第6話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡(4)」

 目を開けてまず飛び込んできたのは、強烈な光。

 まぶしくて、1度まぶたを閉じる。


 もう1回ゆっくり開けてみると……天井の照明だった。


 ここが病院で、自分は今ベッドに寝かされてるのだと、すぐに理解した。

 視界のぼやけてる目をこすろうと腕を動かしたら、細長いゴム管がつっぱって、その腕に包帯が巻かれてたからだ。

 

 ベッドの上から、部屋を見渡す。

 白い天井、閉じたカーテン、ベッド脇の点滴、包帯、消毒液だろうか、独特の匂い……中学1年のときおふくろを看取った病室とよく似てる。


 そんな思いが頭をよぎって、ふいに強烈な感傷に襲われそうになったとき、病室のドアが開いた。

 

 振り向いた俺と目が合うと、その看護師は、まあ、と手を口に当てて驚き、先生を呼んできますからちょっと待っててくださいね、そう言って駆けていった。

 まもなく医者らしいおじさんがやってきて、俺の目にペンライトを当てたり、脈を測ったりして帰った。出ていくとき、医者は首を振りながら、信じられない、と何度も呟いてた。


 何がだろう? バケモノに襲われながら、生き延びて、目を覚ましたことがだろうか? まだぼうっとする頭でそんなことを考えてると、ドアがノックされて、誰か入ってきた。

 半袖のYシャツを着た、2人組。


 2人は、最寄りの警察署の刑事だと名乗った。

 夜分に申し訳ないけど……と断ってから、若いほうの1人が喋り始めた。壁の時計は8時すぎを示してる。


「……それで君は樹海の、ある洞窟の近くで、捜索にあたった警官に発見されたんだ。君の知り合いの、サカキケンジくん、彼が110番をしてくれた。彼もこの病院、山梨赤十字病院にいる。警官と救急隊が現場に到着してすぐ、彼は、君が樹海に入ったことを告げて意識を失ったようだ。先生の話だと、今も回復してないらしい」


 刑事はメモを見ながら一気に話した。1度顔を上げて俺を見て、続ける。 


「それから、コンドウアイリさん、ああ、持ち物の中に学生証があったからね、それで確認したんだけどね、彼女も意識不明で、ICUに運ばれた。樹海で君が発見されたのは15時頃で、ここに搬送されたのが16時すぎ。君の手術はついさっき終わったんだよ。先生の見立てでは目を覚ますのは明日以降とのことだったから、我々もいったん帰ろうとしたんだけどね」


 若い刑事はそこで言葉を切って、先輩らしい中年のほうを見た。首が異様に太い中年刑事は、いいじゃないか話してやれ、というふうに、あごで促した。

 若いほうが続ける。


「現在、確認できてる犠牲者は106名、2台のバスの乗客と運転手だ。店にいた客と従業員は全員無事だった。犯人は、店内には入ってこなかったようだね。ただ、強いショックのためか、全員が口を閉ざしていて、当時の状況を語ろうとしないんだ」


 そういう話を、俺は天井を眺めながらぼんやりと聞いてた。

 まだ現実感がない。雨の降る駐車場に倒れてる人びと、血の池、そこに立つ黒い怪物、樹海、洞窟。その場面はどれも覚えてる。

 今までに見た、どんな悪夢よりもおぞましい出来事。けど、あれが夢なんかじゃないこともわかりきってる。

 それでも、刑事から聞かされた一連の話に、リアリティを感じることができない。

 

 脳が、早く忘れたがってるんだろうか?

 

 若い刑事はまだ何か話してる。俺はおっくうになって、彼に背を見せ窓のほうを向いた。小さなテレビが視界に入った。

 何となく、そばのリモコンに手を伸ばす。

 すると背後から腕が伸びて、俺の手をつかんだ。

 

 中年の刑事だ。軽く首を振った。観ないほうがいい、と言いたいらしい。

 俺はテレビをあきらめ、手を引っ込めた。

 想像はつく。


 樹海で俺が発見されたのが15時頃。店の駐車場にヤツが現れたのはもっと前だ。もう6時間以上経ってる。

 惨劇の舞台になった現場には、メディアが駆けつけてることだろう。

 100人を超える死者、派手な殺戮の跡……マスコミは大騒ぎしてるに違いない。


 俺の手を放したあと、中年の刑事は、頭をかきながら真顔で言った。


「正直我々も混乱しててね。こんな事件、もちろん今まで起こったことはない。それに、すでにマスコミは犯人を、『間違いない』というニュアンスで報じているんだが、その、ブラジルとベネズエラの――」


