第21話「フィンランド・ロヴァニエミ(1)」

 ロヴァニエミの空港は成田とは比べものにならないほど狭かった。東京のあちこちにあるちょっとしたショッピングモールよりもずっと小さい。成田から10時間かけて首都ヘルシンキへ飛び、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港で5時間待ってから、さらに国内線を乗り継いで2時間近く北上して、ゼンと俺は北極圏の玄関口であるこの街へ到着した。


 荷物を受け取り簡素なゲートを過ぎると、すぐに空港の出入り口が見えた。自動ドアの脇に立つキオスクのような土産物屋の店先には、本家だというサンタクロースやトナカイにちなんだグッズが並べられていた。観光客らしい白人の子供や男女連れが、それらを眺めては平和な笑みを浮かべている。


 その光景に、現実感を見出すことができなかった。彼らからは数日前に別の都市をディアーボが襲ったという緊張や不安は微塵も感じられない。


 樹海の奈落から迷い込んだ異空間のような砂漠、そこに現れた人外のバケモノ、それらを蹴散らした鎧の怪物、四方から迫りくる異形の群れ……まったく予想外の生還を果たしても、何が現実で何が虚構か、俺の中でその境はひどく曖昧なままだ。


 手洗いからゼンが戻ってきた。ゼンはそばまで来ると、お待たせ、と言い、賑やかな雰囲気を放つ観光客たちに目もくれず、まっすぐ空港の出入り口へ向かった。旅行バッグ片手に、俺はヤツについていく。近くの壁に据えられた時計は夜10時すぎをさしている。


 空港の外は、さすがに空気が違った。風はないが空気そのものが東京や山梨とは段違いに冷たい。


 空港とは思えないほど周囲が暗いこともあって、吐く息の白さが際立つ。寒さのためか外に立つ人はほとんどいない。タクシーのマークの看板が掲げられたスペースの下に数名の男女が並んでいる。皆ダウンジャケットに深々とニット帽をかぶった顔をうずめて、表情がわからない。


 俺たちはその一団の背後を過ぎて最後尾に立った。すぐ前に並ぶ関取のような体つきをした白人の男が、東洋人とも西洋人ともつかないゼンとどこから見ても日本人の俺へ珍しそうに視線を向け、俺と目が合うと和やかな笑みを見せた。本当に自然な微笑みで、こういう素朴な笑顔に溢れた日常から自分が完全に遠ざかっていることに気づき、愕然とした。


 表情のこわばった俺をリラックスさせようとしたのか、男は笑みを作ったまま何か語りかけようとした。だが、何も言わず逃げるように仲間たちのほうへ向き直った。


 ゼンが目で制したのだった。ゼンは薄笑いを浮かべていたが、その目ははっきりと、俺たちに話しかけるな、そう言っていた。直後にタクシーが二台やってきて、多量の荷物を抱えたその一団はふた組に分かれて車へ乗り込んだ。発車直前、ゼンに威嚇されたあの男が後部座席から不安そうにこちらを振り向き、小動物のように怯えた眼差しで俺たちを見ていた。


 次のタクシーはなかなか来なかった。ゼンは無言のままで、俺は、目の前の景色にぼんやりと目を向けた。空港の頼りないライトにうっすら照らされて見えるのは小高い崖で、その上に、いかにも北欧らしい針葉樹が立ち並んでいる。森林の香りが強烈に意識される。雪が降ったのか、木の枝々はところどころ白い。風がないために物音がせず、空港内部から漏れ聞こえる音楽がなければほとんど無音に近い。


 本当にサンタクロースがいるなら、トナカイの首にぶら下がった鈴の音が森の向こうから聞こえてくるのではないか、そんなことが頭に浮かびかけたとき、遠くから車のエンジン音が聞こえ、やがてタクシーが俺たちの前に現れた。


 後部座席のドアが開く。それから運転手が音もなく姿を見せ、こちらを見て無表情のままうなずく。まず先にゼンが、次に俺が、タクシーに乗り込んだ。前の客の残り香か、車内からはタバコの匂いがした。


