第7話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡(5)」

 男は自分のことを、ゼン、とだけ名乗った。


 それが姓なのか名なのか、俺は質問しなかった。

 他に、聞きたいことがあったからだ。


 俺はゼンに言った。


「サヴァイバーって?」


 けど、一番聞きたいのはそれじゃなかった。あんたは何者だ、俺に危害を加えるためにやってきたのか?

 それを確かめたかった。そして「違う」と言われたかった。


 こいつが……ゼンが病室に現れて、まだ5分も経ってない。なのに俺の体は汗にまみれ、神経はひどくざわついてる。情けない話だけど、俺は怯えていた。

 ゼンを初めて目にした人は、きっとこう思うだろう。優しそう、繊細そう、育ちがよさそう……背が高く身なりも整っていて、印象として線が細いからだ。


 でも俺は真逆の感想を抱いた。ゼンからは、圧倒的な暴力の匂いがした。

 匂い、曖昧な言い方だ。けど他に言いようがない。体の奥の奥、核となる部分に人間にとって何より大切なものが育まれる場所があって、そこにこの男の場合、ぽっかりと穴が開いて中から匂いが立ちのぼってる、そんな感じがした。


 破壊と荒廃の、臭気。

 こういう人間を見たのは初めてだった。


 サヴァイバーって、という俺の質問にゼンはすぐには答えなかった。近づけた顔を離しながら、俺から視線を外す。じらすようにゆっくり室内を見回し、ベッド脇のパイプ椅子に腰かけてから、こちらを見て言った。


「ボクもなんだ、戦ったんだよ、ディアーボと」


 あんたも? 思わずそう言いかけて、やめた。こいつの素性も目的も、まだ何ひとつ見えない。警察の人間だとも思えない。

 けどこれだけはハッキリしてる。こいつはヤバい。


 無言の俺を、ゼンは笑みを浮かべたまま見ている。


「サヴァイバーっていうのは、アレと遭遇して生き残った人間のことだ、たぶんボクが最初に言い始めたんじゃないかな、今じゃみんなそう呼んでるけど」


 ゼンのスーツは薄いグレー、淡いストライプが走る品のよさそうな柄だ。ゼンは上着のポケットからカラフルな色のアメを取り出し、口に放った。甘いフルーツの香りが漂う。

 けど、なごやかな気分なんて微塵も生まれない。あるのは極度の緊張だけだ。

 つばを飲み、俺は聞いた。のどがカラカラに渇いてる。


「みんな?」


 ああそうだよ、ゼンが頷く。

「……テロリスト、マフィア、カルト宗教、その他大小の非公然暴力組織、もちろん各国の軍部や当局、道楽好きの大富豪を上客とするエージェント、一部の超国家企業……要するに、新しくておっかないものが大好き、あるいは大嫌いな連中だ」


 ゼンは喋りながら口の中でアメを転がす。俺はそのアメを目で追った。時折それが薄い唇のあいだから覗けたり、歯に当たってコツッと音を立てる。

 ゼンと目を合わせることができなかった。そうした瞬間に何かが起きそうな予感があった。それが何かはわからない。でも望ましいことではなさそうだった。


「ボクがアレに出会ったのはもう何年も前だ、コンゴって国、知ってるかい? ボクはそこで傭兵をやっていた、とんでもなく大きな国土を持つ国なんだけど、ボクがいたのは東部でね、ルワンダとの国境あたりだ、国軍とFDLR――ルワンダの反政府勢力のことだが、これが互いに争ってた、

 それで、この地区の北側なんだけど、ヴィルンガという途方もなくでかい国立公園がある、その土地の大半はジャングルと湖だ、

 ボクはそこで、アレと遭遇した」


 コンゴくらい知ってる。けどアフリカのどこかにあるという程度しかわからない。つまり何も知らないのと同じだ。

 それより、ヤツの発した馴染みのない単語に頭が混乱した。テロリスト、カルト、軍部。傭兵、国軍、反政府勢力……具体的イメージは何ひとつ湧かない。


 こいつが嘘を言ってるかどうかを疑ったりする以前に、俺は話に現実味を感じることができないでいた。ただ、淡々とした口調や身ぶりが話に奇妙な説得力を与えていて、「傭兵だった」と言われると、スリムに見えるヤツの体が極限まで鍛え抜かれたナイフのように思えてくる。

