第16話「山梨・南都留2(2)」

「ここだ、たぶん間違いない」


 樹海に足を踏み入れてから目的の洞穴にたどり着くまで、それほど時間はかからなかった。


 車はあの郷土料理屋の近くに停めた。警察の姿はもちろんなかったが、店は営業していなかった。深夜だから、ではなさそうだった。店の前で100名以上が殺された場所で食事をとろうと思う人はいないのだろう。

 

 生き延びた店の人たちも、俺と同じように、ディアーボによって人生を大きく変えられてしまったんだな、暗く沈んだ店の建物を遠目に見ながら、俺はそんなことを思った。


「ね、言っただろ? 圧倒的な体験っていうのはその細部に至るまで、案外覚えてるものなのさ、それがショッキングであるほど脳細胞に深く刻み込まれて、きっかけ一つで、鮮明に思い出すものなんだよ」


 ゼンはそういうことを喋りながら、洞穴の入り口に立ち内部を見下ろしている。


 ヤツの言うとおりかもしれない。深夜の樹海は、あの日ディアーボを引きつけようと駆け込んだときとはまったく異なる姿をしていた。背丈より遥かに高い大木が密生しているために、夜になると、場所によってはすぐ先の景色さえ思うように見渡せない。アジトから持ってきた懐中電灯の灯りでは、転ばないよう足元を照らすのがやっとだった。


 それでも足は、何かに導かれるように前へ進み、俺たちは、1時間とかからずにこの場所まで到達した。大地にぱっくり空いた洞穴は、光のない真夜中に覗き込むと現実感が失われていく気がした。自分がどこにいるのか、何を眺めているのか、一瞬わからなくなる。足が接する地面の感覚すら、なくなっていくように思えた。


 その闇を無言で見つめていたゼンが、さあ行こうか、と涼やかな笑みを見せながら言い、俺はつま先に力を入れて大地を確かめながら、頷いた。


 ヒカリゴケの群生する横穴を列になって進む。ゼンに言われ、俺は懐中電灯のスイッチを切った。初めて目にするのか、ヤツは薄い蛍光色で発光する岩肌をときどき指でなでる。指先に付着した弱々しい光を珍しそうに眺めながら歩くゼンに、俺は聞いた。


「ナガミネってさ、一体どういう奴なんだろうな」


 N村についてはメディアが取材を続けている。だが事件とナガミネを関連づける報道は今のところ聞こえてこない。ゼンもこの件を追及するつもりはないらしい。だがナガミネはあの夜、かたくなに否定の態度をとったりはしなかった。


「ナガミネの本当の目的っていうか、あいつ、渋谷の演説では若者が日本の未来を……とか言ってたけど、本当はどう思ってるのかな?」


 ヒカリゴケの淡い光だけが頼りの横穴を、ゼンは街中を散歩するように軽やかな歩調で奥へと進んでいく。この男の中に、不安や恐怖という感情は存在しないのだろうか。さあね、と足を止めず一度だけこちらを振り返りながら、ゼンが言った。


「さあね、わからない、でもターゲットは正しいね、日本の若者は世界の常識じゃちょっと考えられないくらいおとなしいけどそれでも大人ほどじゃない、この国でパニックや暴動に代表されるドラスティックな変革を本気でやろうとするなら、実際に行動を起こす多勢の仲間が必要だ、目的を一つにした数万規模の大集団がもし現れたら、何かが変わるかもしれない、少なくとも一時的にはね、

 そういう点で今は考えられるかぎり最高のタイミングだ、ある国で、たとえば政変のような大きな変化が起こりかけると、普通は一斉に外圧がかかる、アメリカ、常任理事国、EUやASEAN、それに超コングロマリット、とにかく世界のさまざまな枠組みにおいて圧力が加えられるわけだが、今はどの国も非常事態だ、実際に非常事態宣言を出してるわけじゃないけどね、

 どの国のトップも、また超国家的企業の支配者たちも、ディアーボの動きと、ディアーボを巧みに利用して台頭を狙う勢力に目を光らせているわけだが、もし本当にディアーボが自国に出現して国民を殺し始めたら、これはもう他の国を気にしてる余裕なんかなくなるだろう、

