第43話「フィンランド・ユヴァスキュラ(14)」
「ケンジ、おい、ケンジ!」
脱出した建物の前庭で、俺はもう一度ケンジに呼びかけた。ケンジはよく手入れされた芝生の上に腰を下ろしている。まだ意識が混濁しているらしい。
呼びかけとともに肩を強く揺すると、ケンジはハッとして目を幾度かこすり、初めて外の世界に出されたみたいに恐るおそる周囲を見渡してから、自分を見下ろす俺とゼンに目を向けた。
アイリがどこにいるかわかるか、と俺は聞いた。ケンジは俺の目をじっと見つめ、それから下を向いた。
「わからない」そうとだけ呟いて、ケンジは黙った。
ふいに、ゼンがスマートフォンを服のポケットから取り出し、耳に当てた。しばらく神妙な顔を見せてから、君にだ、と俺にそれを差し出す。ゼンの手からスマートフォンを受けとり、もしもし、と俺は話しかけた。
電話口の男は、老人の通訳だと日本語で名乗った。ついさっき画面越しに聞いた声のはずだったが、電話を通じて耳にすると、恐ろしく低く事務的な口調に聞こえる。
男は、いや老人は、君たちの電話の番号を調べるくらい造作もないと言った。俺は、本当にそうだろうか、と思った。ナガミネが関係しているのではないか、という気がした。だがそれはどうでもいいことだった。
アイリはどこだ、俺はそれだけを聞いた。
電話の向こうに沈黙が流れる。それから、息をふっと吸い込む音がしてから、男は喋った。
「お察しのとおり、別の場所にいる、彼女は、生きている、まだ、今のところは、生きているよ」
ケンジは地べたに座り込んでいる。不安そうな眼差しで、俺を見上げている。
穴へ行くのだ、と電話口の男は言った。
「穴の向こうへ行ってもらう、そうすれば彼女は解放しよう、約束する、
念のために言っておくが、彼女は、ディアーボにはならなかった、信じられるかね、およそ考えつく限りのあらゆる苦痛を与えられても、彼女は、激しい怒りに支配されることがなかったのだ、かといってすべてを放棄したわけでもない、これはなかなかに信じがたいことだ、
たいていの場合、絶望的な監禁状態に置かれた人間は狂気に走る、精神的な疾患に逃げ込むわけだ、彼女も当初はその兆候を見せはした、いっときは廃人のような雰囲気をまとったこともあった、だが結局、そうはならなかった、
目を見ればわかる、彼女ははっきりとした意思を持ち、それを、保ち続けた、
ディアーボへの転化は、転化、と我々はいつからかあの現象を自然とそう呼ぶようになったのだが、サヴァイバーがディアーボへの転化を遂げるのには、強烈な、激甚な度合いの怒りを必要とするらしいことがわかってきた、自己放棄的な怒りだ、もっともサンプルが少ないために、確定的とまでは言えないがね、
君のお友達のあの女性に、その種の怒りを植えつけることはできなかった、そして精神を破壊することもできなかった、我々は今や彼女に、ある種の尊敬の念を抱いてさえいるよ」
話の真偽はわからなかった。ケンジが監禁された部屋で見せられたアイリらしい女性は、明らかに精神を蝕まれていた。その後回復したのだろうか、あるいはあれは、別の女性だったのだろうか。
だがそれらの考えを、結局口には出さなかった。その真偽を確かめるすべはない。アイリの居場所を知るのは、今のところ連中だけだ。俺は、少し待ってくれ、と言ってゼンにここまでの話を伝え、それから電話口の男に回答した。
電話を終える際、スタッフを派遣する、その準備ができ次第、また連絡しよう、男は口調を変えずそう言った。
それからすぐ、今度はナガミネから電話がかかってきた。ナガミネからだと伝えると、ゼンは、君が話せというふうに目で俺に示した。
どうしたんだよ、と俺が聞くと、電話の向こうのナガミネはそれには答えずに、どうだった? と質問で返してきた。あまりにタイミングが良すぎるが、俺たちの反応を楽しんでいるような節は見られなかった。
これまでの経緯を、できるだけ簡単に、俺は説明した。ナガミネはそれを、いつもと違いほとんど相槌も打たずに聞き、俺がひととおり話し終えると、そうか、健闘を祈る、とだけ言った。
ゼンも俺も、ナガミネと老人の関係については何も聞かなかった。バケモノがひしめく異界へふたたび飛び込もうというときに、そんなことはどうでもよかった。
ナガミネは最後に、こっちも楽しくなりそうだ、とだけ言い、俺の反応を待つことなく電話を切った。俺の意識は、すでにナガミネではなく穴の先の異界に向きかけていた。
ゼンにスマートフォンを返す。彼がそれをポケットにしまい、空を見上げて、まずは食事でもしようか、と独りごとのように呟いた後、それまで無言のまま座り込んでいたケンジが、何かを決意した表情をして立ち上がり、言った。
「ディアーボの世界に、俺も行く、俺に、罪を償わせてくれ」
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