第23話「フィンランド・ロヴァニエミ(3)」

「お腹にボクを宿したことで、ママは教団を離れることを決めた、そしてある晩数名の仲間とともに、脱走を実行した」


 窓へ向けていた視線を正面に戻して、ゼンはふたたび語り始めた。


「脱走は頻発していたというからね、幹部たちも警戒していたんだろう、すぐに追っ手がやってきた、捕まれば死よりもむごい拷問が待っている、ママは身重な体で無限に広がるジャングルへと逃げ込んだ、やがて仲間たちとも散りぢりになってしまった、

 途方もない時間ジャングルをさまよい、恐怖に打ちのめされて、それでも奇跡的に、ママは一般の人びとが住む街へとたどり着いた、奇跡以外の何物でもなかった、無事に保護された彼女は、生まれ故郷のアメリカの大地を、もう一度踏みしめることが叶ったんだ、

 ほどなくしてママはボクを産んだ、南部の小さな田舎町でだ、陰鬱で閉鎖的な、典型的な村社会さ、

 ボクの誕生を祝福してくれたのはママだけだった、無理もない、世間から忌み嫌われて国を追われたカルト教団から逃げ帰った女の産み落とした子どもだ、ママの両親さえボクをその手に抱こうとはしなかった、町にいるすべての住民がボクに軽蔑と敵意の眼差しを向けてきたものだよ、

 ボクはそんなこと意に介さなかった、強がってるわけじゃない、本当に、そんなことは気にならなかったんだ、ママにさえ愛してもらえればそれでよかった」


 俺は横に座るゼンをそっと見た。横顔は恐ろしく無表情だった。俺にはそれが、せり上がる感情を押し殺そうと無理にそうしているように映った。


「ひとりでいいのさ、たったひとり、自分を無条件に愛してくれる誰かがいれば、ボクはそれでよかったんだ、

 だがママはそうじゃなかった、ママは愛に飢えていた、だからいかがわしいあの狂人に惹かれてカルト宗教にのめり込んだ、

 ママには大事な何かが欠落していた、故郷の田舎町に戻って年月が経つにつれ、彼女は教団を抜けたことを悔いるようになった、罪悪感に苛まれるようになっていった、

 そんなときにあの事件が起きた、

 南米の密林で共同生活をしていた1000名の信者が、完全に正気を失った教祖の命令で、集団自殺を図ったんだ」


 外は恐ろしく寒い。ロヴァニエミは北極圏の入り口に位置する。だが部屋の中には心地よい暖かさが満ちている。その暖かさのせいだろうか、ゼンの話にはいつものような彼の狂気が感じられない。


 2つのベッドの間に据えられたスタンドに小さな置き時計がある。すでに日付は変わっている。明日はナガミネの指定する人物に会いに行かなければならない。出発は早いとゼンは飛行機の中で言っていた。


 だがゼンは語り続ける。眠るつもりはないのだろうか。


「教祖は追いつめられていた、以前から彼と教団を目の敵にしていたアメリカの政治家が、強制労働やリンチの証拠を押さえようと本国からやってくることになった、教団の内情が暴露されれば、彼らは南米のジャングルからも追われることになる、そしてそうなるのは明らかだった、

 教祖は破滅を選んだ、武装した信者に政治家と報道陣を襲撃させ皆殺しにし、信者たちを講堂に集めて狂気に満ちた最後の演説をぶった、

 泣き叫ぶ子どもや死を受け入れられない信者たちを同胞に襲わせ、残った者たちには毒物を混ぜた飲料を飲むよう命じた、生存者はほとんどいなかった、

 教団は、完全に滅びたんだ」


 ゼンは父親が誰かなど興味はないと言った。だがきっと心の中ではその教祖だとわかっているに違いない。1000人の信者を死に追いやった悪魔のような指導者が自分の父親だと知らされたら、俺ならどう感じるだろう。その事実はまだ幼い一人の子どもに、どんな影響をもたらすのだろうか。


 考えたところで、そんなことは絶対にわからない。


「事件はアメリカをはじめ世界でセンセーショナルに報じられた、もちろんママもそれを見た、ママはショックで気を失い、数日の間うなされ続け、ようやく回復した後もほとんど食事もとれないほどの落ち込みようだった、

 ボクは4歳になっていて、ママのひどい落ち込みぶりがただごとではないと直感していた、何かが起きる、そう確信していた、毎晩不安で眠ることができなかった、同時に、いったいどれほどのことが起こるのか、ワクワクもしていたんだよ、