 肝心なのは、ディアーボについて誰も、何もわかっていない、という点だ、情報がまったくといっていいほどない、どんな特徴の生物で、いや生物かどうかすら断言できないけどね、

 どれくらいの数が存在して、それぞれの個体に繋がりがあるのか、目的は何なのか、コミュニケーションは可能なのか……何一つ、公式にはだけど、わかってない、

 何より、これまでに何匹か現れたディアーボが、どこから来てどこへ消えていくのか、それがわからないというのは、これは恐怖だよね、

 どこに潜んでるかわからないわけだし、海を渡れるのかもしれないし空を飛べるのかもしれないから、極端に言えば誰にも逃げ場はないわけだ、遭遇したら、これはもう殺されるしかない、

 そういう相手に対してメディアは不必要に民衆の恐怖を煽るのみだ、いや、それしかできないんだ、民衆のほうは勝手にあれこれ想像して、ネットのデマ情報なんかにも影響されて、おのずとパニックの下地を作り上げていってしまうんだろうね、

 そこへ、本物のディアーボが身近な場所にあちこち出現し始めたりしたら、それこそ一気に恐慌状態に突入だよ、民衆は自制心を失って、各地でデモや犯罪や暴動が頻発するんじゃないかな、

 ナガミネが期待してるのは、まさにそういうシチュエーションなんだろうな」


 そう話し終えて、ゼンが足を止めた。抑揚なく延々と続く話をぼんやりと聞いていた俺はそれに気づかずヤツの背にぶつかった。おいどうしたんだよ、文句を言いながら前を見ると、目的地に着いたのだと理解した。俺たちはひらけた空間の入り口に立っていた。黒いディアーボと鎧姿の怪物が落ちていった、あの恐ろしく深い縦穴は、空間の奥で変わらず口を開けている。


「これはすごい」


 穴のふちから中を覗き込んで、ゼンがため息とともにそう言った。驚くべき完成度の芸術作品を前にした愛好家のような反応だった。1メートル下も見えない暗い大穴を、懐中電灯もスマートフォンのライトも当てずに、じっと見つめ、ときおり小さく頷く。その様子に俺は背筋が寒くなった。ゼンが穴の向こうにいる何かと交信でもしているように見えたからだ。底からバケモノの長い手が伸びてきて、俺たちを引き込んでしまうのではないか、と一瞬本気で思ってしまった。


「な、どれくらい深いかわからないだろ? あいつらが落ちたときも、底にぶつかった音が聞こえなかったもんな」


 俺がそう説明するあいだも、ゼンは取り憑かれたように穴から目を離さない。本当に穴の底に棲む怪物と交信してるように思えてきて、なあもう帰ろうぜ意味ないよ、と俺はたまらず強い口調で声をかけた。

 そうだね、とゼンがようやく顔を上げた。


「そうだね、確かにどれだけの深さがあるか、これじゃまったくわからないな、せめてドローンを持ってくればよかった」


 言い終えた後、ゼンは何かを思いついた表情を浮かべた。そして突然歩き出し、俺を追い越して空間の入り口のほうまで戻り、こちらを振り返った。その顔は、これから起こることが楽しみで我慢できない、というふうに見えた。


 置いてきぼりの格好になった俺が、穴のふち近くに突っ立ったまま、なぜこいつは今あんな嬉しそうな表情を俺に向けてるのだろうか、と思ったときだった。


 ゆっくりと俺に向かって頷き、前に倒れ込むようにして、ゼンが、駆け出した。


 恐ろしい脚力で暗く湿った洞窟の地面を蹴り、次の瞬間には、俺の目の前まで迫った。本当に鼻先が触れ合うほどの距離で、何が起こったのか理解できずにいる俺の体に、ヤツは長い両腕を回してきつく抱きつき、駆けるスピードをまったく落とさずに、そのまま穴へ向かってダイブした。


 ああああああ、耳をつんざくような絶叫が轟く。それが自分の発する叫び声だと理解したのは、落下を始めて数秒が経った頃だった。


 俺を抱きしめたままのゼンが、耳元で何か囁いた気がした。地獄のような暗闇の中、表情は見えない。


 だが俺には、ヤツが、あの不敵で危うげな笑みを目の前で浮かべているのが、はっきりとわかった。

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