第8話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡(6)」
助手席の窓の外を、夜の景色が恐ろしい速度で流れていく。
隣にはゼンがいる。体がすくむほどのスピードの中、ゼンは眉ひとつ動かさず、涼しい顔でハンドルを握ってる。
その、東洋人にも西洋人にも見える横顔に、俺は、あのさ、と声をかけた。
「あいつらいったい何なんだ? さっきあんたが言ってた、マフィアとかそういうのか?」
当然の質問だった。夜の病院に押し入って、ひどいケガでベッドに横たわる患者をかつぎ出すなんて、どう考えてもまともじゃない。
頭の中は疑問で溢れかえってる。今日、ケンジとこの街に来てから、まだ半日足らず。けど俺の脳細胞は次々に押し寄せる未知の体験、許容範囲を超えた情報の洪水、そして過度の緊張で、パンク寸前だ。
この半日で目にしたすべてが理解不能で、正直なところ、何から、どこから考えればいいのかわからなかった。自分を取りまく世界が、突然すがたを変えてしまった。その過激で、容赦ない変化に、追いつくことができない。
けど、矛盾した言い方だが、状況があまりに混沌としてるために、かえって腹は決まった。
解決の選択肢は多くない。1つずつ目の前の問題に対応しよう、そう決めた。それしか道はない。
俺の問いに、すぐだ、とゼンが答えた。
「すぐにわかる、大丈夫、ボクは聞き上手なんだ」
同時に、ヤツの目の色が、変わった。ゼンの凶暴さが、薄い膜となって眼球の表面ににじみ出たかのようだった。前を向いたままのその目が、俺を圧する。
ゼンの圧力から無意識に逃れようとしたのか、俺は最初、ヤツのセリフを言葉どおりに受け取った。冗談を言ってるのだと思った。さっき俺の病室にやってきて、こちらに喋る隙も与えず一方的に話し続けたくせに、何が聞き上手だ……そこまで思って、ゼンの真意に気づき、背筋が寒くなった。
拷問――そう確信した。自分は考えられるかぎりの苦痛を用いて、どんな相手からでも欲しい情報を聞き出せる……ヤツが言ってるのは、そういうことに違いない。
そのとき俺は、自分の中に、2つのまったく異なる感情が存在することに気づいた。
流血や破壊、誰かが苦しむ姿は見たくないという常識的な感覚と、今から行使される暴力をこの目で見たいという、サディズム的期待。アフリカ・コンゴのジャングルでディアーボと遭遇した話を病室でゼンから聞かされてる最中にふと抱いた、あの感覚と同じだった。
まるで俺の体内で、暴力と非暴力――相反する意識が形をとって互いに争ってるみたいだ。
戦場という、異質の世界からやってきたゼンの毒気にあてられているだけだろうか。
それとも俺自身の中にもともとあった何かが、芽生えようとしてるのか?
「相手も、かなり飛ばしてるね」
ゼンの言葉が思考を遮る。自問に夢中でいつのまにか目の前のダッシュボードを見つめてた俺は、視線をフロントガラスの向こうに戻した。ゼンの運転するこの車に乗り込んで、5分近く経過してる。けど俺たちの獲物、遠く前方を走る黒塗りの大型車との距離は、わずかに縮まっただけに見える。
道路のずっと向こうで小さくテールランプの灯りを浮かべるあの車に、ケンジが乗せられているのだろうか。だとすると、ケンジを連れ出したあの連中の目的は? 何のために、アイツをさらったんだ?
そこまで考えたとき、ふと、恐ろしい、だけど当然の疑問が浮かんだ。
「アイリは?」俺はほとんど無意識にそう口走ってた。「あいつら、もしかしたら、アイリのことも?」
ゼンがちらりと俺を見て頷く。
「言われてみればそうだ、うん、その可能性は大いにある、彼女も貴重なサヴァイバーの1人だからね」
どうして気づかなかったんだろう、ボクってやっぱり抜けてるとこがあるなあ、ゼンはまるで他人事のようにそんなことを呟いてる。けど俺はほとんど聞いてなかった。アイリまでが、この、わけのわからない危機の真っただ中にいるかもしれない……そんな思いに囚われ、恐怖を覚えた。
同時に、自分でも思わずひるんでしまうほどの熱が、体の奥から込み上げてくるのがわかった。
郷土料理屋の駐車場で、倒れたケンジたちにとどめを刺しに向かう黒いディアーボを怒号で制したときの感覚に似ていた。だが熱量は比較にならない。
この熱を制御することができない、そう思った。
そしてまったく突然に、熱の正体を理解した。
怒りだった。
俺はひどく戸惑った。これほど強烈な怒りの感情を持ったのは初めてだからだ。しかも対象がわからない。不思議なことに、俺たちを襲ったディアーボや、ケンジとアイリを誘拐したと思われる連中に対する怒りではない気がした。
誰に向けたものかはっきりしない怒りは、その熱量が高ければ高いほど、いたずらに当人を混乱させるみたいだ。
コントロールできない暴力的な感情に心が支配されかけたそのときだった。右腕に、激しい痛みが走った。
反射的に右を向く。
ゼンだった。
「アンガー・イズ・ア・ギフト」
英語の苦手な学生に教えるような口ぶりで、ゼンはひと言ずつ区切ってそう言った。そして続けた。
「怒りは天恵……ボクの好きな言葉だ。革命精神にあふれた扇動的なラップと、重厚でアグレッシブなリズム隊のユニゾンで90年代にアメリカを騒がせたミクスチャーバンドのリリックなんだ、
いいかい、怒りは貴重で尊いものだよ、だから無駄づかいしちゃダメだ」
愉快そうに口元を歪ませて、左手で俺の腕をつかんでいた。顔は変わらず正面を向いてる。
俺はヤツのその涼しげな横顔をじっと見た。
ゼンがゆっくり手を離す。けど鈍く重い痛みはしばらく消えそうにない。ヤツの感触が残る自分の腕に目をやる。視界に、ゼンの左手も映ってる。明るい病室では気づかなかったが、思わず目を奪われるほど白かった。
無限の愛情で育てられた若い女性のもののような、白く細長い指と、滑らかでしなやかそうな手の甲。
でも、俺にはわかる。ゼンは俺の手を握る際、ほとんど力を込めてない。コイツが、半分、いや3割程度の力を出せば、右腕はゴリラにもてあそばれたリンゴみたいにグジャグジャに潰れてたはずだ。俺の本能が、間違いないと言ってる。
そのときふいに、どういうわけか、樹海の洞穴で遭遇した鎧姿の生物が頭に浮かんだ。ほんの数分で100人以上を肉のかたまりに変えた黒いディアーボが、まるで相手にならなかった、あの怪物。
ゼンの馬鹿げた怪力が、俺にあのモンスターを連想させたのだろうか。
もう1度、隣に座る男を見た。
ついさっき病室で抱いた疑問がよみがえる。
――こいつは、何者なんだ?
