第5話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡(3)」
どれくらい経っただろう?
俺はまだ走り続けてる。道なんてない。目指す場所もない。ただひたすら、足の動く限界ぎりぎりのスピードで、進む。
ディアーボを引きつけて樹海に飛び込んだとき、俺の神経はおかしくなってたのかもしれない。親父の言葉を思い出して得た高揚感と、血を流すケンジや動かないアイリ、名前も知らない人びとの、顔や首のない死体を目の当たりにして覚えた恐怖心がごちゃまぜになったに違いない。
そうじゃなきゃ、何の作戦もなしにディアーボにケンカを売るなんてこと、できっこない。
そこら中にある大木の、異様に広がった根に、何度も転びそうになる。
ひときわ大きな木の横を駆け抜けようとしたときだった。
ヘビのようにうねった太い根に、つまずいた。体が傾いて、思わず地面に手をつく。
大地に薄く積もった腐葉土の感触が手のひらに伝わる。湿り気を帯びてひんやりとした地面の手ざわりには現実感がなく、俺は一瞬、何から逃げ、何のために走ってるのかわからなくなった。
ふいに、地に手をついてるほうの腕に、軽い衝撃が走った。反射的に目をやると、腕のそばに黒い何かがちらっと見え、直後、後方に消えた。
腕は、ひじのすぐ下の肉がえぐれてた。恐ろしい速さでゴルフボールに肉をもっていかれたような、半円形の傷。おかしな話だけど、あまりに機械的なその切り口に、俺は、一瞬見とれてしまった。
直後、傷口に熱を感じ、吐き気が込み上げ、激しい痛みが襲ってきた。
だけど奇妙だった。なんで、腕なんだ?
どうして、首や胸、頭を狙ってこない?
ヤツにはそんなこと、朝飯前のはずだ。
そんな疑問が浮かんで思わず振り向くと、ずっと遠くに、あの黒い物体――ディアーボが立っていた。
ここからでは、さっき郷土料理屋の駐車場で見せた、目のような光は確認できない。でも、俺を見てるのは間違いない。
ぞっとした。
待たれている気がしたからだ。俺が立ち上がってふたたび逃げようと駆け出すのを、待ち望んでるように思えた。
まるで、狩りだ。
そのまま立ち尽くしてると、ヤツが動いた。店の駐車場で見せたように、すーっと音もなく近づいてくる。
脳を恐怖が刺激する。俺は飛び上がるように体を起こし、樹海の奥に向かってもう一度走り出した。
それからすぐだった。今度は足に衝撃を覚え、俺は駆ける勢いのまま、前方に倒れて派手に転んだ。
右足に手をやると、べっとりと血がつく。気を失いそうになった。ふくらはぎのふくらみの一部が、ない。自分の骨を見たのはたぶんこれが初めてだ。骨は白じゃなかった。露出した肉や血管のあいだからわずかに覗いたそれは、灰色に濁った、曇り空みたいな色をしてた。
ついさっきと同じように、傷口に熱が宿り――さきほどとは比較にならない痛みが走った。
知らないうちに俺は叫んでいた。ああああああああ、と口をめいっぱい広げて、痛みをリリースするみたいにでかい声で。
意識とは無関係の行動だった。体が、脳が、それを強制したかのような。
ふいに俺は、ほとんど他人事みたいに、口を開けて叫び続ける自分を外側から眺めてることに気づいた。
魂の一部がすでに肉体を離れてる、そんなバカげた考えが頭に浮かんだ。意識と肉体が完全に死を受け入れていて、急いた魂が一足先に肉体から離脱してしまったのだろうか、そう思った。
そういうことをあれこれ思い浮かべられるほど、俺の頭の中の一部は醒め切ってる。
その客観的な視界の端に映るディアーボの体から、バスの乗客を車体ごと切り裂いたあの横枝のようなものが伸びるのが見えた。そして、あ、俺を襲うぞ、と思ったのと同時に、手加減なしの電流を食らったようなショックを感じて、気づくと俺の意識は、俺の中に戻ってた。
