【7月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版5

角川ルビー文庫

Sincerely…

『どうして?』

 僅かな風の音にでさえ掻き消されそうな、ちいさな問い。

 けれどきみはそう訊きながら、尋ねたことを悔いるかのように、深い悲しみを湛えた瞳をゆっくりと閉じていった。

 雪の深い、北端の地。

 静かに、ただ淡々と降り積もる厚い雪へ、きみは何を忍ばせているのだろうか──。


 トンネルを抜けると、そこは雪国だった。

「──って、トンネルに入る前から雪国続きだもんな」

 組んだ足の膝頭へ退屈そうに頬杖を突いて、ギイが横目でぼくを眺めた。

「しようがないだろ、列車は東北を抜けて北海道に向かっているんだから」

 ギイの隣で、ぼくが応える。

「しかもこのトンネルがひたすら長いときた。抜けるのに、いったい何時間かける気だ?」

「青森と函館を結ぶ海底トンネルだからね、短くはないよね」

「抜けたところで今は夜だ。外は真っ暗で景色に変化はないんだぞ。──託生、オレ、つまんない」

 列車に乗ってるの、飽きちゃったよ。

 ギイの視線が訴える。

「そうだね、ごめんねギイ」

 くじ運の悪いぼくに、つきあわせたりして。

 短かった冬休みが終わり、三学期が始まってすぐに、二年生最大のイベントが控えていた。いや、ここまで大掛かりだと、修学旅行のない祠堂に於いては、学校生活最大のイベントといっても過言ではないだろう。

 一月下旬に行われる、二年生のみの恒例行事、四泊五日のスキー合宿。俗に言う“金持ちのお坊ちゃま学校”を反映してなのか、毎年決まって北海道に行くのだが(海外でないところがぎりぎり謙虚でいいかもしれない)北海道の数ある素晴らしいスキー場から今回合宿地に選ばれたのが、数年前にオープンしたばかりの“キラキラリゾート”であった。

 最高級のパウダースノーの雪質と、九基のリフトに二十ものコース、更に超初心者用のファミリーゲレンデに近年流行のスノーボードのコース、スノーモビル専用のコースや屋内プール、アーケードのショッピング街やゲームセンターまで抱えた、一大リゾートエリアである。

 そこに昨年オープンしたバリバリピカピカのホテルの部屋を、スキーシーズン真っ只中のこの時期に、半分以上も占拠して執り行われるのだから豪気である。合宿というよりは“授業を休んでみんなでスキーヴァカンス”と称した方が遥かに相応しいかもしれない。最終日には実技のテストがある。それだけが、かろうじて授業の一環っぽい、のかな?

 スキー初心者のぼくはさておき、二年生ほぼ全員が楽しみにしているスキー合宿。問題は、移動の交通機関である。百八十余名の生徒と十名近い先生方が、スキーシーズン真っ盛りの真っ只中で一同一挙に移動できるはずもなく、コースを三つに分けることで対応した。朝一番の飛行機で早々にスキー場に到着するAコース、昼頃の飛行機で夕方のんびりスキー場に到着するBコース、そして、飛行機の座席数には限りがあるためやむを得ず、前日の夕方から寝台列車に揺られて翌日の午後スキー場に到着する、優雅な列車の旅まで楽しめるCコース、の三つなのだが、

「列車に当たる確率は二割弱。片道だけならともかく、どうして託生は、行きも帰りも列車を当てちまったんだろうなあ」

 ぼやくギイは、行きはAコース、帰りはBコースの、スキーを存分に楽しみたい向きにはぴったりなコースを引き当てていたのである。

 四人用のコンパートメント、どうにも眠りが浅く、夜明けを待たずに早々に起き出してしまったギイは時間を持て余し、眠っていたぼくを叩き起こして、他の二人の同室者の眠りを妨げないようこっそりと(だが強制的に)つきあわせているのであった。

