【7月刊試し読み】紅王と初恋の子猫

角川ルビー文庫

第1話


     †


 陽珂の大地は六角形をしていると言う。

 天地開闢の折、天帝はその六角の大地に六つの国を築かれた。西に《白》、東に《黒》を置き、北西は《碧》、北東に《蒼》、そして西南が《黄》、東南に《紅》の六国である。

 これら《陽珂六国》と呼ばれる国々には、天帝から遣わされた守護聖獣によって守られし王が立ち、たいそう栄えていたと言う。

 美しい被毛を持つ優美な獣が、大きな翼を広げて陽珂の空を力強く飛翔する。人々は優雅に舞うその姿を見かけるたびに、自分たちの国が栄えていることを喜び合った。

 だが、それも昔の話──。

 長い時を経る間に、守護聖獣はこの世から姿を消してしまい、六国の間ではしだいに争いが起きるようになった。

 そして今、陽珂の大地は三つの大国で占められている。

 最初に滅びたのは《黄》で、《黒》に侵略された《紅》がそれに続いた。《黄》を併呑した《白》は北方へも勢力を伸ばし、《碧》の約半分が帰属した。東の《黒》も北方への侵略を開始して、その勢いに押された《蒼》は、失った国土の代わりを《碧》に求めた。そうして《碧》という国も消滅してしまったのだ。

 長く続いた戦乱で、かつては肥沃だった陽珂の大地は荒れ果てた。勝利したはずの大国といえども戦禍から逃れることはできず、そこへ度重なる悪天候が襲いかかった。今や陽珂の大地に棲む者の多くが疲弊し、困窮していた。

 三つの大国はそれぞれ立派な王が治めているが、王を守護する聖獣が消えて久しい。

 古の昔には、守護聖獣に認められた者だけが玉座に即く資格を持つ。また、守護聖獣が王のそばに留まっている国だけが天帝の恩寵を受けて栄える。

 そのような言い伝えもあったのだが、今ではそれを覚えている者すらほとんど残っていない。

 かつて、この大地には王を守護する聖獣がいた。

 人々がかすかに記憶に留めているのは、その伝説だけだった。


     †



     一


《蒼》は陽珂大陸の北方に位置する国だ。その都は、大陸の中央部を占める高山地帯から、ゆるく蛇行しながら北へと流れる大河沿いにあった。

 陽珂の大地が荒れて久しい。《蒼》もまた例外ではなく、悪天候によって長い間不作が続き、民は皆、貧困に喘いでいた。しかし、さすがに都の近くともなると、影響は少ないようで、河川では荷を満載した船舶が盛んに行き来し、港で荷揚げされた物品は荷馬車に積み替えられて、大量に都へと送られていた。

 整備された街道には、荷馬車だけではなく、多くの人々も行き交っている。

 埃っぽい道をよろよろと、覚束ない足取りで歩いている若者も、都へ向かうひとりだった。

 年齢は十五か十六ぐらいか。ほっそりとした肢体に、春の空を映したような色合いの上衣と、それより僅かに濃いめの下裳をつけ、淡紅色の帯を締めている。飾り物は少ないが、全体に品のいい身なりだ。

 艶やかな黒髪は頭頂部で少しだけまとめ、あとは華奢な背中に流している。顔立ちが驚くほど整っており、中でも印象的なのは、蒼玉のように澄みきった双眸だった。

 若者がまとう雰囲気は、貴族、あるいは王族だと言われても納得できるほどの気品に満ちているが、きれいな面には、焦燥と不安の表情が浮かんでいた。

 疲れた様子の若者、漣花は、細いため息を漏らしながら立ち止まった。

 里の者と別れたのは、港近くの空き地だった。そこからひとりで都に向かったのだが、思いがけない事態に追い込まれていた。

 まださほど距離を歩いたわけでもないのに足が萎えてしまい、まったく力が入らないのだ。都はすぐそこだというのに、辿り着くどころか、あまりの気分の悪さに、このまま道端で倒れてしまいそうだった。

 どうしてこんなことになったのだろう……。

 漣花は助けを求めるように、薄い雲がたなびく空を仰いだ。

 疲れがひどいだけではない。力を失うのと同時に、手足も身体も、少しずつ縮んでいっている気がする。成長期はとっくに終わっているはずなのに、まるで時に逆らうように身体が退化していた。