 ゼンは喋り続けている。


「ボクら、つまりボクと何人かの傭兵たちは、その日公園の南端からジャングルに入った、戦闘のためじゃない、狩りだ、

 実のところボクは戦闘に飽きあきしてた、傭兵には大義も何もない、仲間のほとんどは金やくだらない自尊心のためにこの仕事をやってた、ボクはちょっと違う、

 小さい頃からいろいろと、一般的には重犯罪にあたるようなことを試してきたんだけどね、結局考えうるもっとも刺激的な場所が戦場だったというわけだ、

 それでいくつか、地獄とか狂気の戦線とか呼ばれる戦地に足を運んだりした」


 アメを載せたまま舌を出し、ゆっくり引っ込めるゼン。一方的に喋ってるくせに声に抑揚がなく、一見すると集中力を欠いてるみたいだ。

 けど口を挟むことを許さない異様な緊迫感が、ヤツの周囲には満ちている。


「はじめはそれなりに興奮した、でもすぐだ、すぐ退屈になった、退屈はボクにとって、いやすべての人にとってじゃないかな、致死性で遅効性のウイルスみたいなものだろ、じわじわと腐って死んでいくような、忌むべきものなんだ、それで野生動物をハントしてみようと思ったのさ、

 ヴィルンガの密林には野生のマウンテンゴリラや、カバなんかの大型獣がいるって仲間から聞いてたからね、面白そうだからと行くことにした、

 退屈してたのはボクだけじゃなかった、話をしたら数人が手を挙げたよ、それで、狩りに出かけたんだ」


 ハント、という言葉が耳に入ってきて、俺は無意識に視線を上げた。親父以外の口からそういう言葉を聞いたのはたぶん初めてだった。親父は狩猟のためにアラスカを訪れて以来、行方がわからない。

 目線を動かしたために俺はゼンの目を見てしまった。けどイヤな感じはしなかった。ゼンの目は薄いブラウンで、見つめてると引き込まれるんじゃないかというほどに澄んでいた。親父を想起させる言葉をゼンが発したことで、彼にある種の親近感を持ったのかもしれない。


「でも見つからなかった、これは後で知ったことだけどね、あの密林にはせいぜい300頭くらいしかゴリラはいないんだ、それでも世界中に生息するうちの半分程度になるらしい、

 けど考えてもみてくれ、とてつもなく広い公園にたった300頭だ、当たり前だが簡単に見つかるわけがない、ボクはちょっと考えなしなところがあるから行けばホイホイ出くわしてすぐ狩れるものと思ってた、だからガッカリしたよ、全然見つからないんだもの、

 ボクはだんだんイライラしてきた、どこにもいないじゃないかってね、もちろん昔はもっといたみたいだが、兵士や密猟者に殺されたり、なだれ込んできた難民に環境を荒らされて数が激減したんだそうだ」


 視線を合わせてじっと話を聞いてると、少しずつゼンの語るシーンが情景として浮かんできた。どこまでも広がるジャングル、日本には存在しない様々な鳥や虫や獣の鳴く声、どこからか聞こえる水流の音、深い茂みに息を殺し潜む毒蛇や大型獣、その中を仲間と進みながらひとり苛立ち始めてる迷彩服姿のゼン……。


「でも銃とナイフを持ってジャングルを歩いてるときはそんなこと知らないからね、ゴリラなんてとっくに絶滅したんじゃないのか、何て弱っちい生き物なんだって呆れたよ、

 だけど同じ景色がどこまでも続く密林を進むうちに思った、淘汰だってね、そうだ連中は淘汰された、弱いあいつらは自然から駆逐された、人間を含めた自然全体から、そう思ったんだ、

 そのときボクは完璧に理解した、淘汰こそが野生であり自然なんだとね、弱きものは排除されるべきなんだ、強者だけが生き残る、強者だけの世界こそ美しい……」


 そうだそのとおりだ、声に出さずそう呟いてる自分に気づいて驚いた。ぞっとした。ゼンの話に完全に引き込まれていた。

 俺は催眠術を疑った。やっぱりこの男は油断できない、そう気を引き締め直した。どうにか話をやめさせようと考えた。だができなかった。

 

 ゼンの話し方や身ぶりにシリアスな感じはない。どちらかというとカジュアルで、非常にリラックスして見える。それでも俺にはわかる。絶対に口ごたえを許さない、自分の機嫌を損ねた場合何が起きるか保証できない、とでもいうような、圧倒的な危うさがこの男にはある。俺は目を見れば相手の人格がだいたい把握できる、なんてタイプの人間じゃない。だから自分でも不思議でしかたないのだが、ゼンについては断言できる。