今度は肩をやられたらしい。左の肩先が削れてる。でも不思議と新しい痛みは感じない。足の痛みが強烈すぎて、腕も、肩口も、痛みがない。ただそこに、切り傷に特有の熱、それから肉体の一部をそっくり失った、奇妙な喪失感と違和感があるだけだ。
強烈な足の痛みのために、かえって意識がはっきりした。
たった今まで、俺はほとんど死を受け入れてたらしい。でも、ふいに目に映った「それ」を見て、胸がざわついた。
面倒なことになってしまいそうだ、という予感から来る緊張だった。
諦めて死を受け入れたのに、まだ希望があるとわかってしまったという感じだ。サッカーか何かの試合でとっくに負けが確定して、早く終えて休みたいのに、まだ勝てる可能性が、方法があると知らされてしまったときのようだった。
まだ戦わなければいけない、そう思った。
俺の目に映ったのは――ケータイだ。
黒光りした俺のケータイが、すぐ前方に転がってる。ついさっきディアーボに足をえぐられて激しく転んだ際に、ポケットから落ちたに違いない。
ケータイが視界に入った瞬間に浮かんだのは、アイリの顔だった。俺のケータイに、声を張り上げてメッセージを吹き込んだアイリ。そのアイリが言ってた。
『……その縦穴、どれだけ深いか誰も知らないみたい。こういう穴がね、実は、樹海にはいくつかあるんだって』
俺は歯を食いしばり、激痛に耐えながら立ち上がった。
そしてケータイを拾い上げ、もう一度、駆け出した。
ディアーボは相変わらず俺のかなり後方にいる。
攻撃が来ない。いやな感じだ。泳がされ、遊ばれてるみたいだった。ヤツに顔が、いや目があるのかすらはっきりしないが、ヤツは今、心の底からこの状況を楽しんでるような気がする。俺はうすら寒いものを覚えた。
自分が、完全に狩られる立場になってしまったと理解したからだ。
道はない。自分が今どこを走ってるのかもわからない。ずっと同じ景色が続いてる。
それでも走った。
ヤツは狩りを楽しんでる……俺は直感的にそれを確信していた。もし他の犠牲者と違って俺を生かす理由がそこにあるなら、次に足を止めたとき、殺される気がした。
獲物にとって逃げることは戦うことと同じ。狩猟者から見て、戦うことを諦めた獲物に魅力はない。いつか親父もそんなことを言ってた。
次に足を止めたときが、俺の最期だ。
ふいに前方の視界に、黒い何かが映った。ディアーボか? そう思い、一瞬、体が硬直しかけた。
けどヤツじゃなかった。地面にぽっかり開いた、洞窟の入り口と思われる穴だった。ゆるやかな傾斜で小丘のようになった前方の大地に、ばかでかいアンコウが口を開けたような入り口が広がってる。アイリたちと行った「人無穴」ではなかった。
でも、ここに賭けるしかない――。
俺はその穴に向かって走り、入り口に、飛び込んだ。
入り口から思いきりジャンプしたとき、すぐ下に地面が見えた。外からわずかに差し込む光のために、入り口付近は真っ暗闇ではなかったからだ。俺は2階から駆け下りるような具合で着地した。うっかり、傷を負った右足をかばうのを忘れてしまい、もろにその足から接地して激痛が全身を駆け抜け、思わずうめいた。
顔を上げると、横穴らしきものが目に映った。確認できるかぎり、穴は1つだけ。奥は完全な闇で、どれほど先まで続いてるか見当もつかない。さすがに一瞬、ひるんだ。完璧な暗黒は、人を否応なく不安にさせる。でも他にヤツを倒す方法がないとわかっていたから、パニックに陥らずに済んだ。
やれることがはっきりしていれば、どんな状況でも、何とか対処できる。
足の痛みは増してるものの、まだ走れる。気づくと、腕と肩の痛みも感じる。感覚が戻ってきた。一度死の世界に足を踏み入れて、戻ってきたんだ、そう思った。