 そして、ママが消えた、確か水曜日だったと思う、何か大きな出来事があるときというのは、たとえば日曜とか、祝日とか、そういう感じがするんだが、何の変哲もないワークデイの、それも午後の1時とか2時とか、そんな時間帯に、ママはこつぜんと姿を消した、何かが起きるだろうと恐怖と期待に冒されていたボクでも、これにはさすがに驚いた、ママはバスルームにでも行くような自然さで2階の寝室を出て、そのまま、どこかへ消えてしまったんだ」


 俺は肉親の失踪という不幸に見舞われた4歳のゼンと自分自身を重ねた。

 

 アラスカで消息不明になった親父。

 親父は、どこへ消えたのだろうか。


「結局ママは見つからなかった、誰も見つけようとしなかった、祖父母や町の人びとは厄介者がようやくいなくなったと喜んだに違いない、本気で捜索すればすぐに見つかったかもしれないのにね、

 ボクはもちろん探したよ、必死になって探した、けど4歳の子どもだろ? 探すといっても小さな田舎町の中のさらに小さな範囲をぐるぐる何度も走り回ってそれで終わりだよ、不思議と涙は出なかった、悲しみや寂しさも感じていなかったかもしれない、ああやっぱりこうなったか、という冷めた納得感のようなものがあった気がする、ママが失踪するずっと前から、いつか彼女が目の前から消えてしまうことをわかっていたんじゃないかな、諦めのようなものがボクの中にずっと存在していたんだ、

 ママは二度と戻ってこなかった、でもそれでよかったと思う、祖父母の部屋のタンスから現金がなくなったことが発覚して、二人は怒り狂っていたからね、そんなタイミングでうっかり帰ってきたらナタか散弾銃で襲われていたかもしれない、そんな惨劇は見たくないからね、

 しばらくして、ボクのベッドの下から手紙が見つかった、ママがボクに宛てたものだった、手紙は失踪の少し前に書かれたもので、左利きのママらしい特徴的な字体で、ひどく乱雑に書かれていた、考えてみればそれがママからもらった唯一の手紙だった、今はもうどこかへなくしてしまったけどね」


 ゼンはその手紙をまだ持ってるだろうな、俺にはそんな気がした。


「手紙にはたいしたことは書かれていなかった、そういう手紙には読んだ者が涙して、辛いときや悲しいときに何度も読み返したくなるような内容が書かれていると思うだろ、でもそうじゃなかった、本当に、たいしたことは何ひとつ書かれていなかった」


 そこまで言い、ゼンは下を向いて黙った。うなだれているようにも見えた。しばらくの間、俺たちは互いに喋らずただ目の前のベッドや足元のカーペットを眺めていた。


 やがてあることを思い出して、俺は聞いた。

 あのさ、それで、あんたの夢っていうのは?


 ゼンはゆっくり顔を上げ俺を見て、ああ、そうだったね、と呟き、もう一度正面を向いてから、手紙にはね、と言葉を継いだ。


「ママからの手紙にね、ひとつだけボクの興味を引く箇所があった、穴、だ、教団がアメリカから移住した南米小国のジャングル奥地にあるという、巨大な穴のことが書かれていたんだ、ママはその穴に身を投げて、愛する教祖と仲間たちのもとへ行きたい、とこう書かれてあった、

 南米の、絶望的なほど広大な密林の奥に、驚くべき巨大さを誇る大穴が点在しているんだそうだ、

 内部に何があるのか、誰も知らない神秘の大穴だよ、ボクはずっとそこに行きたかった、そこにボクの求めるすべてがある気がしているんだ、

 もちろんこれまで何度も足を運ぼうと思ったよ、傭兵として各地を転々としていたわけだからね、その地を訪れるチャンスはいくらでもあった、でも一人では嫌なんだ、一人ではダメだったんだ、

 ボクはママと同じように、大切な人を思い浮かべながらその大穴のふちに立ちたい、善も悪もなくすべてを飲み込む、想像を超えた巨大な穴と対峙したい、ずっとその日を夢見てきたんだ、

 そしてボクは、その一部始終を誰かに見てもらいたい、自分を知る人がいなくなってしまうのは悲しいし、恐ろしいことだ、よく言うだろ、人びとの記憶から忘れ去られたときが本当の死だって、

 ボクはボクが心から行きたいと願う場所にたどり着いたことを、その幸福を、誰かに見届けてもらいたいんだ、そんなことを頼める相手は、こんなことを打ち明けることができる相手は、今までに一人もいなかった」


 言葉を切り、小さく息を吸い込んだゼンは、澄んだブラウンの目でまっすぐに俺を見ながら、ひと言ずつ絞り出すようにして、言った。


「ボクはそれを、サクヤ君、きみに頼みたいんだ」

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