 無口な初老のドライバーが運転する車は明かりのほとんどない道路を進み、中心街らしい小さな繁華街を抜け、下を大きな河がどこまでも流れる巨大な橋を過ぎて、きつい傾斜のついた坂道へ入った。


 道路の両側はやはり背の高い針葉樹が並び、道は時おり分岐していたが、俺たちを乗せたタクシーは常に中央の道路をまっすぐ上へ上へと進んだ。


 やがて傾斜はなだらかになり、道の両サイドに木造りのログハウスが点々と見え始めた。家々の小さな窓から漏れる灯りが、薄く霧のかかった夜道を柔らかく照らす。ゼンはそれらのログハウスを無表情で眺めている。


 あの後、気づくとゼンと俺は、樹海の縦穴のそばに倒れていた。


 穴と周囲に異変はなく、どこまでも広がる砂漠は消え、人外のバケモノも、鎧の怪物も、その姿はなかった。あるのは冷えきった洞穴の奥で口を開ける縦穴だけだった。


 俺が先に目を覚まし、地面に転がった懐中電灯で辺りを照らして、すぐ向こうに伏せるゼンを揺すり起こした。バケモノに囲まれ歓喜の涙を流したゼンのまぶたは、まだわずかに赤く腫れていた。


 目を覚ましたゼンはバツの悪そうな様子を見せながら再び穴のふちから中を覗き込んだ。穴に変化は見られない。どこまでも闇が続くだけで、あの奈落の先に怪物がひしめく砂漠が広がるなどとは思えなかった。


 ゼンが怪物たちとの戦闘を求めてまた穴に飛び込むのではないか、一瞬そう心配したが、それはなさそうだとすぐにわかった。ゼンの目が正常に戻っていたからだ。涼しげな表情でじっと縦穴を見下ろすゼンは、どこか寂しそうに見えた。


 洞穴を出た俺たちは、来た道をたどって樹海を抜け、車を停めた駐車場まで戻った。互いにひと言も話さず黙々と歩いたが、どういうわけか道は完璧に覚えていた。だがそのことに驚きはしなかった。あんな体験の後では、人はそう簡単に驚かなくなる。


 スマートフォンは壊れて作動しなかった。ゼンは10分ほど車を走らせ、道端に取り残されたように立つ公衆電話を見つけて、ナガミネに電話をかけた。重要な相手の番号くらいもちろん暗記してるよ、そう言いたげに横目で俺を見たが、物悲しいオーラはヤツの周りにまだ消えず残っていた。


 電話に出たナガミネは、ちょうど架けるところだった、と言ったそうだ。俺たちが穴の向こうの砂漠に迷い込んでいた間、ナガミネは連絡はしてこなかったという。理解の範疇を軽く超えた出来事の連続で時間の感覚がすっかり狂っていたが、あの異界にいたのはどうやらせいぜい数時間らしかった。


 ゼンは砂漠とバケモノどもの話をすることなくナガミネとの電話を終えた。俺も賛成だった。


 信じてもらえないだろうということではない。ナガミネはおそらく信じる。バカにしたり笑ったりせず、じっと耳を傾けて俺たちの話を聞くに違いない。


 単純に、うまく説明する自信がなかった。つい今しがた目にした光景は、体験した事柄は、あまりに規格外で非現実的だ。自分の頭の中で存在がひどく曖昧なものを他人に語るのは難しい。そうした話を打ち明けられるのは両親やほんのわずかな友人、あるいは恋人だけだろう。無防備で弱い自分を見せたことのある相手を除いて、こういう話題は共有できない。


