第22話「フィンランド・ロヴァニエミ(2)」

 ボクにはね、とゼンは穏やかな口調で言った。スタッフに案内された部屋の、深いグリーン色をした大きなソファに腰かけながらだ。聞いてほしい話がある、ロビーでそう切り出したゼンは、俺がうなずくと、部屋へ行こうか、と席を立った。


「ボクには、夢があるんだ」


 ソファと2台のベッドが置かれた室内には日本で見慣れたエアコンがない。そのために、窓の向こうから雪の降る音が聞こえてくる気がする。だが部屋は心地よい暖かさに包まれている。壁沿いに設置された、横倒しのハシゴのような暖房器具が、屋外の凍てつく寒さから部屋を隔ててくれている。


 夢? と俺は聞き返したりしなかった。ただ無言で足元の床を見ながら、一度だけ首を縦に振って応えた。ひどく疲れていた。樹海の街から始まった悪夢のような日々の中で、一瞬とはいえ初めて休息らしい休息がとれ、心と体が早く休みたがっていた。


「サクヤ君、きみのママは元気にしてるかい?」


 唐突にゼンがそう聞いて、俺は顔を上げて隣に座る彼を見た。ゼンは和やかな微笑みを俺に向けていた。母親はいない、病気で死んだ、短くそうとだけ答えた。そうか、それはすまないことを聞いたね、などとゼンは言わない。ただ静かに、うん、と呟いて俺から視線を外した。ゼンらしい反応だった。


「ボクのママもだよ、もうこの世にはいない」


 ゼンは目の前のベッドを見つめている。その横顔は柔和で落ちついていて、戦争や殺人を思い起こさせる印象を見つけることはできない。ディアーボも鎧の怪物もマフィアの連中も、すべてが冗談に思えてくる。俺もベッドに視線を向ける。あそこでゆっくり睡眠をとり、目を覚ましたら、平和で退屈な現実に戻れるだろうか。


 自殺したんだ、とゼンは言葉を継いだ。不思議と驚きはしなかった。人間はいつか死ぬ。自然に老いるか、誰かに命を奪われるか、自分で命を絶つか。そこに大きな違いなんてない、そんな考えが頭の中を流れた。


「ママはね、ある宗教家に恋をしたんだ」


 ベッドを見つめたまま、ゼンは続ける。


「その男は、1960年代にアメリカの中部で台頭した、新興宗教の教祖だった」


 外から車のエンジン音が聞こえる。別の宿泊客がやってきたのだろう。


「男は情熱的で、正義感にあふれた人物だったそうだ、当時は、まぁ今もだけどね、大半の宗教団体は怪しげで教義も欺瞞に満ちたものだった、

 そんな中で彼の団体は当初から一貫して人種差別の撤廃を掲げ、中部のマイノリティを中心にその勢力を急拡大していった、

 そして彼があるとき行なった演説を聞いて、田舎から出てきたばかりの若く美しい学生だったママは、恋に落ちたんだ」


 まるで自分がそばで一部始終を見てきたかのようにゼンは語る。どこまでが本当でどこからが嘘か、そんなことは考えなかった。静かで淡々とした彼の口調に、ただ引き込まれた。疲れは全身に残っていて、今すぐ目の前のベッドに倒れこみたいという思いと、こうしてゼンの話を聞いていたいという欲求が俺の中で交錯する。ゼンはそんな俺に構わず、母親の話を語り続ける。


「ママはその宗教団体に参加することにした、すぐに男から見初められて、無数にいる愛人の一人になった、めかけというやつだね、その関係がママの望んだものかどうかはわからない、ただ、彼が望んだものであることは間違いない、

 好きな相手が望むものを受け入れたい、ママはそういう考え方をする女性だったんだ、だからママにとって、きっとその関係は幸福なものだったと思う」


 ゼンの話には曖昧なところが見られた。教祖との関係が母親にとって望むべきものだったのかそうでないのか、彼の考えは手探りな感じがした。きっと、と俺は思った。ゼンはこの話を、初めて他人に打ち明けているに違いない。言語化するのが初めてのことで、彼自身、自分の考えや思いを慎重に確かめながら話しているのだろう。