 こいつは完全に異端だ。平和な世の中に居場所がまったくなく、まともな世界に居場所を必要としない、そういう人種だ。

 ゼンはまだ、話を止めない。


「そして考えたんだ、人間は? ってね。人間にも淘汰が要る、そう思った、それはボクにとっての天啓だった、

 わかるかい、生きる指針を見つけたんだ、ボクはもちろん無神論者だが、思わず天に祈ろうとしたよ、

 そのときだった、小型ビルほどの高さがある大木や無数のシダ類が茂る密林の、遠く前方に、何か大きな影が動いた、ゴリラだと思った、

 ボクは走ったよ、無意識に銃は捨ててた、手には使い慣れて手のひらに馴染んだナイフだけを持ってた、銃は好きじゃないんだ、手応えがあまりにないからね、ナイフはもちろんランドール製の極上品だよ、鋸刃のついてないタイプのやつさ、そのナイフで太い筋肉質の首を切り裂いて、黒い毛の生えた厚い皮膚を剥いでやろうと思った、

 自信はあったよ、ボクは近接格闘のスペシャリストだからね、密造ドラッグを死ぬほど投与され理性を失って恐ろしい速度でナタを振り回す野獣じみた若い民兵4人に同時に襲いかかられて無傷で倒したこともある、ナイフ1本でだ、

 それで、走り出したボクを見て獲物を捉えたと察したんだろう、仲間たちも一様に興奮しだした、相手は獣であって訓練された兵士じゃないからね、少し油断もしてたんだろ、

 1人が小さく口笛を吹いた、直後、そこにいたはずの影は消えて、ボクは逃げられたと思った、

 期待感から来る高揚が消えて代わりに苛立ちが一瞬で頂点に達した、愛用のナイフでその、口笛を鳴らしたアホの首をかっ切ってやろうと本気でそう思って後ろを振り返った、そして見た、あの光景は忘れられない、

 その、口笛の男、自称だがかつて70年代末のローデシア戦線で250を超える国民兵士の生皮を剥いだと酒を飲むたび豪語してた黒人の中年傭兵だ、もっとも当時ハタチでもそのとき50代だからね、本当かどうかは疑わしい、そいつはどこから見ても中年だが50代って感じじゃなかったからね、

 その彼の首は、ボクが振り向いたときすでに胴体から離れてた、首を切られたとかそんなものじゃない、

 Vネックってあるだろ? 本当にあんな感じに、体が食い破られてた、もちろん頭部もすっかりなくなってた、ふとイメージしたのは太古の恐竜だ、プテラノドンさ、あんなような巨大なクチバシで頭から噛みちぎられたとしか思えなかった、

 全身が震えたよ、恐怖からじゃない、嬉しくてだ、信じられないかもしれないがそれまでボクはどんな戦場でも本気を出したことはなかった、ついに全力でやれる相手に出会えた、そう思ったんだ、

 敵が獣か怪物かはどうでもよかった、もうマウンテンゴリラのことは完全に忘れていた、まだ姿を見せないバケモノが次に襲いかかってくるのをぶるぶる全身を震わしながら待った、残された仲間は瞬間的にパニックに陥って、声を上げて四散した、笑みを浮かべてるのはボクだけだった、

 散りぢりになる仲間たちの背中をボクは見てた、そういう興奮状態のときボクはまったくまばたきをしないんだが、密林の熱気と湿度、何より極度の快楽に襲われて額からは汗が噴き出していた、

 その汗が流れ込んできたんだ、反射的に目を閉じて、開けると、仲間たちの姿が見えない、いやそうじゃない、

 全員、倒れていた、そこからではハッキリ確認できなかったけど、1人は上半身をまるごともっていかれたようだった、

 わかるかい、ボクを除く、全員が、本当に一瞬で、悲鳴を上げる間もなく殺された、食われたんだ」


 わかるかい、と問われ、俺は困惑しながらあいまいに相槌を打った。ゼンの話は暴力的で、不必要にディテールに触れていて、不快だった。不快であるはずなのに、一方で、ひどく刺激的でもあった。

 不良の度胸試しでバイクを盗んだ友人に勝つためまったく面識のない帰宅途中のサラリーマンを後ろから襲いバットでメッタ打ちにした先輩から武勇伝を聞かされたときの感じに似ていた。でも不快感と高揚の振れ幅は比較にならない。その極端に大きな揺れ幅が、俺を惑わせている。

 プテラノドン、とゼンが言ったその何かは、やはりディアーボなのだろうと俺は思った。だとするとディアーボは、世界中にいて、どれもバラバラの姿かたちをしてるのかもしれない。

 地球上のあらゆる密林に、人間を超越した、さまざまな形態のバケモノが潜んでいる気がして背筋が寒くなった。

 ただ人類が知らなかっただけで、ヤツらはずっと昔から、そこにいたのだろうか?