 下段のギイのベッド、ふたり並んで縁に腰掛けて、

「だから、ごめんってば」

 そっと、謝る。

 トンネルをひた走る寝台列車。

「でもまさか、ギイがぼくに合わせて、行きも帰りも列車組とトレードするなんて、思ってもみなかったんだ」

「そりゃ、お前」

 ギイはぼくに振り返ると、「半日近くもこんな密室状態に、託生をひとりでおいときたくないだろ」

 当然、然、として言った。

「なんで?」

「この機に乗じて、誰かがお前にちょっかい出すかもしれないじゃんか」

 ぼくは、ギイに悪いと知りつつも、つい、笑ってしまった。

「あるわけないじゃないか、そんなこと」

 ぼくは高林くんじゃないんだよ。

「そんなの、わかんないだろ」

 ギイはむっすりと、腕を組む。

「そうゆうの、惚れた欲目って言うんだよ。知ってた、ギイ?」

「知ってるよ。ウルサイぞ、託生」

「キスしようか、ギイ」

「ん?」

「そしたら、少しは安心できるかもよ」

「ばーか。心配なんかしてねーよ」

「言ってることが矛盾してないかい?」

「ウルサイ」

「あ……」

 簡単に塞がれてしまう口唇。

「これでも苦労して自粛してるんだ、託生、あんまりオレを煽るなよ」

 キスの後、ギイがちいさく苦笑した。


 一台の観光バスが、派手に路面の雪を舞い上げながら、雪山の曲がりくねった道を、ホテルを目指し、上へ上へと走っていた。

「あれ、またパトカーだ」

 誰かが声を上げる。

 スリップなど念頭にないと言わんばかりの勢いで、対向車線をパトカーが下って行く。そのスピードの速さたるや、潔いというか無謀というか、それとも、さすが地元の警察と感嘆すべきなのだろうか、というほどで。

「山道に入ってから、これで四台目だよな」

「交通安全特別週間なんじゃないのー?」

「こんなに車の数が少ない所でか?」

 そうなのだ、すれ違った四台のパトカー以外には、乗用車数台としか、お目にかかっていないのである。

「そうか、警察署がこの上にあるんだ」

 こっそりと、窓の外へとボケてみたぼくに、

「それは違うと思うぞ、託生」

 隣のシートに座るギイが、間髪容れずにツッコミを入れた。

 絶妙のタイミングである。

「あれ、聞こえてた?」

「ギイくんの耳は地獄耳」

「事故でもあったのかな」

「オレは警察署に三千点だな」

「なにそれ、ギイ? ぼくの警察署説を即座に却下したのはギイだろう?」

「ありきたりな解答じゃつまらないだろ」

「そうかなあ」

 笑ってしまう。何でもジョークに変換しないと気が済まないんだから、この日仏クォーターのアメリカ人は。

「警察署はさておき、サイレン鳴らしてるわけじゃないんだから、たいしたことじゃあないんだろ」

「そうだね。あ、赤池くんたち、もうホテルに着いてるかな」

「あいつらAコースだからな。オレたちがいなくて、きっと退屈しまくりだぜ」

「もう滑ってたりして」

「オレを差し置いてか?」

 ギイはちょっとムッとして、「よし、滑ってないに、五百円」

「五百円!? 高すぎないかい?」

「変えて欲しいか?」

「うん」

「じゃあ、滑ってないに今朝の続き」

「今朝の続き? ──って、あ……」

 ぼくはドッと赤面して、「そういうの賭けるの、よくないよ!」

「──キスの件といい今といい、お前ってホント、男心の妙がわからんヤツだよなあ」

 ギイは溜め息を吐くと、「ヤボのカタマリ……」

 ボソッと愚痴る。

 悪かったよ、ヤボのカタマリで。

「いいよ、今朝の続きで」

 受けて立ってやろうじゃん。


「おー、来た来た」

 輝くばかりに美しい、真新しいホテルの正面入り口。

 大きな二重のガラスの自動ドアが開くと、八階まで吹き抜けの豪華なアトリウムロビーが出現し、半円形のステージの上で自動演奏のグランドピアノがクラシックを奏でる中、高そうなゆったりとしたソファから軽い身のこなしでひょいと立ち上がった章三が、貸し切りバスからゾロゾロと現れた着膨れ集団を、満面の笑顔で出迎えた。