奇妙なことに血は止まってる。これだけの傷で、こんなに早く血が止まるのか? そんな思いが頭に浮かぶ。でも俺はすぐにそれを振り払って、次の行動に移った。
急いでケータイをライトがわりに高く掲げ、念のため360度、周囲を見回す。横穴はやはり1つだけらしい。
俺はその横穴に駆け入った。ケータイの光で先を弱々しく照らしながら、奥を目指して進む。ここからは、さすがに勢いよく走ることはできない。ケータイのライトでは遠くまでは照らせないし、足の痛みもひどくなってるからだ。
ディアーボはついてきてるだろうか? ヤツが洞窟の入り口から地面に着地したらしい音は聞こえてこない。けどディアーボのことだから、ふわりと音もなく降り立つことも可能かもしれない。
すでに俺の真後ろにいるような気がして、思わず足を速めた。
冷気に満ちた横穴を進むうち、妙なことに気づいた。
ケータイの照明とは無関係に、横穴の内部がわずかに明るい。俺は足を止めずに、一度ケータイのライトを消した。
岩肌が、ところどころ光を放ってる。頼りない、かすかな光。
けど地獄のような闇の中では、そんな光でも明るく見える。
コケだと思った。
何かの本で読んだことがある。ヒカリゴケ。樹海の洞窟にも自生してるのだろうか。
好都合だった。
ヤツを倒すためには、俺はケータイを手放す必要がある。ケータイの照明なしで、それこそ闇そのものみたいに真っ黒なディアーボを、肉眼で捉えられるか不安だった。
ヒカリゴケの明かりが、それを可能にしてくれそうだ。
やがて、俺は横穴の行きどまりにたどり着いた。今まで進んできた狭い一本道に比べて、少しだけひらけた空間。
その一番奥に――それはあった。
縦穴。
俺は穴のふちに立った。足が、すくんだ。
直径は軽く5メートル以上ある。
中を覗く。足先から背中、脳天にかけて、綿毛でなでられたように、ぞわりとした感覚が襲った。
当然だけど、底は見えない。
まるで巨大な球体をとんでもない高さから落下させたみたいに、穴はどこまでも続いてる気がした。
辺りを見回してもちょうどいい石が見当たらず、俺は履いてたクツの片方を穴に放り投げた。
底にぶつかる音は聞こえなかった。底がないはずはない。けど穴のふちまでその音が届かないほどの深さなのだと思った。
俺は、隠れられる場所を探した。
それから「準備」を済ませ、ヤツを待った。
そして、それは鳴り出した。
「ねぼすけ、起きろ」
アイリの声だ。
ボリューム最大でアラーム設定したその声が、洞窟の空間内にくり返し響く。
あいつの芯の強さそのままの、まっすぐで伸びやかでよく通る声。
マックスの60秒に設定した鳴動時間が終わって間もなく、ディアーボが空間内に音もなく現れた。
俺はつばを飲み込んだ。待ってたはずなのに、いざやって来られると、どうしようもない恐怖が全身を包む。
横穴は進むにつれ温度が下がって、ここはかなりの冷え込みだ。でも俺は極度の恐怖と緊張で、額から汗が噴き出しそうな気がした。今、汗が地面に流れ落ちたら、その音でヤツにバレてしまうんじゃないか? そんな不安に心臓が破裂しそうになる。
もう1度、アイリの声のアラーム音が鳴り響いた。スヌーズ機能。
驚いたのか、ディアーボはわずかに飛び上がるような仕草を見せ、それから縦穴にゆっくりと近づいた。
さすがにヤツも混乱してるはずだ。声は、穴の中から聞こえてる。そして穴の内側からは、ヒカリゴケよりも強い光が発せられてる。俺のケータイだ。さっき中を覗くためにふちに立ったとき、穴の内側の突起状になった岩に、2つ折のケータイを開いて、そのストラップを引っかけておいた。
ディスプレイから放たれる光と、ここにいるはずのないアイリの声が、ディアーボを引きつける。