「そのすぐ後だ、頭上からボクの足元に何かが落ちてきた、小さな何かで、反射的に飛びのいたが何も起きない、慎重に近づいて、拾い上げた、

 眼球、目玉だった、どの仲間のものかはわからない、けどひどく大きくてこれ以上ないほど虹彩が血走ってた、

 手の中の眼球と目が合った、ボクは絶頂を迎えそうになって思わず腰と足に力を入れた、

 バタイユの物語を思い出したよ、知ってるかい? 死と流血と目玉に見入られた女と少年の話だ、快楽のお手本のような小説でね、ボクのお気に入りなんだ、戦場にもよく文庫本を持っていった、

 それで、姿を見せない怪物の存在も一時的に頭から消えて、ボクはその眼球を――」


 最後のほうはよく聞こえなかった。

 病室の外、遠くで女の甲高い悲鳴が響いたからだ。病院には似つかわしくない、複数の、どこかに駆け込むような慌ただしい足音も耳に届いた。異様な雰囲気がこの病室にまで瞬時に伝わり、俺はそれまでとは別種の緊張を覚えた。


「あれ? 思ったより早いな、どこの連中だろう」


 けどゼンはまったく慌てた様子を見せない。まるで、聞いてたよりずいぶんすぐにピザの配達が来たな、みたいな調子で呟いて、叫び声がした廊下のほうを向いた。

 俺はうまく状況が飲み込めず、女性の悲鳴と複数の足音から感じる不穏さ、それに目の前のゼンが見せる日常じみた態度のあいだで、ひどく混乱した。


「行こう」


 立ち上がりながらゼンが言った言葉が自分に向けられたものだと気づくのに、時間がかかった。

 俺は体のあちこちを包帯で巻かれてる。医者が驚く回復ぶりらしいが、傍目には重傷のはずだ。でもゼンは俺のそんな状態など完全に無視してるようだった。


行こう? どういうことだ?


 頭の中が混沌として、どうすればいいかわからずベッドの上で固まる俺に、ゼンが呆れた様子で振り向いた。

 そしてまた呟いた。

 次の瞬間、体はさらに硬直した。だがその直後、俺は無意識にベッドから飛び降りてた。ゼンはこう言ったのだった。


「行くよ、君のお友達が危ない」


 ――飛び出した廊下には人が倒れてた。俺の病室のすぐ脇にくずおれ、壁にもたれていた。身なりから警官だとわかった。

 猛然とゼンを追い越して病室を飛び出し、悲鳴のあった北側の病室に向かおうとしてその存在に気づいた。驚いて思わず足を止めそうになった。そこへ後ろからゼンが駆けて俺の腕に手を回してきて、俺たちは腕を組む格好で廊下を疾走した。

 ほんの一瞬だけ振り返って見たその警官は、廊下の床にあぐらをかき背中を壁にあずけ首をうなだれてた。生きてるのか死んでるのかわからない。


 何だよあの警官あんたがやったのか、そういう質問が浮かんだがゼンに聞く余裕はなかった。ゼンは俺の腕をとったまま風のように走った。ものすごいスピードで、しかも飛ぶように軽やかで、妙な話だが本当にどこまでも飛んでいけるような気がした。このとき俺は瞬間的にハイになっていたのか、当然持つべき疑問を、考えつくことができなかった。


 俺はどうして、こんなバカげた速さで走れてるんだ?

 さっきまで、激痛で立ち上がることさえままならなかったのに?


 廊下のかどを曲がるとさらに長い廊下が続き、その突き当たりに女性が倒れていた。さっき、目を覚ました俺に驚いて医者を呼んだ看護師だと思った。かどの病室に足を向けて床に伏せってる。刑事によればアイリはICUだ。ゼンは俺の友達が危ないと言った。あの病室にはケンジが眠ってるに違いない。

 けど看護師は行く手に倒れている。無視はできない。声をかけなければと思った。

 腕に痛みが走った。ゼンが、組んでいる腕に力を込めたのだ。前方を向いたまま、俺に呟く。


「構うなよ、お友達が先だ」


 でも、と思わず言いかけて、舌をかみそうになった。ゼンがいきなり走るスピードを速めたのだった。顔からはいつの間にか笑みが消え、目が異常なほど見開かれてる。俺は言葉を飲み込んだ。


 床に伏す看護師の上を飛び越えるようにして病室に駆け入る。カタギじゃない複数の人間がベッドに横たわるケンジを取り囲む光景を想像していた俺は驚いた。

 部屋には誰もいなかった。1つだけ置かれたベッドもからで、掛け布団とシーツだけが乱雑に取り払われてる。


「連れてかれたね」

 足を止めずにゼンが呟く。


 ケンジが?