「託生」

 途端に、ギイがニヤリとぼくを見る。

「はいはい」

 得意そうな顔しちゃって。ギイってば。

「どうだった、寝台列車の旅は?」

 章三の問いに、ギイはすこぶる機嫌良く、

「最高」

 親指を立ててみせた。

「おい、マジかよ」

 章三が目を見開きながら、ぼくを見る。

「最悪」

 ぼくが応えると、

「どっちだ?」

 章三がケラケラ笑った。「まったくお前ら──」

 言いかけて、唐突に黙る。

 ベルボーイがひとり、足早にぼくたちの脇を擦り抜けて行ったのだ。商売用の笑顔をちゃんと作っているものの、彼の目は真剣そのものだった。

「こっちに着いてから、外がやけに騒がしいんだ」

 章三が腕を組む。

「何かあったのか?」

「正面玄関を出て右に行くと、山に面した広い駐車場があるんだが、さっきまでそこに、パトカーが大挙してた」

「山狩りか? さては銀行強盗が、山にでも逃げ込んだかな」

 ギイ、それ、洒落にならない。

「Cコース、集合しろ!」

 フロントの前で、引率の先生が呼ぶ。

 ギイは章三と素早く目を見交わすと、

「託生、あと頼んだぞ」

「え?」

 ぼくにボストンバッグを押しつけて、章三とふたり、正面玄関から飛び出して行った。

 まったく、どうしてああ事件好きなんだろうね、あのふたりは。

「──キーは各室ひとつずつ。出掛ける時は必ずフロントに預けて行くように。それから、以前説明したように、このキラキラリゾートでは全域でいちいち現金を使わなくてもよいシステムになっている。代わりにこのカードを使用する。ただしこれも各室一枚ずつだから、むやみやたらと使って、あとで同室者とケンカになるなよ。食費は五日間でひとり一万五千円まで、学校側で負担することになっている。それ以上にかかった食費、それから、土産や、諸施設の利用等の支払いは、チェックアウトの時に自分たちで精算するんだから、欲望の赴くまま使うんじゃないぞ」

 ぼくは手の中の一〇一五と記された金属製の鍵と、名刺サイズのカードに視線を落とすと、

「予算をオーバーした分は、全部ギイに支払わせてあげよう」

 心中ひそかに決意した。勿論、ボストンバッグを部屋まで運んであげるポーターのチップとして、である。

「最後に。いくら我々が祠堂から大挙しているとはいえ、貸し切りなわけではないからな。このホテルには一般客も宿泊している。くれぐれも、公衆道徳から外れるような行為行動は慎むように」

 Cコースのメンバーだけで一杯な印象を与える、頭上に広がる空間ほどには面積のない、こぶりな地上(ロビー)。ゲレンデから戻ってきた、ちいさな子どもを連れたファミリーが、窮屈そうにぼくたちの間を縫っていく。

 小学校の低学年くらいの、一人前に派手なスキーウェアでバッチリ決めた男の子が、

「おかあさん、明日はリフトに乗りたいな」

 などとねだっている。

 あんなにちっちゃいうちから滑ってたら、ぼくの年にはスキーの達人だろうな。──羨ましいぞ、おチビちゃん。

「それでは解散。明日からみっちりスキーの特訓してやるから、夜更かししないで、今夜はちゃんと寝るんだぞ」

 夜更かししないでちゃんと寝る。

 くーっ、そのセリフ、ギイにこそ、聞かせてやりたい!

「集合はゲレンデに九時だからな。遅れるなよ。──あ、葉山」

 両手にひとつずつボストンを提げて、エレベーターホールへ向かおうとしたぼくに、

「崎はどうした? さっきまで一緒にいたよな」

「えっ……と、急用らしくて、どこかへ……」

「相変わらず忙しない男だな」

 先生は笑うと、「こいつを崎に渡しといてくれ。部屋割りの一覧だ」

「もしかして、点呼、ですか?」

 ウソだろ!?

「大正解」

「でも先生、確か点呼は旅行会社の添乗員さんが──」

「の予定だったんだが、たった三人の添乗員に、百八十人からの点呼を任せるわけにはいかないだろう?」

「はあ、まあ」

「ところがな、なんと、級長は六人もいるんだな、これが」

 付き添いの先生方は、全部で九人もいるじゃないですか。

 言いたいけれど、口には出せない。

 ずるいよなー、大人はまったく。

「崎に2-Dの点呼、任せたからな。遅くとも十時までには済ませて、俺か担任の松本先生まで知らせてくれ」

「毎晩、ですか?」

「当たり前だろ。毎晩やらずして、何のための点呼だ。じゃあな」

 それはそうだがしかし。

 ぼくは知っている。現金不要で実に便利なカードシステムだが、後日の支払いの都合上、ホテルの部屋の同室者は、クラスメイトを中心にまとめられた寮の割り振りとは一切関係なく、金の話ができる相手、つまり、クラスなんかごちゃごちゃだよ、という組み合わせになっていることを。

