第2話「2016年8月―ブラジル・ベネズエラ密林」
「サクヤ、昨日の見たか?」
2016年8月――いつもの公園。午後1時すぎ。
遅刻してきたケンジが、開口一番そう聞いた。俺たちは16歳だった。
「ニュースだろ」俺は答えた。「見てない奴なんかいないと思うよ」
そう、どこもその話で持ちきりのはず。「どこも」っていうのは、「世界全体」ってこと。
何しろ2ヶ月ぶりだ。
「やばいよな」
「ああ、やばい」
昨日のニュースには、ふた月ぶりに興奮した。興奮って言ったら、不謹慎かもしれないけど。
まるで超大型の台風が来る、その前夜みたいな気分だった。
6月にブラジルのマナウスで起きた事件――死傷者527名の大惨事を引き起こした凶悪犯は、驚くべきことに1人……いや「1体」と結論づけられた。
この事実は世界中に衝撃を与えた。俺はあの日から今まで、日本の、東京の、ここ江東区からたぶん一歩も出てない。「ディアーボ」にびびってるとか、そんなんじゃない。どこにでもいる平凡な高校生には、遠出なんて不要ってだけだ。
地元から出なくても、テレビやネットの騒ぎを見れば、世界の誰もがこの事件に、というか犯人に、強い関心を抱いてるのがわかる。事件と犯人に興味がないのは、自分のこと以外考える余裕がない人たちだけだ。そういう人は、世界中で大勢いそうだけど。
「今度はベネズエラのほうだってな。俺、その国がどこにあるか、初めて知ったよ」
「ブラジルの場所だって、どうせケンジ、こないだの事件で知ったんだろ」
「まあな」
ケンジの目は充血してる。いつだって10時間は寝る奴なのに。
昨夜からずっと起きてたのだろう。ネットを眺めてたに違いない。俺も似たようなものだ。
「どれが正しいと思う?」ケンジが言った。
俺たちは、入り口近くのベンチに座ってる。地元江東区の、狭くて小さい公園。以前はアイリとよく遊びに来た。今はケンジとばっかりだ。アイリが山梨に引っ越して、2年近く経つ。ウチの隣、アイリが住んでいた家には、今はインド人の大家族が暮らしてる。
6つのベンチ、ブランコ、砂場、すべり台……。向こうのブランコに、ちびっこが3人。あの子らも夏休みらしい。ブランコは2台しかない。太った男の子はずっと待たされてる。楽しむ2人は替わってやる気配がない。子供は残酷だ。
俺や、ケンジだって、大して変わらない。
「正しい? 何が」
俺は聞き返した。
「犠牲者の数」
ケンジはあからさまにわくわくしている。
「笑顔で言うことかよ、不謹慎な奴だなあ」
ケンジは正直だ。こいつは、自分の心に嘘がつけない。聞きたいことを聞き、言いたいことを言って、やりたいことをやる。いたってシンプル。俺はそれが、うらやましく思えることがある。
入学早々、髪色を注意した担任を殴って、ケンジは停学を食らった。中学のときから数えて3回。いや、中学だけで3回、だったかも。
「また情報がバラバラだもんな、ネットもテレビも。2500人にのぼるだろう、なんて書いてるサイトもあったし。さすがにそれはオーバーだと思うけどさ」
ケンジはそう言って、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
――ベネズエラとブラジル国境近くのジャングルに、「ディアーボ」再び?