 里にいる頃から予兆はあったのだ。でも、まさか都を目前にして、これほど劇的な変化があるとは思わなかった。

 どうしよう……花琳に助けを求めようか……。

 漣花は、双子の弟の顔をちらりと思い浮かべたが、そのあとゆるく首を振った。

 そんなみっともない真似はできない。

 だいいち、自分が都に来たのは、花琳を手助けしようと思ってのことだ。逆になってしまっては、どうしようもない。

 漣花は再び足を踏み出した。けれども二歩、三歩と進むたびに息が上がり、血の気が引いていく。悪寒までし始めて、視界も霞んできた。

 しまいには立っているのも困難になり、ぐらりと身体が傾く。

 倒れた方向は最悪だった。失踪する荷馬車が間近に迫っていたのだ。

「…………っ!」

 とっさには避けることもできず、漣花は息をのんだままで硬直した。

「危ないっ!」

「轢かれる!」

 往来で鋭い悲鳴が上がる。

 だが、荷馬車にぶつかる寸前、さっと漣花の身体をすくい上げた者がいた。

 黒ずくめの格好をした長身の男だ。二十代後半といった若さの男は、軽々と漣花を抱いて跳躍する。

 荷馬車は何事もなかったかのように、真横をすり抜けていった。

「いいぞ!」

「すごいぞ!」

 鮮やかな救出劇を目撃した者たちから、喝采の声が上がる。

 が、それも束の間のこと。見世物は終わったとばかり、人々はすぐにその場から立ち去っていく。それぞれ目的があって、ささいな出来事になどかまっている暇がないのだろう。

「おい、大丈夫か?」

 男は漣花を道端に座らせると、片方の膝をついて心配そうに顔を覗き込んでくる。

 漣花は朦朧としたままで、自分を助けてくれた男を見上げた。

 きりりと引き締まった顔立ちで、真っ直ぐな眉と、強い光を放つ銀灰の双眸が印象的だ。

 その、男の双眸と視線が合った瞬間、何故かどきんと心の臓が高鳴った。

「怪我はなかったか?」

 男はそう重ねながら、そっと頬に触れてきた。

 乱れた髪を直されただけなのに、指先が掠めた場所が火を噴いたように熱くなる。

「あ……」

 いったい何事が起きたのかと、漣花はまともに答えることもできなかった。

 助けてもらったのだ。礼を言わねばならない。なのに気持ちが焦るばかりで、いっこうに声が出てこない。どうしていいかわからず呆然と見つめていると、男は訝しげに眉根を寄せた。

「やはり、どこか傷めたのか?」

 再度問われ、漣花は懸命に首を左右に振った。

「……い、いいえ……大丈夫……です……」

 辛うじて口にすると、男はほっとしたように表情をゆるめる。

 精悍に整った顔にきれいな笑みが浮かび、漣花はまた視線を奪われた。ふいに恥ずかしさも覚えて、青白かった頬がほんのりと染まる。

 漣花は男の手を借りながら、立ち上がった。

 並んでみると、男の長身が本当に際立っている。

「都へ行くのか?」

「はい」

「送っていってやりたいところだが、あいにく俺は港へ行かねばならん」

「ご親切にどうも……でも、私なら大丈夫、ですから」

 漣花は内心でがっかりしつつも、そう答えた。

 不思議なことに、気分はずいぶんとよくなっていた。いやな動悸も収まったし、目眩もしない。それに萎えきっていた手足にも力が戻っている。

 この人とは、もう少し話していたい。

 男の顔を見上げているうちに、そんな欲求に駆られた。

 でも、男を引き留める理由がない。

「じゃ、気をつけていけよ」

 男はそう言って、あっさりと未練もなく漣花に背を向ける。そして、急ぎの用でもあるのか、かなりの速度で走り出した。

 あっという間に小さくなる長身の後ろ姿を、漣花はため息をこぼしながら見送った。

 清冽な雰囲気を残す男だった。爽やかな風が吹き抜けたような心地よさを感じた。

 でも、もう二度と会うことはないのだろう。

 そう思うと、胸が疼くように痛くなる。

「急がねば……」

 漣花は誰へともなく呟いて、しっかりした足取りで街道を歩き始めた。


     †


《蒼》の都は喧噪に満ちていた。

 ほんの半年ほど前までは、この都も死んだように静かだったという話だが、今はその名残も感じられない。人々は飢饉の影響など受けていないかのように精力的に動き回っていた。

