第34話「フィンランド・ユヴァスキュラ(5)」

「あらゆることをされたよ、連中は、俺があの黒いバケモノみたいになって、暴れだすのを期待したんだ、

 罵られたり、殴られたり、わけのわからない注射を打たれたりした、何日も眠らせてもらえないこともあったし、反対に長いこと放っておかれたときもあった、そういうときは食事も飲み物も出されないんだ、空腹と渇きで、それこそ狂いそうになったよ、

 空腹はつらいんだ、あれは本当に耐えられない、食べられないなんてこと、普通は経験しないだろ? 俺たちはいつも何か口にしてるから、それがぱたっとなくなっちゃうと、それだけで体がおかしくなっちゃうんだよ」


 オレンジの照明に包まれた部屋は空調がほどよく効いているのか、暖かくも寒くもない。奥の壁、天井近くに網目状の小さな穴が数個ある。あれが空調なのだろう。


 ケンジの声には抑揚がない。友人の恐るべき告白というより、念仏か知らない国の音楽のような感じがする。


「それと、あれは本物だろうな、戦争で人が死んでいく記録映画とか、砂漠で首を切られて処刑される捕虜の映像や、写真を見せられたりもした、

 ほら、昔一緒に観た映画であったろ、どうしようもない不良が更生施設に入れられてさ、全身拘束されて延々と古い映画なんかを見せられるやつだよ、

 本当にあんな具合に、まぶたが閉じないように器具で固定されて、横に座った係員みたいのが目薬さしてくるんだ、ああやって洗脳しようとするんだろうな、効果があったかどうかは知らないけどさ」


 感覚が慣れてきたのか、口調が滑らかになってきた。だが淀みなく語られる話の内容は、現実味に欠けていて、共感することも理解することも難しい。

 そういえば俺は、さっきからひと言も発していない。


「連中はとにかく、どうにかして俺を怒らせたいみたいだった」


 ケンジがそう口にしたとき、ふいに、全身に小さな緊張が走った。なぜかはわからなかった。


「それで、俺は、素直にヤツらの期待に早いとこ応えてればよかったんだ」


 緊張の理由がわかった。口調だ。ケンジの口ぶりが、変化した。淡々としていた語気がわずかに強まり、感情が、見え隠れした。


 後悔の念、だと俺には感じられた。


「俺は、本当に、早くそうすべきだったんだよ」


 嫌な汗が首のあたりから噴き出すのがわかった。


「連中は、最後の手を使うことにした、あいつらは、俺を怒らせるために、アイリを、利用した、想像できる中でもっともひどいことを、アイリに、アイリにだぞ、ヤツらはやり始めたんだ、

 信じられないだろ? テレビとかマンガの中だけの話だと思ってたよな? 俺だってそうだ、期待する何かを引き出すために、何にも悪くない女の子をボロボロになるまで痛めつけてそれを延々と愉快そうにやり続けるような人間や集団なんて、本当のところこの世界に存在しないんじゃないかってそう思ってた、

 でも違うんだ、俺たちは間違ってたんだよ、自分のためにどこまでも平気で残酷になれる人間ってのがいるんだ、恐ろしいよ、ぞっとする、

 けどそんなヤツらと、俺は、変わりないんだ、いや、俺のほうがもっと、残酷だったんだよ」


 アイリの名をケンジが口にした瞬間、俺の中で何かが弾けた気がした。それは気づきだった。


 アイリだけは無事だと、勝手に、信じていた。すがっていたのだった。俺やケンジを襲った出来事から、俺たちを取りまく狂った環境から、アイリだけは無関係でいられる、そう思い込もうとしてきた。


 俺は甘かった。ディアーボと遭遇したあの日から、混乱と狂気の只中に巻き込まれながら、それでも現実を直視していなかった。次々迫り来る混沌に、ただ、身を任せていただけだった。


 けど俺は、いま、完璧に理解した。現実と、初めて対峙した。


 世界は無慈悲で、途方もなく、醜い。

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