第38話「フィンランド・ユヴァスキュラ(9)」

 一人がベッドの下側に、別の一人が、アイリの枕元に立った。薄暗く灯っていた照明が完全に落とされる。画面には暗闇が広がり、邪悪な男たちも、その男たちに震えるアイリの姿も消えた。


 だが二人組が行使する暴力の音と、それに反応して放たれるアイリの悲痛な声が、闇の向こうから響き始めた。


 ケンジは画面から顔をそむけ耳を塞ぐ。それでも頭を激しく振って苦しんでいる。耳を塞いでも音が聞こえるよう特殊な装置でも埋め込まれているのかもしれない。連中ならそれくらいのことはできるだろうし、必要とあればためらいなく実行するだろう。


 アイリの声はますます大きくなる。


 それはもう声ではなく、天敵に追いつめられ傷ついた獣が死に際にあげる叫びのように俺には感じられた。そして初めて耳にするその絶望的な叫び声が、俺の中に澱のように溜まっていた危うい感情を強烈に刺激した。怒り、だと思った。


 同時に、自分がケンジと同じくディアーボのような怪物になる光景がイメージとして浮かんできた。


 鮮明でグロテスクなイメージと激しい怒りの感情に戸惑いを覚えたそのとき、ベッドでのたうち回るケンジが、耳をつんざくような異常な雄叫びをあげた。我に返り、俺はケンジを見た。


 ケンジは、ディアーボになりかけていた。あのマナウスの男性のように、全身の皮膚がどす黒く変わり、質感が明らかに変化して、肩や首、胸の筋肉が異様な膨張を見せ始めた。


 ケンジ、おい、ケンジ、


 ケンジの変化は、マナウスの男性とは決定的に何かが違った。この場に自分がいるからだろうか、圧倒的な暴力の予感と重圧が部屋を満たしていく気がした。ケンジの周辺の空気が恐怖の感情に震えてでもいるかのように、辺りに異常な密度の緊張が張りつめ、針で刺されるような痛みが肌に断続的に走る。黒いディアーボを前にした恐怖ともまったく違った。


 おい、ケンジ!


 俺が怒鳴るのとほとんど同時に、部屋の天井付近の空調から、一斉にガスが噴射された。ガスは勢いよく広がり、あっという間に室内に満ちる。危険を感じて俺は無意識に目と鼻をふさぎ、口を閉じた。


 強力な弛緩ガスに違いない。ケンジが呻くのが聞こえる。やがて、その声も小さくなっていき、部屋に充満する暴力性を帯びた空気が萎縮していくのがわかった。


「目を開けても、大丈夫だ」


 老人の声がした。


 警戒してしばらく目を閉じたままでいると、もう一度、目を開けなさい、と声が聞こえた。


 俺は、ゆっくりとまぶたを開いた。


 空調が操作され、ガスが抜かれたのだろう。ケンジは元の姿でベッドにうつ伏せになっていた。意識はないように見えた。よだれを垂らし、舌を出して倒れている。皮膚はまだわずかに黒ずんではいるが、筋肉の膨張は収まっているようだった。


 アイリたちを飲み込んだ暗闇の映像から、スクリーンは老人を映したものへと移っている。老人は、背をイスに預けたまま黙っていた。俺はケンジから画面に視線を移し、呼吸を整えてから、日本語で言った。


 どうしてこんなことをする、何が目的なんだよ。


 老人はかなり長い間、何も答えなかった。俺は、あんたの目的は何なんだ、ともう一度聞いた。


 通訳を介したのだろう、別の男の声を通じて、老人が言った。


「君たちがいれば、君たちの力を結集すれば、向こう側へ、行ける」

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