 話が1度止まる。刑事はつばを飲み込んだ。


「ディアーボに違いない、しきりにそう騒いでる」


 自分で言っておきながら、ディアーボという単語を口にしたあと、中年の刑事は苦笑いを浮かべた。

 

 若いほうはどうだか知らない。けどこの中年刑事はおそらくベテランだ。殺人事件の現場だって見てるはず。

 それでも今回のような惨状は経験がないのだろう。だからきっとわかってるんだ。あれがヒトのしわざじゃないってことを。

 いや、シロウトが見たってわかる。あんな惨状、人間じゃ作り出せないことくらい。

 

 単純に、信じられないんだ。信じたくないのかもしれない。実際にヤツと対峙した俺だって、似たような心境だった。

 

 中年刑事は目を伏せたまま、胸ポケットからタバコを出そうとした。無意識の行動だったらしい。後輩に止められて、はっと気づき、恥ずかしそうに俺のほうを向いて照れ笑いを見せる。

 目は、笑ってなかった。混乱と不安がにじんだ、今にも泣き出しそうな目元。 そのすがるような目を俺に向けながら、君は見たのかな、そう呟いた。


 犯人を見たか、ってことだ。


 あの真っ黒いバケモノを、俺以外にも、ケンジや、店内にいた人たちが目にしてる。駐車場前の幹線道路を走る車からも、ヤツの姿を見た人はきっといる。店の生存者は何も語ってないみたいだけど、目撃証言はいずれ出てくるはずだ。

 たとえ遠い国の出来事でも、6月と8月の南米での事件から、ディアーボは本当に存在する……多くの人びとは漠然とでもそう思ってるだろう。

 だから俺の証言は、仮にはじめ笑われても、すぐに受け入れられるに違いない。


 でも、俺は何も答えなかった。ただ首だけを小さく横に振った。

 

 あの黒いディアーボは、樹海の洞窟の、底がまったく見えない縦穴に落ちていった。

 普通に考えれば、2度と現れることはない。

 もう終わったことなんだ。少しずつクリアになる意識の中で、俺は自分にそう言い聞かせた。

 それにもしヤツがまた姿を見せたとして……警察が何人動員しようとも、人間が、ディアーボをどうにかできるとは思えなかった。


「明日また来る」――そう言って、2人は帰っていった。


「マスコミが嗅ぎつけるかもしれない」帰り際、中年の刑事が、ドアの前で振り返って廊下を指した。「病室の前に警官を1人立たせとこう、サカキくんのとこにもね。そうしないとあいつら、どこにでも入ってきちゃうから」

 ありがとうございます、俺が礼を言うと、刑事は何度かうなずいて、ドアを閉めた。

  

 2人は俺に個人的なことを、ほとんど聞いていかなかった。学校のこと、家庭のこと、事件のこと。

 俺に見えた以上に、動揺してるのだろうか。いや、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。

 どちらにしても、ありがたいと思った。今はあれこれ話したり、考えたりしたくない。

 何しろ一生分の恐怖と緊張を、半日で体験してしまったようなものだから。


 ベッドに寝たまましばらく天井を眺めていて、ふいに、姉貴に連絡を入れたほうがいいかもな、と思った。だけど結局、入れないことにした。余計な心配はかけたくない。

 

 俺の家族は、姉貴だけだ。

 親父がアラスカで消息を絶ってまもなく、おふくろが倒れた。長い梅雨が、ようやく明けた頃。おふくろは突然の腹痛を訴えて、勤務先近くの総合病院に運ばれた。

 姉貴からケータイに連絡があって、昼食の途中で俺は学校を飛び出した。病室は確か9階で、1階で待つエレベーターがいっこうに来なくて階段を駆け上ったのを覚えてる。

 何かの実験みたいに何本もの管につながれたおふくろの脇に、姉貴が目を腫らして立ってた。病室に駆け込んだ俺と目が合うと小刻みに震え出し、姉貴はその場に崩れ落ちた。


 余命数ヶ月――別室に俺たちを呼んで、ありがちで安っぽい宣告を医者は淡々と告げた。今度こそ姉貴は卒倒しかけて、俺が抱きかかえて支えなきゃならなかった。病名は言いたくない。俺は決してナイーブじゃないけど、あの病気の名前だけは、耳にするだけで今でも一瞬全身に緊張が走る。


