第4話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡(2)」
9歳か10歳の夏休みだった。確か8月の、一番暑い頃。
その日、久々に長いこと日本にいた親父と、ドライブに出かけた。
俺が、テレビで見た千葉のナントカ山へ行きたいと言い、親父が連れてってくれたんだ。
姉貴とおふくろは家で留守番。
「こんな暑い日に、何で外になんか」そう言って呆れてた。
けど、その頃の俺はじっとしてると死んでしまうんじゃないかというほど落ち着きのない子供だったし、親父も、翌月にはどこか北のほうの猟場に発ってしまうとかで、異様な暑さの中でもドライブは嬉しかった。
ロープウェイのある山をわざわざ歩いて登り、下って、汗だくの体をふもとの温泉で休めたあと、内房の海が一望できる道路を車で帰った。
道はほどよく空いていて、親父もスピードを飛ばしたんだろう。助手席で少し眠った俺が、ちょうど目を覚ましたときだったと思う。
親父が、珍しく大きな声を出した。
驚いて顔を上げると、歩道から猫が飛び出してくるところだった。猫は道路の中央まで来て、どういうわけか足を止めてしまった。親父が反射的にクラクションを鳴らす。けど驚いたことに、その牛みたいな毛色の猫は俺たちに顔を向けたままそこから動こうとしない。
止まれば後続の車を巻き込むことになる、そう判断したに違いない。
親父は速度を落とさず、そのまま猫を轢いた。
俺は後ろを振り返った。たった今まで猫がいた場所には、ひしゃげた赤黒い物体が横たわってるだけだった。それは後に続く車の列に飲まれて、すぐに俺の視界から消えた。
目にしたのはほんの一瞬。でも、今も覚えてる。これでもかというほど目を見開いた猫の顔。道に横たわる、赤く淀んで潰れた物体。
そのあと家に着くまで、親父はひと言も喋らなかった。俺もだ。話す言葉が、内容が、見つからない。猫に対する申し訳なさよりも、どうしようもない状況で猫を轢いてしまった親父を、子供心にも見てられなかった。
「猫、どうして動かなかったのかな」
夏が終わる頃、親父に聞いた。数日後にまた研究と狩猟のための海外滞在が迫っていたから。聞いていいものか迷ったけど、今を逃すともう機会がない気がして、そうたずねた。
「うん」少し考えて、親父は言った。「想像を超えた、本当に怖いことに直面してしまうとね、皆、ああなっちゃうものなんだ」
今――俺は精進湖の郷土料理屋の店先で、親父のその言葉を思い出してる。
あまりに突然で、強大で、理不尽な出来事に遭遇したとき……俺たちは
するべきことを見失い、ただ混乱するしかない。
そいつは、今までに見たどんな生き物にも、似てなかった。
マナウスの事件――あのCNNのインタビューに答えてた、脳みそが覗けた青年。彼の発言から、俺はディアーボを、2本足で立つ邪悪な姿をしたモンスターみたいに考えてた。
映画なんかでよくあるだろ? 地球の外からやってきた、人間を乱暴に進化させたような姿の怪物。あんな感じのヤツだ。
でも違った。
目の前のそいつは、俺のそんな想像とはまったく異なる姿をしていた。
真っ黒い、どろっとした、1つのかたまりみたいな物体。
おかしな話だけど、俺はそれを、容器を逆さにして皿の上に出したコーヒーゼリーみたいだと思った。ただし、高さ3、4メートルの。
完全に理解を超えてる。
普通に考えれば、生き物には見えないだろう。
けどそれでも、俺は直感的に確信してた。
こいつは、間違いなくディアーボだと。
そうじゃなきゃ――あのマナウスの若い生存者が「悪魔」と呼んだディアーボでなければ……こんなこと、できるわけがない。
俺の目の前にある広い駐車場と、その向こうの幹線道路。さっき入ってきたツアーバスは、ちょうど俺と幹線道路の中間あたりに停まってる。従業員のものだろうか、他に隅のほうに2台、乗用車も見える。
バスから下りて店に来ようとした客たちは、全員、その場に倒れていた。
バスと俺のいる店先との間に架けられた橋か何かのように、彼らは列状に倒れ込み、その周囲に、開いたままの傘が散乱してる。彼らを囲むのは傘だけじゃない。いくつもの赤い、水たまり。
それが信じがたい量の血だとわかった瞬間、頭の思考回路がショートした。体も硬直して、情けないことに叫び声すら上げられない。逃げるとか、隠れるとか、そんな選択肢は浮かびもしなかった。
俺は店先に立ち尽くした。そして、自分の意志とは無関係に、俺の目がすぐ前方に伏す女性を捉えたとき、さっき口にした鹿肉カレーがものすごい勢いで胃から逆流してきた。
女性は店のほう、つまり俺に頭を向ける格好でうつ伏せに倒れ、顔を横にしていた。はずだった。
でも、鼻や口や頬があるはずの場所には、何もなかった。俺は頭の中にどういうわけか、アイスクリームなんかに使われる半球状のスプーンのイメージが浮かんだ。
女性の顔は、恐ろしく鋭い切れ味を誇る、ばかげたサイズのそのスプーンでサックリ掬われたみたいに、目の下から鼻、頬、あごにかけて、そっくりなくなっていた。口をめいっぱい開けた状態で、下あごを思いきり引いて首にめり込ませてるように見えなくもない。
けど違った。あごは完全に失われていて、その下に存在する骨や血管や神経や肉が露出してる。女性の、開いたままの瞳の黒目部分が、悪いことにこっちを向いていて、俺の目と視線が合ってしまった。
そう思ったとたん、腹の芯がびくんと激しく震えて、俺はその場にひざをついてもう一度嘔吐した。
胃の中がからっぽになり、口を拭って、四つん這いの姿勢のまま顔を正面に向ける。
ディアーボと思われる黒い物体は、駐車場の真ん中から一歩も動いてないようだった。
一歩、と言っても、足があるかどうかも、どんなふうに移動するのかもわからない。俺はまだ、あれが、何か動作を見せるのを一度も目にしていない。襲われる人びとの悲鳴すら聞いてない。
見えない何かに顔と体を両側から挟まれ固定されたみたいに、俺はそこからまったく動けないでいた。ケータイを受け取って店のドアを開けたのを最後に、頭と体のコントロールを完全に失ってる。
ヤツはまったく動きを見せない。まるではじめからそこに置かれていた安手のオブジェみたいだ。
本当にヤツが女性の顔を削りとり、バスの客たちを殺したのだろうか、そんなわけがない、これは何かの冗談か悪い夢なんじゃないか? 本能では確信していながらそんなバカな考えが頭をよぎったとき、駐車場の入り口から、別のバスが入ってきた。
バスからは、駐車場の異常な光景が見えているはずだ。でも停まる様子はない。運転手は、乗客は、気づいてないのだろうか。
気づいてるかどうか、俺にはわかりっこない。
けどとにかく知らせなきゃ……なんて1ミリも考えなかった。考えられなかった。俺は気を失わずに駐車場の光景を眺めてるのがやっとで、手足を動かすことも、声を発することも、唾を飲み込むことさえ満足にできない。手を振り叫び声を上げてバスに危険を知らせるなんて、できっこなかった。
今思えば、バスの運転手も客たちも、俺と同じ光景を目にしてたのは間違いない。ただ、反応できなかったんだ。店先で、それを見て固まってしまった俺みたいに。
無理もないだろ。駐車場に入ろうと左折して、いきなりこんな光景が目の前に広がっていても、現実味はまったくない。
ここは凄惨なテロや銃撃戦が日常化した世界じゃない。日本なんだ。
バスは広さのある駐車場をぐるりとカーブしながら進んでくる。ディアーボは動かない。襲いかかる気配もない。
奇妙な眺めだった。
雨に流されて辺りに広がる犠牲者たちのおびただしい量の血、その血の池に浮かぶ花のような色とりどりの傘、そしてそこに1つだけ立つ、度を超えて異様で、リアリティに乏しい真っ黒い物体……ちぐはぐでシュールな前衛舞台みたいなその光景の中に、今ゆっくりと進入してくる1台の大型バス。
そのバスが、ふいに曲がるのをやめて一度止まり、どういうわけかバックし始めて、車体の側面に書かれた「富岳観光」というゴシック体がこちらに見えたときだった。
血の池に立つ黒いディアーボが、一瞬ぶるんと震えたかと思うと、冗談みたいな速さで高く飛び上がり、そのまま、急で攻撃的な放物線を描いて、バスの手前に水しぶきを立てて着地した。ヤツに隠れて、「観」の字がそっくり見えなくなった。
ほとんど同時に、ヤツの左側から、にゅん、と黒く細い枝のようなものが真横に伸びた。それは車体側面の大窓を上下に分割するように伸び、窓の向こうには乗客たちの顔とシートの背もたれがあった。
俺がいやな予感を覚えたのとほぼ同時に、その不穏な横枝のようなものが、機械的に、恐ろしいスピードでバス側に振れ、180度回って、気づくと枝はディアーボの右側からまっすぐ横に伸びていた。
最初、何が起こったのかわからなかった。ヤツの左側にあった横枝が、一瞬にして引っ込み、反対側から突き出たようにも見えた。
バスに変化はなかった。
でもすぐに、それが間違いだと思い知らされた。
ゆっくりと後ろに下がっていたバスは、そのときまだ動いてた。ずるずると後退を続けるバス。またいやな予感がした。まもなくバスが止まった。
そのはずみで、横枝の位置を境にして、車体の、上側の部分が少しずれた。それでバランスが崩れたのか、ずれはさらに大きくなっていき、車体の上部分が、バスの斜め前方に落下した。
俺は、もう一度吐きそうになった。
落下したのは、車体の上部分だけじゃなかった。
シートの背もたれ、そして、それと同じ高さにあったものが、ごっそり切断されていた。ずらりと並んだ乗客たちは、首から上がなかった。頭部を取り外したマネキンが、等間隔で並べられているみたいだった。中には浅く座っていたのか、顔が、目のすぐ下までそっくり残っている人もいた。そこから上の部位は、車体とともに、地面に転がってるに違いない。
ふいに、ぞっとしたものを覚えた。
今さら、何なんだ、という感じがした。悪夢のような光景を目撃し続けてるのに、どうして今さら悪寒なんて。
でもすぐ、その理由がわかった。ディアーボの様子がおかしい。さっきまでと違う。
ヤツは、横枝がいつの間にか引っ込んでいて、わずかに、こっちに傾いてるように見える。おじぎでもしてるみたいだった。その頭のような部分に、うっすらと何かが光ってる気がした。目玉だろうか、と思ったときだった。
すーっと、地面を滑るようにしてディアーボが動き始めた。手や足があるわけでもなく、音も立てず、地面のすぐ上を飛行するような感じで距離感がないために、俺はしばらくヤツがこちらに向かってきてることがわからなかった。
ただ、寒気は続いてた。
そしてヤツが近づいてくると理解した瞬間、ああ、死ぬんだな、と思った。感覚が麻痺してるのか、恐怖も鈍く感じられた。俺は口を半開きにして、瞬きもしないで、殺されるのをおとなしく待つ捕虜のようにその場に立ち尽くしてた。
「逃げろ!」
声がした。
その声に反応したのか、ディアーボが止まり、向きを変えた。上体を前に傾けて移動していたために、どちらの方向を向いたのかわかった。ヤツが向いた先を目で追おうとした。でも、体や首の自由はまだ利かず、俺の視界の外にいるらしい、その声の主を確認できない。
見なければ、と思った。強烈に、そう感じた。
同時に、感覚が戻った。
とてつもなく不快な夢から覚めたときのようだった。体のあちこちに鈍い痛みがあって、頭や胃のあたりは痺れていたけど、意識はクリアになっていた。
見なければ……もう一度はっきり頭の中でそう思った。すると、首が動いた。
俺は見た。
ケンジだった。
「逃げろ、サクヤ!」そう叫び続けてた。
腹這いの格好で頭から血を流したケンジは、片肘で上体を起こし、叫んでいた。すぐそばに、女性が倒れてる。
アイリだ。
ディアーボはゆっくりとケンジたちのほうに近づいてる。ケンジは叫び続けている。サクヤ、逃げろ。早く、ここから、逃げるんだ。
俺は何とか首を動かせるようになった。でもそれだけだった。感覚がクリアになったことで、ケンジ、そしてアイリに死が迫ってることがはっきり感じられる。2人の死を完璧に意識してしまった。
そのせいで怖くなり、瞬間的に、これまでにないほどのパニックに陥った。アイリは動かない、生きているかわからない、ケンジは、確実に、殺される、でも俺は、ここで黙って見てるしかない……そういう考えが、というより言葉が、文字としてものすごい速さで頭の中に流れた。
そこにまぎれて、絶望、という2文字が、はっきりと浮かび上がった。
そのとき、ふいに、親父の話を思い出した。
猫がなぜ逃げなかったのか聞いた俺に、親父が言ったあの言葉は、あれで終わりじゃなかった。
「意志の力なんだ」親父は微笑みを浮かべて続けた。野生から学んだ厳しさと優しさをたたえた、独特の笑み。
「本当に怖いこと、つまり恐怖や、絶望だね、そういうものに打ち勝つことができるのは、絶対に乗り越えてみせるという、強い意志だけなんだ」
次の瞬間――地底からマグマが噴き出すように、俺の腹の底から、何か大きなうねりがせり上がってきた。それは信じられないほどの叫び声となって、ケンジらに向かうディアーボの動きを、止めた。
手に、足に、全身に力がみなぎる。俺はもう一度声を張り上げ、ヤツを挑発して、ケンジたちとは逆の方向から店の裏手に向かって走った。駆け出すとき、ディアーボがこちらに向かってくるのが見えた。
「サクヤ!」
背中にケンジの声が届く。俺は首だけ振り返り、追ってくるディアーボのさらに後方にいる、ケンジと、アイリに向けて叫んだ。
「ケンジ、アイリ! 絶対に、助ける!」
そして俺は、建物の裏で口を開けて待つ樹海の中に、全速力で飛び込んでいった。
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