「事態が暗転したのは数年が経ったころだった、信徒の数が膨らんで全米でもかなりの知名度を獲得した教団は、メディアや世間から危険視されるようになった、スキャンダルの格好の標的になり始めたんだ、

 白人が支配層を占める団体の実情が明るみに出て、彼らが掲げる人種差別撤廃の主張もパフォーマンスに過ぎないとの報道が勢いづき、愛人関係をはじめとする教祖のプライベートにもスポットが当てられて、彼の人格そのものを苛烈に攻撃するメディアが次々と現れた、

 やがて教祖は外界との関係を拒むようになった、ありきたりだが、アルコール、ドラッグ、セックス、そうした快楽に逃げ込み始めた、もともとカルト宗教とドラッグは切っても切れない関係にある、彼はあらゆるドラッグに溺れたはずだ、これも極めてありきたりだが、破滅的な快楽の行き着く先は際限のない暴力だ、ちょうど同じころ日本の過激派の間でも吹き荒れていた内ゲバのようなリンチが毎日のようにくり返されたことだろう、そうやって教団は教祖の狂気に飲み込まれていった」


 過激な言葉とは裏腹に、ゼンの口調は恐ろしく静かなままだ。


「まもなく脱退者が出始めた、豹変した指導者に幻滅し恐怖を感じて団体を去る者が相次いだ、教団は急速に規模と勢いを失っていった、

 団体を指弾する世論の激しさは増すばかりだった、報道は彼らが国内に存在することすら許さない異様な雰囲気に満ちていた、

 そして教祖はある決断を下した、快楽と暴力に浸りきった頭でだ、ボクはそれが間違っているとは思わないけどね、正常な状態で何かを決めるのが常に正しいとは限らないからね、

 彼は自身が創りあげた教団の拠点を、南米の密林に移すことにしたんだ、きみたち日本人は誰も知らないようなある小国のジャングルだ、アメリカの都会にようやく慣れ始めた田舎育ちのママでも腰を抜かすほどの人外魔境さ、

 教団はこのジャングルを切り開いて集団生活をスタートした、それは当初から破壊と暴力に満ちた陰惨なものだった」


 ゼンはそこで言葉を切り、ゆっくりと俺に視線を向けた。つまらない話で申し訳ないけどまだ聞いてくれるかい? と懇願するような眼差しだった。いつものゼンではなかった。けど俺は、どちらも本物の彼なんだろうな、とごく自然にそう思った。

 

 一度だけ、小さく俺はうなずいた。


「密林を開拓して作った土地に暮らす1000に迫る数の信者たちは、教祖をはじめとする中心メンバーの支配のもと、過酷な肉体労働を強いられた、小さな子どもから持病を抱えた高齢者まで、容赦なく労働に駆り出された、

 リンチや女性への暴行も横行した、これは移住以前からの問題だったが、コミュニティが外界から完全に隔絶されたことで凄惨さを増していった、いきすぎた暴行による死者や自殺者も跡を絶たなかった、移住はコミュニティの救済にはまったく繋がらなかったわけだ、むしろ破滅をいっそう早めただけだった、自分たちだけの楽園を求めて南米に逃れた彼らを待っていたのはつまり地獄だった、

 その地獄の中で、ママはボクを身ごもった、父親は普通に考えれば教祖のはずだが、実際のところはわからない、無数にいる教祖の愛人たちも暴行の被害に遭っていたというからね、ママだけがその難を逃れたとは考えにくい、だからボクは自分の父親を知らないし、パパが誰かなんてことには興味がないんだ」


 興味がない、と言いながら、ゼンの語気がかすかに強くなった。そんな気がして彼のほうを見ると、ゼンはそれを隠すように、俺ではなく反対側の窓へ視線を向けた。


 あの窓とカーテンの向こうには、南米のジャングルとは対照的な、凍てつく白銀の森林が、どこまでも広がっている。

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