そういう見出しのニュースが、テレビとネット上を駆けめぐったのは、昨日の夜10時をすぎた頃だった。
もちろん今朝の新聞にも、でかでかと載っていた。
報道は今回も混乱してるようだ。ネットでのあおり気味の情報提供も相次いでいるみたいで、犠牲者の人数について、正確なところはたぶん誰もわかってない。
はっきりしてるのは、南米のジャングルを、血に飢えた何かが駆けずり回ったってことだけ。よくある「東京ドーム○○個分」だかの、つまりとてつもなく広大な範囲を、何者かが、人間を求めて走り回ったってこと。
いや、まだ走ってる最中かもしれない。マナウス同様、犯人は捕まってないからだ。見つかってもいないらしい。
「NHKも、運がいいんだか悪いんだか」
言いながら、ケンジはタバコに火をつけた。俺に目で促す。俺はタバコを断った。アイリと約束しちゃってる。
今回のジャングルの事件が「いつ」始まったのか、正確にはわからない。初めて報道されたのが昨日だったってだけだ。
昨日偶然、NHK特派員が、惨劇の舞台となった密林地域から比較的近い街に滞在していて異常を嗅ぎつけたらしい。軍のトラックが何台も、のどかなその街をジャングルのほうへ走っていったそうだ。
ガリンペイロとかいう金鉱掘りたちの取材を予定してたその中年特派員は、異様な興奮を見せながら、公道から続くジャングルの入り口を封鎖する軍の連中をバックに、事件をレポートした。
それによると、入り口から最寄りの集落では、200人ほどの先住民族が自然共生的な暮らしを送っていたという。だが村の生き残りは、わずか5名だった。
5人はいずれも少年で、その朝は、隣の集落との中間にある泉まで水汲みに行っていて難を逃れたのだとか。
彼らの家族は、全員が犠牲になった。少年の1人が言うには、真ん中から縦に両断された大人の遺体が、集落のそこいらに転がっていたらしい。
さすがにそれらの映像や画像は、どこのサイトを探しても見つけられなかった、ケンジはそう言った。
俺もだった。寝ないでいくつかサイトを覗いたが、見つけることはできなかった。一体、それらを見てどうしたいのか、自分でもわからない。でも、そんなものじゃないか? 世の中は、説明のつかない行動であふれかえってるだろ。
実際、ディアーボの行為なんて、誰も理由を説明できない。
「しかし、やっぱあれかね、ブラジルの、マナウスの――」
「ディアーボ」
俺がそう遮ると、ケンジは頷いて、言った。
「な。またあいつかな」
他には考えられなかった。ヘンリー・ルーカスもチカチーロも、たぶんハンニバル・レクター博士も、マナウスや今回のような真似はできない。『ジャングルのこの一帯には襲撃を受けた集落と同規模の村が多数存在しており、さらなる被害が予想されます』フィッシングベストを着たNHK特派員は、現地レポートをそう締めくくった。
「間違いないよ」俺も頷く。「ディアーボだ」
次のタバコに火をつけるケンジ。足もとでくすぶる、前の1本をつま先で蹴る。火の粉が散る。俺はその赤く舞う粉をじっと見た。
「1人かな」ケンジが言った。
「え」
「いや、また1人なのかな。あ、『1体』って言うのか、ディアーボの場合」
「どうだろうな。たぶんそうじゃないか」
「前のヤツかね。違うヤツかな」
ケンジがそう言うのを聞きながら、俺はふと思った。
マナウスのときの化物――あんなヤツが、他にもいる?
アマゾンのジャングルの中で、悪魔たちが暴れてるのか?
10日ほどして、ジャングルの事件の全容が明らかになった。
被害が確認された集落は18。死傷者は、3541名だった。途方もない数。でも今回の数字は、俺ともケンジとも関係なさそう。当たり前だ。前回のは偶然なんだから。
正直、ピンと来ない。恐怖もなかった。
当然と言えば当然だけど、俺は今まで人間の死体を見たことがない。ネット画像でならある。それに映画やテレビでも。ブラウザゲームでは、敵キャラを何人も殺してる。でもリアルでは一度もない。それにネット画像だって、本物かどうか疑わしい。つまり俺はやっぱり1度も、1つの遺体さえ見たことがなさそうだ。
だから3500なんて、想像もできない。イメージできないことに対して、具体的な感情を抱くことは難しい。恐怖や怒りは湧いてこない。
さらに2週間が過ぎ、9月になって新学期が始まった頃――ネット上に妙な噂が流れるようになった。
1回目の事件の生存者、つまりマナウスでディアーボに襲われながら生き延びた人たちが、完全に回復したのだという。そのほとんどが命に関わる重傷を負ったにもかかわらず。
あの、CNNのインタビューに泣きながら答えていた、頬と肩口と後頭部をえぐられた青年も完治したのだろうか。
あんな大ケガも、2ヶ月あれば治るものなのか? 俺にはわからない。
でも、早すぎる気もした。
規制でもかかってるのか、生存者のその後を追った報道番組は一つもなかったけど。
俺はこのときまだ、それでもディアーボの事件は、遠い国の話だと思ってた。
だってそうだろ、ブラジルもベネズエラも、地球の反対側だ。
マナウスなんて街の名も、ベネズエラ国境のジャングルも、ケンジや俺はもちろんだけど、担任も教頭も、それに校長だって、ついこの間まで知らなかったに違いない。
どこか遠い世界の話……そう思ってたのは、俺だけじゃないはずだ。
でも、俺は甘かった。俺たちは、バカだった。
地球は丸い。
世界は狭い。
ブラジルに、ベネズエラに現れて……日本には来ないと、どうして言える?
そして「そいつ」は、やってきた。
あの日、日本で初めて確認されることになるディアーボは――よりによって俺たちの目の前に、姿を現したんだ。
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