表情の読めないその横顔を凝視していると、ゼンはすっと目を細め、小さくため息をついた。
「うーん、まずいね」
言葉のわりに、そうは感じられない声。それでも俺は、ヤツの視線の先を追って正面を向いた。
遠く前方に光る標的の車、そのテールランプの灯りが、急な軌道を描いて左に曲がるところだった。
左折した車は、フロントライトから強い光を放ち、一定の間隔で途切れとぎれに点滅しながら左へと遠ざかっていく。連中と同じ方向、あるいは反対方向に、いくつもの光がせわしなく行き交ってる。標的は、どうやら街路樹が整然と並ぶ大通りに出たらしい。
「幹線道路だ、あのまま行けば数分で高速だね」
ゼンが言い、俺は視線を落として中央のナビに触れた。画面を指で左へ動かす。
確かに連中の進行方向には高速道路が表示されてる。
「どうするんだ、このままじゃ逃げられちゃうぞ」
うーん、とゼンがわずかに表情を曇らせた。超人的な身体能力を持つこの男でも、遥か遠くを疾走する獲物を捕らえる術はないのだろうか?
「まあ、高速に乗ってくれれば逆にチャンスかもしれない。1度乗れば、簡単には降りられないからね」
そう言って、ゼンは今まで以上にアクセルを強く踏み込んだ。加速で車体が軋む。体にのしかかる圧力に、俺は思わずあごを引いた。歯を食いしばり、こぶしを握りしめる。
顔と体をこわばらせたまま、なんとか視線を上げて前方を見たときだった。
あることに気づいた。
たったいま標的の大型車が左折して俺たちの車だけになった直線道路――そのずっと向こうに、光が見えたのだ。
対向車だった。
光は、どんどん大きくなる。けど考えてみれば当たり前のことだ。ナビを見るかぎり、このあたりは樹海の中じゃない。総合病院が建ち、幹線道路も通る市街地だ。俺たちやあの誘拐集団のほかにも、車を走らせる人間は当然いる。
そんなことを考えてる間にも、光はみるみる近づいてきた。
その正体が、異様な速度で猛然と走る大型トラックだとわかったときには、もう遅かった。
車体を大きく揺らして爆走するトラックは、数十メートルの距離まで迫ったところで、俺たち目がけて、いきなり進路を変えた。
突然視界を塞いだ、壁のようなトラックの迫力と強烈な投光。一瞬で恐怖が全身を満たし、俺は怒号じみた悲鳴を上げながら目を閉じ身をかがめた。
だが予想した衝突は起こらなかった。ゼンが思いきりハンドルを切って回避したのだ。
「あんな遠くからあのスピードじゃ誰だって怪しむ、もう少しうまくやらなきゃねえ」
ゼンの声にはわずかな焦りも感じられない。その余裕が妙に俺を安心させた。
動悸は収まっていなかったものの、そっとまぶたを開け、上体を起こした。
トラックの強い光が網膜に残る。視界の中で、夜光虫みたいな無数の点がはじけている。
何なんだよあれ、と俺が聞くのとほぼ同時に、ゼンがバックミラーに素早く視線を走らせる。本能が危険を察知したのか、俺はほとんど無意識に、上半身ごと後方を振り返った。
道路中央に立つ、複数の人影。急ブレーキで停止したらしいあのトラックから降りてきたのだろうか。その中の1人が、俺たちの車に、何かを向けて構えるのが見えた。
そのとき俺は半年ほど前――世界がまだディアーボの存在を知らず、自分も退屈で緊張感のない日々を送ってた頃ひどくハマった、戦争オンラインゲームを連想してしまった。
ロケットランチャー、そう直感した。
おいヤバいぞ、俺がゼンの横顔にそう怒鳴った瞬間――日本で普通に生活するかぎり絶対耳にすることのない、でたらめなエネルギーで何かが噴き出される暴力的な発射音が轟いた。
それは白煙を撒き散らし、信じがたい勢いで俺たちに向かい飛んできた。
死を覚悟するヒマも、絶望を感じる間さえなさそうだった。
その危機の中で、俺は、ゼンの笑い声を聞いた気がした。
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