 人間の体内で増殖する、悪意そのものみたいなあの病気は、どこまでも分裂して広がる真っ黒いアメーバのようなイメージで俺の中に刷り込まれてる。


 そこまで考えて、またあの黒々としたバケモノ……ディアーボが頭をよぎった。同時に、さまざまな疑問が浮かんできた。

 

 ヤツのことを、俺は直感的にディアーボだと理解した。けど、あいつはいったい何なのか? どこからやってきたのか?

 そして、ヤツをまるで相手にしなかった、あの鎧姿の巨人みたいな存在は? 


 いかにも頑丈そうな、要塞じみた鎧で全身を固めていながら、動きは恐ろしく素早かった。まるで光だ。後方から俺の真横を過ぎるとき、風を切る甲高い音がはっきりと聞こえ、耳がちぎれそうなほどの風圧を感じた。

 

 あのときの風圧が、今も、右耳と頬のあたりに残ってる気がする。あんなばかげた図体で、あのスピード。地獄にでもつながってそうな縦穴へ、まったくためらいを見せずに踏み出す神経。

 これだけは言える。

 

 絶対に、人間じゃない。


 じゃあ……何なんだ?

 そう考えようとして、すぐに、やめた。

 

 わかるわけがない。

 いくら想像をめぐらせても、あいつらの正体なんか絶対にわからない。

 

 そういえば、と俺は思った。

 ケータイ。


 ディアーボをトラップにはめるために仕掛けたケータイは、奴らが穴に落ちたあと、消えていた。連中のでかい体のどこかに当たって、一緒に落っこちたのかもしれない。


 だとすると、底にぶつかって粉々に砕けてるはずだ。

 

 それなのに俺はあのケータイが、いまだに穴の底で鳴り続けてるところをベッドの上で想像してしまった。

 俺のイメージの中で鳴り続ける、アイリの声のアラーム音。それを意識した瞬間、まずアイリの顔が、次いでケンジのそれが頭に浮かんだ。

 2人ともまだ目を覚まさない、若い刑事はそう言ってた。


 強烈に、ケンジとアイリに会いたいと思った。

 けど直後――管と呼吸器をつけられた、おふくろの生気のない表情が頭をよぎった。そこに2人を重ねてしまい、行く気力が失われた。


 俺はどうしていいかわからず、でもじっとしていられなくて、目的もなくベッドから起き上がろうとした。

 包帯を巻かれた腕と、布団の下に隠れた両足に鈍い痛みが走る。

 体をそっと起こさなきゃ、そう思ったときだった。


 ついさっき刑事たちが出ていった病室のドアが――開いた。


 スーツ姿の、色白で細身の男が立っていた。

 顔は日本人にも、西洋人にも見える。

 まったく知らない男だった。


 驚きとともに長いこと見つめてると、男は後ろ手に引いてドアを閉め、ランウェイを歩き出すモデルみたいに大股に数歩近づいて、笑顔を作った。


「はじめまして、ヤザキサクヤくん。君と、話がしたくてね」


 笑顔は、多くの場合、相手の心をなごませる。

 何かでどうしようもなく苛立ってても、誰かに笑いかけられると、自然と気持ちにゆとりができるものだ。

 

 でも、男の笑みにはそういう微笑ましさがまったくなかった。近くでその顔を見て、全身に鳥肌が立った。理由はわからない。

 

「緊張してるのかい?」男はベッド脇に立ち、顔を寄せてくる。天敵からにらまれた小動物みたいに、俺は動くことができなかった。


「安心してくれ、ボクらはいい友達になれる。ボクたちはディアーボから生き延びた――『サヴァイバー』同士じゃないか」


 いやな予感が膨らむ。

 今日起こったことよりも、厄介で、手に負えない現実が始まる……そんな重苦しい予感。


 その直感は、正しかった。

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