第37話「フィンランド・ユヴァスキュラ(8)」
俺から顔を隠そうとするように、ケンジは下を向き押し黙っている。
小さく震えるケンジを見つめる。
逆の立場なら、と俺は思った。もし逆だったら、俺はケンジに、何も言わずただここに立っていてほしい、そう思うだろうな。
今ケンジがそう感じていることが、直感でわかった。そして俺も、かける言葉を見出すことができずにいた。
にもかかわらず、俺は、これだけは伝えないといけない、そう思い立って、震えるケンジの肩にもう一度手を当て、言った。
「なぁ、ケンジ」
ケンジは小刻みに体を震わせたまま、こちらを見ようとしない。
「聞いてくれ、ケンジ、一度しか言わないからさ」
叱られて泣いていた幼児が父親を見るような顔で、ケンジが俺を見る。
「ケンジのしたことは、とりかえしのつかないことかもしれない、でも」
俺は、体の中心からこみ上げる何かを、唇を強く噛んで飲み込んでから、怯えたケンジの目をまっすぐに見つめ、もう絶対にこんな思いはさせないからなという意志を込めて、言った。
「生きていてくれて、本当に、よかった」
ケンジは、目をわずかに見開いて、しばらくのあいだ、まばたきもせず俺を見上げた。震えが、止まっていた。
俺も、まっすぐにケンジを見返した。
止まっていた震えが、ふたたび始まる。そして、大粒の涙をこぼし、ケンジは膝をかかえて泣き出した。俺は胸元まで迫り上がる思いに手が震え、その手で、ケンジの背をもう一度さすった。
ケンジが、目を強くこすり、俺を見上げ直して何か言おうとしたときだった。
俺の背後の壁の一部が強い光に照らされ、スクリーンが浮かびあがった。あの、革張りのイスの背もたれに顔を隠した老人が映っていた。そちらに気づいて視線を向けたケンジが、怯えと怒りの混じった、複雑な表情を浮かべる。
不自然なほど長い間をとってから、老人は、怒りなんだ、とひと言ずつ区切り英語で呟いた。
怒りが、彼を、偉大な怪物に変えた。
それだけ言って、老人は黙った。
画面が、ふいに切り替わる。ほとんど明かりのない一室がスクリーンに映し出された。薄闇のようなその部屋の中央に、ベッドが一つ、据えられている。
嫌な予感がした。
ベッドの上に誰かいる。半身を起こしてはいるが、暗さのために顔は見えない。だが見えるかぎりの体格や髪型から、それがアイリだと俺は思った。
アイリと思われる女性の映る画面に、別の人物が二人、現れた。覆面のようなもので顔を隠した大男だった。二人は十分にカメラを意識して、ゆっくり、一歩ずつ、ベッドへと近づいた。
迫る男たちに気づいたアイリが、あああああ、と声にならない声を漏らし始めた。近寄る大男に恐怖しているというよりは、二人が視界に現れたら自動的にそう反応するよう刷り込まれているような感じがした。連中から、どれほどひどい扱いをくり返し受けたのだろうか。
悲鳴は男たちが近づくたびに大きくいびつで不穏なものになった。体の一部をベッドに固定されているのか、それとも逃げる気力さえないのか、アイリはその場を動かずただ声を漏らし続ける。
俺の知る気丈で勝気なアイリとは、まったく別の女性がそこにいた。
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