがわかった。


 街の中心ではなくわざわざこんな郊外の宿を選んだのは、人びとの往来が絶えない中心街で暴れたと思われるケンジの殺戮の記憶を刺激しないためだったに違いない。ケンジがシャワーを浴びている間、俺はソファで足を組みコーヒーを飲むゼンに、ありがとな、と礼を言った。ゼンは、何のことかわからない、というふうにとぼけながら、かすかに照れ笑いのような表情を浮かべコーヒーをすすった。


 ケンジは疲れてはいたが、肉体的には長期の監禁生活をまったく感じさせないほど安定していた。食事も自分でとり、風呂にも一人で入り、見た目にもひどくやつれたりしていなかった。ただ、俺の知るケンジとは違い、終始無口だった。自分も穴の向こうへ連れていってくれ、そう俺とゼンに悲痛な懇願をして以来、ほとんど何も言葉を発していない。


 その晩、俺たちはかなり早い時間に眠りについた。翌朝、透きとおるように白く艶やかな肌をした初老の女将さんからのモーニングコールで目が覚め、顔を洗い食堂へ行った。隣の部屋に泊まったゼンはすでに席につきトーストとソーセージを口に運んでいるところで、ケンジは、俺と一緒に起きてきた。


 そこで食事をしている最中に、電話が鳴ったのだった。


「準備が整った、どこにいる、すぐに、迎えを寄こそう」


 30分後、ホテルの前に一台の車が停まった。そして俺たち三人を乗せ、走り出した。ハンドルを握る男は、あの寡黙な大男とは別の、痩せて頰がこけ目つきの極端に鋭い刃物のような男だった。廊下に伏せていた無口なあの運転手はどうなったのだろう。ガスで命を落としたのだろうか、それとも、俺たちを逃した責任を取らされ拷問のうえ闇に葬られたのだろうか。


 数時間後、俺たちは背の高い針葉樹と豊かな緑の下生えと無数のキノコとまばらな雪が地表を覆う深い森の中にいた。正確には何時間移動したのかわからない。車に乗ってすぐ、目隠しを求められたからだ。


 目つきの異常に鋭い細身の運転手は、何の説明もなく、黒い布地のアイマスクをポケットから取り出して俺たちに手渡した。アイマスクを手にしたまま着けようとしない俺たちを見て、舌打ちと短いため息をつき、プリーズ、と鼻の頭を撫でながら気だるそうに言った。


 オーケイ、とまずゼンが応じて装着し、俺とケンジもそれにならった。男は何も言わず、車を走らせた。何の変哲もないアイマスクで、そっとずらせば外の様子をうかがうことも簡単にできる。だが俺はしなかった。ケンジたちもしないだろうなと思った。俺たちは連中の悪事を世間に暴露しようとするジャーナリストでもなければ、未踏の秘境を開示して名声を狙うブロガーでもない。目的地までの道のり、帰り道を知る必要はない。戻ってこられるかどうかすら、わからないのだから。


 しばらくして車が止まった。ドアの開く音がし、運転手が降りて、目隠しをしたままの俺たちを一人ずつ座席から降ろした。体に触れる男の手は大きく、そして冷たかったが、視界を封じられた俺をエスコートする動作は驚くほど丁寧だった。


 別の乗り物に乗せられ、革製らしいイスに座ると、太もものあたりを軽く叩かれ、下方から、グッドラック、と運転手の声が聞こえた。直後にドアが乱暴に閉じられ、小刻みな振動と、プロペラの回転音が鳴り始めた。ヘリコプターだった。振動はあっという間に全身を揺さぶる激しいものに変わり、ヘリはすぐに離陸した。


 容赦ない轟音と振動に揺られ続け、やがて、ヘリがゆっくりと降下し、止まった。地面に足が触れる前から、そこが森林だとわかった。森の、清らかで澄んだ匂いが鼻に飛び込んできたからだ。


 ロヴァニエミの森小屋に向かう途中の幻想的な北欧の森林風景が、光のない視界の中に思い出されて広がった。


 そこからさらに、連中の仲間から手を引かれて歩いた。耳に届く足音の数や機材のこすれる音や雰囲気から、かなりの人数だと知れた。過去に何人もの仲間たちを穴に見送り続けてきたスタッフたちが、今回は俺たちを見送るのだろう。彼らの中に、ゼンと俺とケンジが無事に戻ってくると考える者は一人もいないだろうな、と俺は思った。


 森の行軍は、しばらく進んだところで止まった。


 そしてそばにいる俺たち以外の誰かが、低く小さな、だが押し殺した高揚を含んだ英語で、着いたぞ、ここだ、と呟いた。

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