 誰に?

 一体どうして――


 そこで一瞬、思考がとぎれた。


 無人のベッドが目の前に迫ったとき、ゼンが、リノリウムの床を強く蹴ったのだ。

 その瞬間、体がぶわりと浮いた。ベッドが足の真下に移り、後方に消えて、カーテンに覆われた窓が恐ろしい速さで近づいてきた。


 あまりに急に起こったために、ぶつかるとわかりながら悲鳴すら上げることができない。とっさに目を閉じた。それ以外の反応は不可能だった。


 ガラスを突き破る衝撃音がして、一瞬、体が宙で止まるのがわかった。降下を始める直前のエレベーターで覚えるあの感覚だ。昼より冷えた外気を肌が感じるのと同時に、真下に落下した。自分が落ちるより先に、地面にガラスの破片が落ちる音が耳に届く。


 でも地面に足がつく感触はなかった。ついさっき飛び降りる際、ガラスにぶつかる衝撃も感じなかったとそのとき気づいた。目を開けると、すぐ上にゼンの顔があった。


 俺はゼンに抱きかかえられてた。ゼンは自分を盾にガラスへ飛び込み、俺の体重も背負って1人でアスファルトの上に着地したのだった。だが彼は無傷だった。


 俺たちが飛び降りたのは駐車場らしかった。割れた窓は2階にあった。ようやく異変に気づいたのか、周囲の部屋に明かりが灯り始める。ゼンは俺を立たせ、すばやく辺りを見回した。


 建物の向こうから、けたたましい車のエンジン音が響いた。ほとんど同時に、ゼンがまた俺の腕をとってそちらへ駆け出した。建物のかどを、曲がる。


 3台の車が、病院の敷地出口のほうへ次々走っていくのが見えた。俺たちは一直線にそれを追う。だが車は出口を過ぎて道路に入った。3台ともまったく同じ黒塗りの大型車、ナンバープレートも見当たらない。


「すぐ戻る、君は追い続けろ」


 そう言って、ゼンが組んでいた腕を外して引き返した。外す瞬間に、ぶん、と力を入れて俺を前方に放った。加速がつく。恐ろしい速度。でもゼン抜きでそれを維持できるわけがない、俺はそう思った。


 けど驚くべきことにスピードはまったく落ちなかった。足はもつれることなく慣性で動くわけでもなく、完璧に自分の身体機能だけで、ゼンを上回る速度を維持していた。自分が足に重傷を負ったという事実は、もう頭の片隅にもなかった。


 暗い1本道を猛スピードで進む3台を俺は追った。驚異的な速さだと自分では思ったが、車には勝てず、徐々に距離はひらいていった。

 下を川が流れる橋を越えた先の分岐で、3台はそれぞれバラバラの方向に分かれた。俺は正面の1台を追い続けた。曲がらず進むほうが速く走れると思ったからだ。


 でもそれは相手も同じで、しかも向こうは機械だ。俺は疲労を感じだしていて、差はひらく一方だった。やがて道に傾斜がついて俺は失速し始め、緩やかな上り坂になった途端、車の明かりはぐんぐん遠ざかった。急激に小さくなるその光を見てるうち諦めが膨らみ、俺は足を止めてしまった。1度走るのをやめると、呼吸が激しく荒れて、もう駆けることはできなかった。

 膝に手をついて下を向き、限界まで乱れた息を、整えようとした。


 そこへいきなり、後方から車が迫ってきた。夜気を切り裂くようなブレーキ音が耳に刺さる。車が止まった。俺の体からわずか50センチの距離。目の前のウィンドウが、ゆっくりと下りる。


 奥の運転席から、ゼンが顔を覗かせた。

 そして微笑ましさのまったくないあの笑みを浮かべて言った。


「行こう、狩りはこれからだろ?」


 ゼンの言葉が細胞を震わせた。俺の中で、何かが爆ぜた気がした。

 狩り――そうだ、獲物はまだ道の向こうにいる。追跡し、追いついて、捕らえる、それだけだ。そしてケンジを取りかえす。


 ゼンに向かって俺は頷き、ドアに手をかけて助手席に乗り込んだ。

 獲物は道のはるか彼方に、点ほどの頼りなさで光を放ちながら、まだ視界から消えずそこにいた。

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