ヤツはついさっき俺がしたのと同じように、縦穴のきわに立ち、底の見えない穴の中を見下ろしてる。
――今だ。
アイリの声のアラーム音だけが響く中、俺はつかまっていた岩壁からそっと地面に下りた。この手狭な空間で身を隠すには、横穴からの入り口真上にある、この場所しか考えられなかった。
ヤツは穴を覗き込んだまま。俺には気づいてない。俺はヤツの背後をとった格好だ。
いける。
恐怖、緊張、興奮がごちゃまぜになったせいか、足の痛みはいつの間にか消えかかってる。その足に思いきり力を込め、ディアーボ目がけて、俺は駆け出した。
直後だった。ヤツが振り向いた。
まずい、と思ったそのときには、反対の足を切られてた。
見なくてもわかる。左の太もも。そこに熱を感じた次の瞬間には、足から力が抜け、俺は地面に倒れてた。
だめか。
無理か。
やっぱり、無理なのか。
一瞬にして、諦めが脳を満たした。
同時に、浅はかな自分に対する、強烈な後悔の念が込み上げてきた。
ディアーボの、頭部のような部分に、2つ、光が灯った。
目だった。
恐ろしく無機質な、2つの光。
そして、俺は見た。
その光の下に、ゆるやかな弧を描いて線が走るのを。
口だった。
俺はディアーボという存在が、人間と同じように口をゆがめて笑うことを知った。
神経が限界を迎えそうだった。異常なレベルの恐怖から来る過度のプレッシャーに、これ以上神経がもちそうにない。俺は発狂寸前だった。
けど狂いはしなかった。
引き止めてくれたのは、アイリの声だ。
止まったアラームが、スヌーズ機能でまた鳴り出した。
俺を叱るアイリの声。大きなかたまりになって、脳に突き刺さる。
そうだ、俺はアイリを守る。ケンジも。
――何があっても、ディアーボを倒す。
「うあああああああ!」
腹の奥から声をふり絞り、ぼろぼろの両足を手でつかんで、前に倒れ込むようにして駆け出す。どうなってもかまわない。俺にできることは1つしかない。
ヤツを穴に、突き落とす。
邪悪な笑みを浮かべたままのディアーボが、まるで千手観音みたいに、全身からあの枝のような触手を伸ばした。
ヤツも、これで終わらせるつもりらしい。
やってやる。
――そのときだった。
いきなり後方からすさまじい風が吹き、ひゅん、という音が耳をかすめた。
次の瞬間、俺は信じがたい光景を目にしてた。
大きな、人間のような何かが、俺に背を向けて、ディアーボの前に立っている。
そいつは全身を鎧のようなもので固めて、人間と同じように手足が2本ずつあり、片方の、恐ろしく太い腕でディアーボの頭部をわしづかみにしていた。
ディアーボが、まがまがしい無数の触手で攻撃する。けどそいつの体には1つも刺さらない。鉄のかたまりにゴムのムチを振るうような感じで、あのディアーボが、ひどく間抜けで情けなく見える。
何だ。
誰だ。
いったい、何が起こってる?
その怪物じみた存在は、自分に攻撃を続けるディアーボをまったく気にする様子もなく、俺を振り返った。カブトの隙き間から覗く小さな光のような目で、固まってるだけの俺を、しばらくのあいだじっと見ていた。
それから、また信じられないことが起きた。
ふたたび前を向いたそいつは、ディアーボをつかんだまま、まるで玄関から外にでも出かけるような自然さで、底の知れない縦穴に一歩踏み出し――俺の視界から、消えた。
俺はその場から動けなかった。もちろん足の傷のせいじゃない。あまりに非現実的なことを目の当たりにして、体を動かそうという気力を、すべて奪われていた。
空間には、俺の呼吸の音だけが響いてた。
アイリの声のアラームは、いつの間にか止んでいる。
ヤツとディアーボが底を打つ音は、いつまで経っても、聞こえてこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます