第3話「2016年9月―日本・山梨県南都留郡」
2016年9月の、第3金曜日。
「もしもし、サクヤ?」
その電話があったとき、俺は居間のテレビでニュースを見てた。
内容はもちろん、ディアーボのこと。連日、飽きるほど放送してるのに、メディアはまだ落ちつく気配を見せない。
「密林の大虐殺」と呼ばれるようになった、先月なかばの事件。
3541名という、とてつもない死傷者の数ばかり繰り返し報道されてる。でもそんな数字を聞いても、具体的な惨状を思い描くことのできる日本人は、きっと限りなくゼロに近い。
想像力がないわけじゃない。イメージできる範囲を超えてるだけ。日本は、俺たちは、平和すぎる。「度が過ぎた平和は、かえって不健全なんだ。自然ってのは本来残酷なものだからな」長期のハンティングから帰るたび、親父はそういうことを言ってた。
最後に行ったアラスカで、親父は消息を絶った。俺は死んだものと思ってる。
「ああ」
電話は、アイリからだった。声を聞くのはいつ以来だっけ。
「サクヤ、今、大丈夫かな」
「うん」
「よかった、久しぶりだね。あれ、声、変わった?」
世界ではテロ事件も頻発してる。数日前にも、バルセロナとフランクフルトで同時多発テロがあった。犠牲者は合わせて160名超。犯人はいずれも15歳に満たない少女。着込んだ爆弾ベストを、街中で爆発させたらしい。
「命はみんな等しく尊い」、学校ではそういうことを教わる。でも死者150のテロと、3500の事件だと、どうしても前者はスケールが小さく見えてしまう。それはきっと俺だけじゃない。
結局、他人事。そういうことだ。
「声? そんなことないよ、変かな」
俺が聞くと、うーん、とアイリは続けた。
「低く感じるの。電話だからかもね。それともあれかな、声変わりかな」
あるテレビ番組のコメンテーターは、ディアーボについて、こういうことを言っていた。
『ディアーボが1体か複数かはわかりませんけどね、そうは言っても、マナウスですか、あれと合わせても死傷者は4000ちょっとなわけですよ、いや、もちろん数の多い少ないじゃないですけど、でもね、私が思うのはですね、たとえば94年のルワンダ・ジェノサイドでは80万とも90万とも言われるツチ族が、同胞のフツ族に殺されてるわけです、また、ちょっと古いですけど、カンボジアで70年代にポル・ポトの大粛正によって殺された国民は140万人にのぼると言われています、諸説ありますけどね、それに、さらにさかのぼりますがあのヒトラー時代のナチスドイツでは、500万を超えるユダヤ人が犠牲になったとも……』
つまりどういうことですか? 男性司会者に問われて、コメンテーターは答えた。『人間のほうが、ディアーボなんていう怪物よりよっぽど恐ろしいんじゃないか、ということです』司会者は言葉に窮したみたいだった。出演者数名が、しきりに頷いてた。
「声変わり? どうだろ、いや、してないと思うけど」
実際はしていた。なんでそんなふうに否定するのか、自分で言いながら不思議に思った。アイリに、変わっていく俺を見せたくなかったのかもしれない。
俺は話題を移した。
「まあいいけどさ。それで、明日は河口湖でいいんだな」
「うん、河口湖『駅』だからね。間違えて河口湖に行かないでよ」
「行かないよ。あ、でも、ケンジがいるからわかんないな」
アイリが笑う。
「ケンジより、サクヤのほうがそのへん抜けてると思うけど」
「そうか?」
「そうよ」
「そんなこと初めて言われた」
「みんなわかってないのね」
俺は少し黙った。私はあなたのことをちゃんとわかってる、アイリにそう言われた気がしたから。
早く電話を切りたくなった。照れてることを悟られるのはいやだ。
「じゃ、とにかく河口湖駅で」
「待って、時間わかってる?」
「11時だろ」
「いいわ」
「ちょっと早いけどな」
「2年ぶりだもん、それくらいがんばってよ。あんまり遅くまでは無理なんだし」
「具合はどうなの、おばあさんの」
「よくないわ。でも大丈夫、明日は夜までは、シゲさんが看てくれるって」
「オヤジさんは」
「お父さんは毎日連絡はくれてる。でも帰国は難しそう、また調査に入るみたい」
アイリのオヤジさんは地質学だかの専門家だ。「いい年して土いじり」、ケンジが一度そうからかってアイリを怒らせたことがある。
アイリはオヤジさんを尊敬してる。両親が離婚したときも、山梨にあるオヤジさんの実家についていくことを選んだ。それが2年前の話。
「じゃあ明日ね」
「なあ、アイリ」
「何?」
「シゲさんて、誰」
アイリの笑い声。
「お隣さんよ。コヤマシゲオさん。おととい誕生日だったんだって、79歳の」
俺も笑った。
「そっか」
「うん、じゃあ明日」
「ああ」
「ケンジ」
「どうした?」
「遅刻しちゃだめだからね」
「しないよ」
じゃあね、と最後にアイリが言い、電話が切れた。
翌日――9月の3連休初日。
ケンジと俺は、駅舎の向こうに富士山が恐ろしいほど高くそびえる、河口湖駅に着いた。アイリが、改札を出たところで待ってた。
「遅刻だよ」
アイリが唇を尖らす。時刻は11時34分。全面的にこっちが悪い。でも「河口湖」と間違えたわけじゃない。
「こいつが寝坊したんだよ」ケンジが俺を指す。「俺もだいぶ待たされた」
「もう、やっぱり」俺をにらむアイリ。口もとは笑ってる。
「ごめん」俺は素直に謝った。昨夜は、楽しみで寝られなかった。もちろんそれは黙っておくけど。
アイリが、手を差し出してきた。
「何?」
「ケータイ」手のひらを上下に動かして催促する。「貸して」
「何で?」
「いいから」
俺はケータイを渡した。
まだガラケー使ってるんだもんね、サクヤらしいね、アイリはそう言いながら何度かボタンを押し、ケータイの通話口に口を近づけて、いきなり「ねぼすけ、起きろ」と怒鳴った。
近くにいた中国人観光客が一斉に振り向く。
アイリはそんなことまったく気にせず、俺にケータイを返しながら、言った。
「これ、アラーム設定しといてね。じゃあ行くよ、バス停はあっち」
アイリの後に続く。横でケンジが笑いをこらえてる。俺は苦笑いしながら、アラームの設定音をアイリの声に変更した。
でも、ケンジのほうこそ必要じゃないか? 普段、待ち合わせに遅刻するのは、圧倒的に奴なんだから。
バスに揺られながら、雨をはじく窓から外を眺める。ビルの森みたいな江東区とはまったく違う景色。
通る車は少ない。道を歩く人もほとんど見えない。
そういえば河口湖駅も、雨のせいか人はまばらだった。いくつかの大型バス、自家用車、タクシーがいるだけで、思ったより閑散としてた。
「あれ」前の席のアイリが、窓の外を指した。「精進湖」
この20分の間に通り過ぎた河口湖や西湖と比べると、格段に小さい。
「なんだ、ずいぶんちっこいな」
ケンジも同じことを思ったらしい。
「いいじゃない、そのぶん静かだし、手つかずの自然が残ってるのよ」
やがてバスが止まり、俺たちは下車した。下りたのは3人だけだった。
アイリの家は、精進湖の近くにある民宿村。いつかテレビで「青木ヶ原樹海の真ん中にある集落」なんて都市伝説扱いされたことがある。
そのせいで、時折どこかの物好きが訪ねてくる、アイリのおばあさんはそうグチをこぼしてたらしい。
そのおばあさんは10日前に倒れ、面倒を見るために、アイリが急きょ帰国したというわけだ。
アイリは山梨に引っ越して少し経ったころ、土いじりをやってるオヤジさんに同行してアイスランドに発った。今は現地の学校で専門的なことを学びながら、オヤジさんの仕事を手伝ってる。
何も考えずに地元の高校に進んだ、俺やケンジとは大違い。
「すごい自然でしょ」
バス停から湖畔に向かいながらアイリが言う。俺とケンジは辺りを見回した。
周囲は確かに大自然。天候と時間帯もあるんだろうけど、人の姿はほとんどない。
自然の中にお邪魔してるような感じだ。
俺たちは傘の下で、湖畔からの景色をしばらく眺めた。富士山は背後にあって見えない。
精進湖と富士山を同じ視界に捉えるには、今いる南端から、ぐるりと湖を北上しなければならないらしい。
雨の中そんなことはしたくない、ケンジが言い、アイリもあっさり了承した。俺はケンジに感謝した。
雨は景色を退屈にする。傘を片手に散策なんて面倒なだけだ。
「ここは一応寄っただけ。目玉は向こう」
アイリは背後の樹海を振り返った。「おばあちゃんに教わったの。場所はシゲさんから。本当の地元の人しか知らない、すごいとこなんだから」
東京で生まれたアイリも、この土地にはさほど馴染みがない。オヤジさんは国内外問わずフィールドワークというやつのために不在がちで、アイリのお母さんはおばあさんと折り合いが悪く、アイリも来る機会がなかったらしい。
「ここよ」
精進湖を後にして樹海に入り、遊歩道から外れてかなりの時間歩いたところで、アイリが言った。
背の高い樹木ばかりの風景の中に、ぽっかり、そこだけ景色が黒く塗りつぶされたような洞穴が空いてる。
口を開けた怪物みたいな、穴。
「『人無穴』って言うんだって」
「へえ、すごいな」俺はしゃがみ込んで入り口を覗いた。
穴の内部はところどころ岩壁がせり出し天然の足場を造っていて、注意すれば下りられそうだ。
下には地面が見えるけど、奥に横穴が延びてるみたいで、どこまで続いてるのかまったくわからない。
少し怖くなった。
「人無穴か。人なんか近寄らないってことかな」ケンジも穴を覗き込んでる。
「下は、横穴がかなりの長さ続いてて、その先に縦穴があるんだって。その縦穴、どれだけ深いか誰も知らないみたい」
「なんかやばい感じだな」またケンジが言った。「地獄につながってたりして」
アイリはそれには答えず、続ける。
「こういう穴がね、実は、樹海にはいくつかあるんだって。帰国してから聞いたの。だから私もまだ入ったことなくて。さすがに1人じゃ怖いでしょ? 2人と一緒なら、平気かなって思ったんだけど」
俺も興味が湧いていた。怖いもの見たさ。それにこの中なら、傘は必要ない。
でも、結局入らなかった。ケンジが「腹が減った」と言い出して、ひとまず昼ご飯を食べて戻ってくることになったからだ。
遠くで、鳥が、けたたましく鳴いてる。富士山の方角だろうか。
樹海の深部から響いてくるような声。
1羽や2羽じゃない。どれほど多くの鳥が鳴き声を発してるんだろう。樹海には、どれほどたくさんの生き物がひしめいてるのだろうか。
俺たちの知らない生き物が存在してても、おかしくない。
その中に、ディアーボも、いるのだろうか?
洞穴から離れて樹海を引き返し、俺たちはいったん精進湖が見えるあたりまで戻った。
建物のすぐ裏手が樹海に面してる、かなり広い駐車場のある郷土料理屋。そこで食べることにした。
ケンジとアイリはほうとうを、俺は鹿肉入りのカレーを食べた。鹿の肉は驚くほど柔らかかった。
親父の言葉をまた思い出す。新鮮な鹿の肉は信じられないくらい柔らかいんだぞ、硬いとしたら、それは処理工程に問題がある、天然の恵みを人間が台なしにしてるんだ……親父はまだ中学生にもならない俺に、そういうことをまじめな顔で語る人だった。
食事を済ませて店を出たところで、店と精進湖の間を通る道路から、大型バスが駐車場に入ってきた。バスの窓から老人たちがこちらを見下ろしてる。ツアーの団体客らしい。
俺たちは樹海に戻るため、建物の裏に回ろうとした。森から聞こえる鳥の鳴き声は、さっきより激しさを増してる気がする。悲鳴みたいな鳥の叫び。
「あれ」
少し歩いたところで、俺は立ち止まった。ケータイがない。たぶん店の中だ。2人を待たせて、取りに戻ることにした。
店の入り口まで引き返すと、バスから下りてこちらに向かう乗客たちの、色とりどりの傘が目に入った。
駐車場の中を店まで歩くだけなのに、どうして傘を差すのだろう? みんな老人で歩くのが遅いからあの距離でも濡れてしまうのかな、と思いながら俺は店のドアを開けた。
「落ちてましたよ、座布団と座布団のすき間に」
そう笑って、年季の入ったエプロン姿のおばちゃんがケータイを持ってきてくれる。
礼を言ってそれを受け取り、店を出ようと、ドア越しに外へ目をやったとき――異変に気づいた。
俺は店を飛び出した。
そして、見た。
地面に散乱した、大量の傘。傘と同じ数だけ倒れてる、人、人、人。
さっきよりも強まった雨足が、あちこちにできた赤い水たまりの表面を打ってる。
水たまりじゃない。
人間の血だ。
その中に、そいつは、立っていた。
見たこともない何か。クマでも、ワニでも、ティラノサウルスでもない。
直感が告げてる。
俺の中の、あらゆる細胞が、危険信号を発してる。
――ディアーボが、目の前に、いる。
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