「下手すると、クラス全員の部屋をあちこち訪ねて確かめないとならないんじゃないか?」

 名簿を見つめて、溜め息を吐く。

 あのギイが、こんな面倒臭そうなこと、ひとりでするはずがない。

「──不吉な予感がする……」


 一〇一五号室は、やけに広い部屋だった。

 モノトーンで統一された、寮の部屋の二倍はあろうかという空間に、センスの良いプリントのベッドカバーに覆われた大きめのシングルベッドが、サイドテーブルを挟んでふたつ並び、窓際にはテーブル付きのロングソファがひとつ、置かれていた。

「このホテルって、どの部屋もこんなに室内が広い、……のか?」

 ライト付きのクローゼット、優しい木目のライティングデスク、小ぶりながらもツードアの冷蔵庫に電気ポット、加えてありがたいことにバスルームとトイレが独立式で、使う前から快適さが保証されたような部屋である。

 キラキラリゾートは全体で、長期滞在型のフルシーズンリゾートを目指しているらしいのだが、ホテルの部屋ひとつ取ってもこんなに広くて居心地良さそうであれば、いやでも長期滞在したくなるというものだ。しかもこの部屋でスタンダードツインなのだそうだから、上位レベルの部屋ともなれば、どれほどのハイスペックなのだろうか。

 興味は湧くが、先ずはこの重たいふたつの荷物をどこへ置こうかと部屋を見回し、ふと、サイドテーブルの電話が赤く点滅しているのに気がついた。

 その場へバッグをどさりと置き、急いでライティングデスクの上、ファイル状のホテルの利用案内をめくる。

「えーと、電話の赤い点滅の意味は、と」

 メッセージランプだった。「――伝言がございますので、電話のコンシェルジュボタンを押して下さい? コンシェルジュって何だろう」

 なにせ、こんなに豪華で(飽くまでぼくの基準だが)、近代的なホテルに泊まるのは、生まれて初めてなのである。

 勝手がわからなくて、ドキドキする。

 受話器を外し、躊躇いがちにボタンを押すと、

「はい、コンシェルジュでございます」

 丁寧な男の人の声がした。

「あ、えっと、一〇一五号室ですが──」

「一〇一五号室ですね。お電話でのメッセージを承っておりますので、しばらくそのままでお待ち下さい」

 数秒開いて、

『もしもし、崎さん?』

 女性の声が流れて来た。

 やばい。これ、ギイ宛だ。

『ご無沙汰しております。柊蝶子です』

 こ、これって録音が再生されてるんだよね? どどどどうやったら止められるんだろうか。

『この度はわたくし共のホテルをご利用いただき、ありがとうございます。のちほどご挨拶に伺わせていただきますので、よろしくお願いしますわね。それでは』

 プツリ。

 ――ああ、終わりまで、聞いてしまった。

「自宅の留守電じゃあるまいし、何度もメッセージが聞けるわけじゃ、ないよね、多分」

 案の定、電話の赤いメッセージランプは消えている。

 誰からの誰宛の伝言か、ちゃんと確認してからメッセージの再生をお願いすれば良かったのだろうが(その手順が踏めるのであれば、だが)、後悔しても後の祭りである。というか、着いて早々のこの粗相。ギイは絶対、呆れるな。

 だが仕方あるまい。

 メッセージランプは消えてしまったが、ぼくは電話の脇のメモ用紙に、ひいらぎちょうこ、伝言あり、あとでギイに挨拶に来る。と、しっかり書いた。

 やっちまったものは、仕方ないよね。仕組みがわからないというのは、なにかと不便なものなのだ。――でも。

「ふう……。ヤボのカタマリの上にドジだなんて、ギイ、ぼくなんかを恋人にしてて、本当にいいのかい?」

 指摘されてもいないのに自主的に嘆いている最中に、ドアにトントンとノックがあった。

「ごめんくださいませ」

 ドア越しに届く、鼻にかかったような女性の声。

「はい?」

 開けると、そこに、南国の華やかな蝶のように艶やかな妙齢のご婦人が、やけにニコニコと愛想良く微笑みながら立っていた。──彼女の後ろに、少女がひとり。 

「こんにちは、あなたは、葉山さん?」

 一歩を踏み出した彼女の、甘い香水の強い匂いが、ぼくを直撃する。

「はい、そうですけれど」

 カラフルなスキーウェアにも引けを取らない、鮮やかな赤いスーツに身を包んだ目鼻立ちのはっきりとした小柄な美人。そんなにしっかり化粧をしなくても、充分綺麗なんじゃないだろうか。余計なお世話ですけれど。

「わたくし、柊蝶子と申します」

 あ。

「チェックインなさったと、フロントから連絡をもらったのだけれど。崎さんは? もう着いてらっしゃいますでしょ?」

「それが、着いてはいるんですが、鉄砲玉で──」

「まあ、ホホホ。でしたら、戻られるまで中で待たせていただいてもよろしいかしら?」

 少女がチラリ、と彼女を見上げる。──冷ややかな、眼差し。

「まだ荷物とか、片付けてないんで、できれば出直して──」

「あら、わたくし共はかまわないんですのよ。どうぞゆっくり、お片付けあそばせ」

 ──弱った。どうしよう……。

 高いヒール。通りすがりにU字ロックを回し、オートロックのドアが完全には閉まらないようドアとの間にかませると、モデルのような歩き方で堂々と室内に入って来た彼女は、

「なんだか殺風景だわね」

 部屋を見回して呟くなり、ベッドに腰掛け、足を組み、赤いマニキュアの指で受話器を外してダイヤルを押すと、「もしもし、蝶子ですけれど。あ、マネージャー? 一〇一五の崎さんのお部屋にアレンジメントのお花と、それから、と、そうね、まだ学生さんですものね、アルコールはまずいから、フルーツの盛り合わせをお願い。すぐによ」

「あ、あの……」

「わたくし共からのささやかな歓迎のしるしですのよ。受け取っていただけますでしょ?」

 電話を終えた彼女はベッドからすっと立ち上がり、ぼくの目を見てにっこりと微笑む。選択の余地を与えない、押しの強い疑問文。

 これでは、宣告されたも同じである。

 どうしよう。断るべきだとわかっているのに、どう言えば引いてもらえるのかが、まったくわからない。

 返事に詰まっていると、

「申し訳ありませんが、蝶子さん」

 いつの間に戻っていたのか、ドアの前にギイがいた。

「まあ、ご無沙汰してます、義一さん」

 ギイの登場で、彼女の表情が更にいっそう華やいだ。

「せっかくですが、ご厚意は受けかねます。今回は学校の授業の一環としてここに来ているんです。プライベートなもてなしは、遠慮していただけませんでしょうか」

「あら、でしたら、祠堂の皆さん全員に──」

「──申し訳ありませんが」

 ギイの声のトーンが、低くなる。

 迫力に押されたように彼女は押し黙り、やがて、

「わかりましたわ」

 受話器を取ると、口早に先程のキャンセルを告げてから、「義一さんはもうお忘れかもしれませんけれど、わたくし、なまじ祠堂と無関係ではありませんのよ」

 ギイに向き直った。

「もてなしは当然の権利だと、おっしゃりたいんですか」

「ま。クスッ、そこまで勝手は申しませんわ。ですけれど、一度くらいお食事をご一緒させていただいてもよろしいでしょう?」

 ギイは眉を上げると、

「わかりました。滞在中に、夕食でも」

「まあステキ。良かったわね、香織さん」

 彼女は艶やかに笑って、部屋の隅で静かに佇んでいた少女へ声をかける。

 少女はあからさまな作り笑いで微笑みを装うと、

「光栄ですわ」

 と、ギイに会釈してみせた。


「何だったんだい、今の」

 圧倒されるようなあの全身ゴージャスな女性は、いったい何者なんだ?

 ボストンバッグを開けて、荷物を整理しながらぼくが言うと、一足先に手早く荷物の整理を済ませたギイが、バスルームから濡らしたタオルを持って来て、

「彼女は柊の義理の母親だよ」

 タオルの端を握って、空中でぐるぐる回し始めた。

「何? 誰?」

 柊?

「柊優志。去年、隣のクラスにいただろ」 

 隣のクラス!? 自分のクラスのメンツでさえろくすっぽ覚えていないぼくに、それを訊くのか、ギイ?

「ごめん、ちょっと、記憶が……」

 だが、ぼくの世間の疎さの酷さなど百も承知のギイは、

「一年の時、冬休みに帰省して、そのまま行方不明になった柊優志だよ」

 ぼくをからかうでなく、あっさり続けた。

「──思い出した」

 去年のちょうど今頃、その話題で持ちきりだった。

 平凡で平和な祠堂の日常。唐突に行方不明になった同級生の話題は、軽い噂話から始まり、日を追う毎に深刻さを増してゆき、やがて、誰もが迂闊に口にできなくなっていた。

「まだ、発見されてないんだった、よね」

 学校側の配慮で、一年生としての出席日数はギリギリ足りていたために(それまでの学業成績が抜群だったこともあって)彼の学籍はそのまま二年生へと進級していた。2年B組、利久のクラスに。

「祠堂の生徒の保護者だから、それで、無関係じゃないって言ってたんだ」

「まあな」

「でもさ、お忘れかもしれませんけれどって、ギイが忘れてるわけないのにね」

 ぼくじゃないんだから。

「あれが彼女一流の物言いなんだよ。気にしなくていい」

「そうなんだ。──柊くんって、どこで行方不明になったんだい?」

「山中で」

「山中?」

 ぼくは窓の外を見る。大きなガラス窓の向こうには、窓の端から端までずっと、いくつもの山々が連なっていた。「どの山中?」

「このキラキラリゾートの西の端、以西、向こう山四つ分が柊の実家の持ち山で、四つの内、一番手前の山の中で。柊の実家の裏山に位置していて、柊にとっては赤ん坊の頃からの遊び場だった場所なんだぜ」

「詳しいね。――ギイは、彼と親しかったんだ」

「つきあってたわけじゃないけどな」

 ヒトがマジメに話してる最中に、この男は!

「睨むなよ、託生。冗談だよ」

「わかってるよ、冗談だってことは。じゃなくて、こんな話の最中に冗談なんか言うなよな」

「はいはい。道内に幾つかうちの系列の会社があるからな。その関係で、柊とは、顔を合わせればあれこれと喋ったよ。主に情報交換だけどな」


『ここから、三つ先の山のふもとまでが、うちの地所なんだ』

 青空をバックにした、夏山の写真。

『親父さんが亡くなったら、この土地全部、柊のものか!? スゲーなあ』

『待って。ギイ、きみの頭には、都会の地価がインプットされてるね』

『二束三文ってことか、それ』

『この土地全部より、銀座のデパート一店舗分の方が、よほど高い買い物のはずだよ』

『そんなに安いのか? ──売ってもたいしたことないなあ』

『それもそうだけど、そもそも、売る気はないんだ』

『全部?』

『特に、手前の山はね。父からも、この山には絶対に手をつけるなと子どもの頃からきつく言われていたし、僕にもさらさら売る気はないよ』

『大事な山なんだな』

『そうなんだ。二束三文でも、僕にとっては命の次に大切な山さ』


 皮肉なことに、その山で柊は消息を絶ったのだ。

「あいつが行方不明になってから、もう一年経つんだな」

「――生きてる見込みって、その……」

「事故か誘拐か蒸発か、生きてるのか死んでるのか、誰にもわからないんだよ、託生」

 出されたままの捜索願い。杳として消息は知れず、月日だけが着実に流れていた。

「そうなんだ……」

 わからないといえば、「それにしてもギイってば、本当に神出鬼没だよね。いつの間に部屋に入ってたんだい。ちっとも気づかなかったよ」

「そうか? 香織ちゃんのすぐ後ろにいたんだけどな」

「かおりちゃん? ――ああ」

 あの、冷ややかな眼差しの少女だ。

「母親似で、しっかりしてるんだ、これが」

「えっ、実の母子なわけ?」

「香織ちゃんは、蝶子夫人の実子だよ」

 なのに、あんな目で母親を見るのか? って、他人のこと言えた義理のぼくではありませんでした、ごめんなさい。

「やれやれ、こんなもんかな」

 散々タオルを振り回して、ギイは一息つく。

「ギイ、それ、タオル、何かの儀式?」

 訝しげにぼくが訊くと、ギイはくんと鼻を鳴らしてみせて、

「匂い、しなくなっただろ」

 ウインクした。

「あ。香水!」

 いやはや、凄かったよね、あれは。

「外は零下だってのに、まさか、窓開けて換気するわけにいかないじゃんか。ここに筋金入りの寒がりがいるんだからな」

「──ありがとう、ギイ」

 いつものことながら、大切にされてるよな、ぼくは。「濡らしたタオルで匂いが消せるなんて、知らなかったよ」

「子供の遊びみたいだけどな、これで室内の風邪の菌も減らせるんだぜ」

「そうなんだ」

 物知りだよね、ギイってば。

 バスルームへタオルを置きに行ったギイは、弾むような足取りで戻って来ると、自分のボストンから彼のコロンを取り出して、いきなりぼくに吹きつけた。

「なっ、何するんだよギイ!」

「託生、あんな香水より、こっちの方がいいだろう?」

 言いながら、ぼくをベッドに押し倒す。

「よっ、良くないよ! こんなにあからさまにギイの匂いをつけてたら、何を言われるかわかったもんじゃない!」

「今朝の続き、しよう」

 耳元で、ギイが囁く。

「ちょっストップ! 待って! ギイやめて! 手、入れないで! タンマ! 離して!」

「なーんちゃって」

「…………」

「びっくりした?」

「──うん」

 すごく。

「ホントに始められちゃうかと思った?」

「うん」

 心臓が、まだバクバク言ってる。

「オレのこと好き?」

「う……、あのねえ、ギイ!」

「ち。ひっかからなかったか、残念だ」

「からかわないでよ、ヤナヤツだなあ」

「託生、オレのこと、好き?」

 ぼくの目を覗き込んで、無邪気に尋ねる確信犯。――コノヤロー。

「好きだよ」

 ヤボのカタマリでその上にドジなぼくだけど、どうしようもないくらい、ギイが好きだよ。──もう、やんなっちゃう。


「託生、夕飯どうする?」

 ギイの腕の中でぼんやりとしていたぼくは、

「――託生?」

 改めて呼ばれて、やっと、話しかけられていることに気がついた。

「あ……、何、ギイ?」

「お前、声、掠れてる」

「えっ?」

 驚いて、咄嗟に首に手のひらを当てたぼくの手首をやんわり握って、

「ウソ」

 ギイが笑う。

「あのね!」

「掠れてるの、オレの方だろ?」

 引き寄せられた手首に、ギイがキスを埋める。

「さっきので、託生の名前、一生分呼んじまったような気分だよ」

 結局、始ってしまった今朝の続き。その間、シカトしたノックと電話の数知れず。

「不謹慎だよね、まだ夕方なのに」

 口づけられた、手首が熱い。

 うっかり、再び息が上がってしまいそうな自分を必死に抑えて、

「さっき、何て訊いたの、ギイ?」

 ギイの手から、手首を戻す。

「夕飯、どうするって訊いたんだ」

「何が良いかな。レストラン、どんなのがあったっけ?」

「レストラン? んーと、寿司、バーベキュー、お好み焼き、日本料理、中華、海鮮、それと洋風のバイキングか」

 利用案内も見ずにギイが答えた。「後はコンビニ。十時までしか開いてないけど」

「コンビニ?」

「そ、コンビニ」

 さすがだ。施設の中にコンビニまであるんだ。

「ギイは、何が食べたい?」

「託生」

「え? ぼくはギイと同じでい──」

「違う」

 ギシリと、ベッドがきしんだ。

「重いよギイ」

 ぼくをすっぽりと覆う、湿ったギイの素肌に目眩がする。「やめよう、もう……」

「オレと同じでいいんだろ、託生?」

 意味合いをスルリと入れ替えて、ギイが囁く。

 呼吸が苦しい。

「愛してるよ、託生」

 ああ。

 確信犯だけじゃなく、どうしてギイは、こんなに知能犯なんだろう。

「その代わり──」

「ん?」

「ギイ、その代わり、今夜は早く寝ようね」

「なんだ、そりゃ」

 ギイはぷっと噴き出して、「ムードのないヤツ」

 苦笑しながら、ぼくに深く口づけた。



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※この続きは是非、7/1発売ルビー文庫『タクミくんシリーズ完全版5』(著/宮ごとうしのぶ)にてご覧ください!

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