 樹海の街から東京に向かう車の中でそういうことを考えながら、ふと、俺にはもうそんな相手がいないのではないか、そう思った。


 次の瞬間、まったく唐突に、親父と、鎧の怪物の姿が頭に浮かんだ。


 おかしな話だった。たった今親父とあの怪物を同時に連想したことが、ではない。


 奈落の向こうの異界で遭遇した鎧の怪物に、俺は、奇妙な親しみと懐かしさを抱いた。この世かどうかさえ怪しい異様な空間で、絶望にそのまま姿かたちを与えたようなバケモノどもに囲まれながら、目的も正体もわからない人外の怪物に、不可思議な親近感を覚えていた。そしてその怪物に、アラスカで消息を絶った親父の面影を重ねていた。


 説明のつかないことだった。あのとき俺は、自分が感じていた以上にパニックに陥っていたのかもしれない。そうとしか思えない。一度目の遭遇の際、黒いディアーボと刺し違えようとした俺は結果的にヤツに救われた。そのために、知らずのうち鎧の怪物に対する好意的な感情が芽生えていたのだろうか。


 次々浮かんでくる考えに、頭の処理が追いつかない。俺は思考を止めた。考えても絶対に答えは出ないからだ。そんなことより他に、俺にはすべきことがある。 


 ケンジとアイリを、助ける。


 それだけだ。ディアーボが俺たちの日常を切り裂いたあの日以来、俺は、そのためだけに行動してきた。

 

 待ってろ、ケンジ、アイリ。


 俺の心を見透かすように、運転席のゼンが、ふいに薄く笑みを浮かべて呟いた。


「次はフィンランドか……楽しみだね」


 車が、ゆっくりと停止した。頰のこけた白髪のドライバーがこちらを振り向き、やはり無言のまま、目で窓の外を示しながら一度だけ小さく頷いた。


 タクシーは控えめにライトアップされたホテルの車寄せに止まっていた。深夜のためかスタッフの姿はない。荷物をおろした小柄なドライバーは、俺たちの顔を交互に見た後、ふっと微笑んで車に乗り込み、窓から右手を出して坂道を戻っていった。あんなに穏やかに笑えるなら、なぜ最後にしか見せないのだろう、遠ざかる車を見ながら俺はそう思った。


 ホテルは飾り気のない落ちついた雰囲気の造りで、足を踏み入れた瞬間から不思議な安心感があった。過剰なもてなしではなく素朴で和やかな態度のスタッフをはじめ、帰ってきた、という感覚を宿泊者に抱かせてくれる宿だった。


 スタッフはすぐ部屋に通そうとはせず、ロビーをあたためる暖炉やその上の壁に飾られたエルクのはく製を眺める俺たちを待合のソファに座らせ、陶製のカップにいれたコーヒーを勧めてくれた。


 ゼンは目を閉じその香りを十分に楽しんでから、一度フロントのスタッフに視線で礼を送って、隣に座る俺に乾杯の仕草をしてから、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。これまでに見せたことのない、自然で、好感の持てる振る舞いだった。


 テーブルにカップを置いたゼンは、長いため息をつき、ソファに深く体をあずけて天井を向いた。そのゼンを見て、ごく自然に、お疲れ、という言葉が口をついて出た。ゼンは興味深そうに俺をじっと見て、それから視線をはずし、これ以上ないほど親しげに、笑った。


「ああ、そうだね」もう一度カップに手を伸ばし、口元へ運ぶ。「さすがに、少し疲れたな」


 ゼンはそう言って、再び天井を仰いだ。ヤツにはまったく似つかわしくない、穏やかな雰囲気だった。後で考えてみればかなり異様だったが、同じくひどい疲労を感じていた俺は、控えめな照明の中暖炉に火が灯りかすかなBGMが流れるロビーの和やかさもあって、本心から、そうだよなぁ、と呟いて首を上に向けた。


 俺たちはしばらくの間、互いに口も利かず天井を眺め続けた。途中何度か、ゼンがこちらを見るのがわかった。何か言いたげだったが、そのたび言葉を飲み込むようにコーヒーをひと口すすっては、また天井に視線を戻した。気にはなったものの、ひどく疲れていたために、俺は何も聞かずにいた。


 やがて、何度目かに俺をじっと見た後、小さく短く息を吸い込んでから、ゼンは言った。


「君に、聞いてほしいことがある」

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