第36話「フィンランド・ユヴァスキュラ(7)」
「……不思議な感覚だったよ、時間が止まったら、きっとあんなふうな感じになるんだろうな、実際、ほとんど止まっていたみたいだった、すべてがゆっくり、本当にゆっくりと動いてるんだよ」
ケンジはいつの間にか体を起こし、ベッドに伸ばした自分の足先を見つめている。俺に話しかけているのに、俺を見ようとしない。
「テイクアウトのコーヒーを片手にスマホを見て歩いてるビジネスマンもいたし、お揃いのダウンを着て手を繋いで笑いあってる若いカップルも見えた、
双子だろうな、二つ並びのベビーカーを押す母親が一足先を駆けてく長男らしい男の子を笑顔で注意してた、道沿いに並べられたカフェやレストランの屋外席でのんびりお茶や昼ごはんを楽しむ客も大勢いたよ」
ディテールを語るケンジの言葉に、その景色が頭に浮かんできた。どこにでもある、平和な昼のひととき。
「その光景の中に、俺が飛び込んでいくんだ、ホラー映画で主人公が正体不明の怪物にいきなり遭遇したシーンを低速再生させたみたいに、わずかずつ、人びとの表情が歪み始めるんだ、
俺自身の姿はもちろん見えない、だから彼らが何をそんなに恐れているのかよくわからない、俺は酒に酔ったような具合で、自分を制御できない、ただ何かに従うようにして暴れまわるだけだ、コーヒーを手に歩いてたビジネスマンは、俺が右手を一振りしただけで上半身がそっくりなくなってしまった、殴るだけだったら普通倒れてコーヒーがその辺にこぼれるだろ、そんなんじゃないんだ、はじめから上半身なんてものはそこに存在しなかったみたいに、そっくり、きれいになくなっちゃうんだよ、コーヒーなんて紙のカップごとどこかへ消えてしまった、こぼれるとかそんな次元じゃないんだ、
変だと思うだろ、全体の記憶は実際ひどく曖昧なんだ、だからどこまでが現実なのか俺もよくわかってない、でも、ごく一部の、たとえばベビーカーで気持ちよさそうに眠る双子の赤ん坊の頭をそれぞれ両手でつかんで卵でも潰すみたいに簡単にぺしゃんこにするシーンとか、目の前でそれを見た母親が叫びもせずに白目を向いて口をぱっくり開けたままスカートをびしょ濡れにしてその場に膝から崩れ落ちるところとか、細部だけ、異常に具体的なイメージが浮かんでくるんだ」
もういい、と、俺は初めて口を開いた。
「知ってるか、ああいう、向こうからしたら極限の状況ではな、大人よりも子供のほうが強いんだ、
おもらしして気を失いそうになってる母親と俺のあいだに、例の、さっきまで落ちつきなく辺りを走り回ってた男の子が割り込んできた、目に涙をためて、足は気の毒なほど大きく震えてた、俺にわからない言葉で何か叫んでくるんだけど、震えのせいでそのたび上下の歯が当たってガチガチ音が鳴るんだ、あれほどの震えってのは見たことがなかったよ、
それで、その男の子が、母親を守ろうと両手をバッと広げて立つんだけどさ、背が低いだろ、だから母親の、ちょうど胸から先がその子の頭の上に出てるんだ、それで俺は、そこを目がけて、右手に力を入れて思いっきり振って……」
ケンジ、もういいよ、もういいんだ。
語気を強めてそう言い、俺はケンジの頭を抱きしめた。
ケンジはまだ何か言おうとする。それを制するように、そっと力を入れて抱き寄せる。ケンジの頭部は、恐ろしく冷たい気がした。
ケンジが、また何か喋ろうと口を動かした。いいんだよ、俺は背中に手を当て、何度か、ゆっくりと手のひらでさすった。
その手に、かすかな振動が伝わってきた。
ケンジは、消え入りそうな声で、怖いんだ、と呟いた。
「自分でもわかってる、あれは現実なんだ、アイリのことで我を忘れた俺が、ディアーボみたいな怪物になって、どこかの街で暴れたんだ、何の罪もない平和な街の人びとを、殺し尽くしたんだよ、どうやってその場所まで行ったのかはわからない、そもそも自分がいるここがどこなのかだって知らないんだけどな、
けどそんなことは重要じゃない、それで俺のやったことが帳消しになるわけじゃないんだ、あれ以来、目を閉じたり、眠ったりすると、ふいにあの情景が浮かんでくる、毎回じゃない、だから恐ろしいんだ、うっかり忘れていて、ぼーっとしてるときに、唐突に、泣き叫ぶ人びとや飛び散る血や肉や手の中で潰れた赤ん坊の頭の感触が思い出される、そのたびに、自分が何をやらかしたのか恐ろしくなってくる」
軽く押しやるようにして、ケンジは、自分を抱きかかえる俺の胸を手でぐいと押した。そして俺を見上げた。
ケンジの目は、正常に戻っていた。目は潤み、赤らんでいる。
「サクヤ、俺は、絶対に許されないことをやっちゃったんだよ」
ケンジの痛みはわかるよ、などとは言えなかった。わかるわけがない。初めて見る表情を浮かべるケンジを前に、俺はかける言葉がない。
「アイリは俺のせいでひどいことをされた、地獄のような苦痛だよ、数百人の人びとが、俺の手で泣き叫び、絶望を味わって、命を落とした、全部、全部だ、俺が引き起こしたんだよ」
違う、と言おうとして、できなかった。何も違わない。ケンジの言っていることは、何も、間違っていない。
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