第17話「現在地・不明(1)」

 意識を取り戻して最初に頭に浮かんだのは、砂場だった。小さい頃よく遊んだ公園や幼稚園の砂場……だが実際にいるのは、もちろん砂場ではなかった。


 それは、巨大な砂漠だった。


 覚醒するにつれ、親父が20代の後半に一人旅で訪れたという、エジプトの黒砂漠の写真を思い出した。黒く重たそうな砂が、見渡すかぎりどこまでも広がっていたからだ。


 砂が固まってできたのか、小山のような砂の丘が点在しているところも、黒砂漠にそっくりだと思った。……現地のツアーガイドは砂漠のあちこちに立つ自然の造形に『ヴィーナス』や『大蛇』や『旅人』と名をつけて、誇らしげに紹介してはチップの増額をあけすけに要求してきたもんだよ……古びた数枚の写真を見せながら、親父はよくそう言って笑っていた。


 親父の思い出がちらつく頭を振り、重い体をゆっくりと動かして起き上がる。周囲を見回すと、すぐゼンが見つかった。ゼンはすでに立ち上がっていて、はるか遠くにそそり立つ、ひときわ大きな2つの砂の丘の方角を、微動だにせず眺めている。見えるのはヤツの背だけで表情は確認できないが、圧倒的な絶景を前に目を輝かせているのが俺にはわかった。


 そのゼンを見ても、樹海の洞窟で突然俺を抱いて縦穴に飛び込んだことに対する怒りは、奇妙なことに、少しも起こらなかった。最初、自分が無傷で、全身にまったく痛みを感じていないからだと思った。


 だがすぐに、そうではないと気づいた。


 怒りではない別の感情が、別の、よりシリアスな感情が、俺を支配していただけだった。

 

 圧倒的な、恐怖だ。


 そう悟ったと同時に、俺は混乱した。恐怖の根拠がわからなかった。想像もできない深さの落下を経験した恐れが、今になって襲ってきた、というわけでもなさそうだった。


 自分が何に怯えてるのか、本能がその理由を知りたがったのだろう、俺は無意識にあたりを見回していた。どの方角を向いても地平の彼方まで砂漠が広がっているだけだった。だが周囲の光景を眺めるうち、あることに気づいた。暗さだ。


 目覚めたときから、疑いもなく、今が夜だと思っていた。視界に映る空に白い雲も輝く月もなく、深い闇に覆われていたからだ。

 

 だがよく考えてみるとそれはおかしかった。完全な闇夜のはずなのに、10メートル以上先に立つゼンの姿も、そのさらに遠くにそびえる砂の丘も、地平線も、はっきりと視認できる。にもかかわらず、何か、視界を照らす光源を確認できるわけではない。恐ろしく小型で高性能なナイトビジョンを、気絶している間に眼球に埋め込まれたかのようだった。


 その異常さに気づいて、恐怖の感情が一気に高まるのがわかった。俺はたまらず、ゼン、と声をかけて彼に走り寄った。ヤツは俺の声に反応して一度振り返ったが、目が合う前に、すぐ前方へ向き直った。まるでこちらの存在に気づいていないようなその振る舞いが俺をさらに不安にさせる。巨大な砂の丘の方角を再び見つめるゼンに近づき、後方から、腕を伸ばしてその肩に触れた。


 なあ、おい、無視するなよ、この砂漠は何なんだよ……怯えと苛立ちから、語気を強めてそうゼンに言おうとしたときだった。どこからか、腹の底に響く地鳴りのようなものが聞こえてきた。


 途方もない広さの砂漠に、不穏な音が鳴り響く。足が、地面の揺れを捉える。おいやばくないか、俺は思わず顔を近づけゼンの耳に向かいそう漏らした。


 直後だった。


 ゼンが見つめる2つの砂の丘の向こうから、巨大な何かが顔を覗かせた。黒いモヤのようなものに覆われたそれは、本当に、巨大な何か、としか表現しようのない物体で、丘の狭間から見えるそれが実際に顔なのかどうかさえわからない。間違いないのは、あの物体が、1キロ近く離れた数十階建てのビルほどもありそうな砂の丘よりも、さらに大きいということだけだった。


 その、途轍もないでかさの物体が、砂の山の陰からそっくり姿を現す。そして全身を覆う黒いモヤがほんのわずかに晴れたそのとき――俺は自分が立つ広大な空間に、一瞬にして狂気が満ちるのを感じた。


 物体は、頭部と思われる部分が、これ以上は不可能だというほど腐り膨張した深海魚のように見えた。その下に、信じがたい太さのグロテスクな蛇腹が続き、末端から、異様に長い4本の脚らしきものまで生えていた。考えられるかぎりの醜悪な部位を持ち寄って造られたフィギュアのようで、恐ろしくアンバランスで不快だった。


 俺も、ゼンでさえも、その場を動こうとしなかった。動けなかった。ここに来た経緯も、この空間も、あの物体も、あまりに不可解で、異常で、理解がまったく追いつかない。眼前に広がる光景から目を離す自由さえ利かず、棒立ちのまま醜怪なバケモノを眺めることしかできない。


 視線の先にそびえる怪物も、砂の丘の前から移動しようとしない。時々、膨張した頭部だけがゆっくりと回転するが、眼球のようなものは見当たらない。


 そのさまを眺めながら、ふいに、慎重に獲物を探す捕食者のイメージが頭に浮かんだ。同時に、全身を強烈な悪寒が襲った。


 次の瞬間、異変に気づいた。

 怪物の頭部が、動いていない。


 ぴくりとも動かないバケモノを前に、耐えがたい不安が、体の奥からせり上がる。それでも、金縛りにでもあったように、体をコントロールすることができない。


 極度の緊張から、直立したまま気を失ってしまうのではないかと思ったそのとき、怪物の醜く膨らんだ頭部が、ここからでもわかるほど大きく震えだし、そして止まった。


 やがて、その頭部の中央が、ギギギ、という錆びた鉄扉を無理やりこじ開ける音が実際に聞こえてきそうなほどの重く不穏な動きを伴って、ゆっくりと、上下に割れた。目だった。


 暴力的なほどに血走った怪物の眼球、その黒目部分が、突然でたらめなスピードでぐるぐると回り始めた。そして砂漠の中央で固まる俺たちを、はっきりと捉えた。


 気を失いそうになるのを必死にこらえて、俺は、ゆっくりと視線を横に移す。


 だが隣に立つゼンの顔に、あの不敵な笑みを見つけることはできなかった。

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