 それというのも、《蒼》では新しく王が即ったからだ。前王が弟に位を禅譲し、ちょうどその新王の即位儀礼が行われている最中だった。

 儀礼の最終日に、新王は民の前にも貴いお姿を見せてくださるという。

 都の人々はその特別な日を楽しみに、盛り上がっているのだ。

 何しろ、新王となった蒼雷牙は、天帝より遣わされた、あの伝説の守護聖獣を従えているという。人々の関心は、その守護聖獣にも集まっていた。

 守護聖獣を従えた王は、善政を敷くという。荒天続きでどうしようもないところまで追いつめられていた《蒼》は、これで息を吹き返すだろう。

 王と守護聖獣のお目見えが明日に迫り、都の人々の熱気は最高潮に達していた。

 守護聖獣とは、どのような生き物なのか。新王はどのようなお姿なのか……。

 とにかくひと目だけでも、新王と守護聖獣を見てみたい。そう望むのは、何も都に住む民だけではなかった。遠くからも大勢の者が集まってきている。

 大通りでは、それらの客を相手に、物売りや宿の呼び込みが、甲高い声を上げていた。

 漣花はそんな都の様子を物珍しく眺めながら歩いていた。

 生まれて以来、里から離れたことがなかったので、外の世界を見るのは初めてだった。大まかな知識はあるものの、実際に目にすると驚くようなことばかりだ。

 大通りには色々なものを売る店が並んでいた。穀物、野菜、肉、魚、酒、反物、道具類、調度など、ありとあらゆる物が売られている。旅人を泊める宿屋の他に、食事をさせる店もある。

 大勢の人々が忙しげに、それらの店を出入りしているのを見ると、それだけでため息が出そうだった。

 無事に都まで到着したけれど、このあとどうしよう……。

 すぐに花琳に会いにいくか、それとも、もう少し都の様子を見てからのほうがよいか……。

 双子の弟とは、半年前に別れたきりだった。すぐに元気な顔が見たいのは山々だったが、漣花には一抹の不安もある。

 今の自分のこの姿を見せれば、花琳はどんなにか驚くことだろう。

 病でもないのに、ずいぶんと痩せてしまった。背丈も縮んでしまい、それにつれて、顔立ちまでが幼くなっているはずだ。

 花琳が里を出た頃は、まさかこんなことになるとは思わなかった。

 だからこそ花琳に対し、何か困ったことがあれば、いつでも手伝うからと、偉そうな言い方ができたのだ。

 ところが,当てにしていたその《力》は徐々に失われ、今の漣花は、花琳よりもずっと下位の存在となってしまった。

 支えになれるならともかく、逆に迷惑をかける恐れがある。

 そんなでは、会いに行っても仕方ないのではないだろうか。

 幸か不幸か、花琳は、漣花が都にくることを知らない。だから、今夜は宿に泊まって、明日、遠くから、花琳の姿を見るだけにしたほうがいいかもしれない。

 それに、ここまで無事にやって来たけれど、いったんは収まっていた疲労が、またぶり返していた。徐々に身体が動かなくなってきている。

 漣花は、弱くなってしまった自分を心底情けなく思いながら、今宵の宿を探した。

 しかし、明日の即位披露のせいで、どの宿にも空きがない。

「どんな部屋でもいいのです。贅沢は言いません。なんとかなりませんか?」

 漣花は懸命に頼んだが、どの宿でもそっけなく断られてしまう。

「明日だったら空きができるかもしれないけど、無理だね。今日は最高の客入りなんだ。悪いけど、忙しいから帰っとくれ」

 すげなく店から追い出され、漣花は途方に暮れた。

 力が出なくて、今にも倒れてしまいそうだ。とにかく身体を休める場所を探さないと……。

 こうなれば寺院でも探すしかない。軒先を借りられなければ、木の根元でもいい。姿を変えれば、なんとかなるだろうから……。

 宿に泊まるのを諦めた漣花は、人混みを避けるように一本裏の通りへと進み、そこからさらに、寺院を探して歩き回った。

 あたりに夕闇が迫る頃、うっそうとした木立に囲まれた堂宇が見つかる。漣花はよろよろと境内に入っていった。

 驚いたことに、境内には大勢の人が集まっていた。漣花と同じように宿にあぶれた様子の者もいたけれど、大多数は元からこの場所に住みついていると思われる者たちだ。境内のあちこちに雨を凌ぐための覆いが立てられ、その下に、襤褸同然の衣をまとった者が蹲っている。

 おそらくこの堂宇は救貧院を兼ねているのだろう。家を持たない最下層の者には、日に一度でも食べ物を支給されるなら、ありがたいはずだ。

 漣花は、顔色が悪く痩せ細った人々を憐れに思いながら、自分もまた人の輪の端に腰を下ろそうとした。

 そのとたん、近くにいた人相の悪い男が、噛みつくように声をかけてくる。

 座り込んでいる者よりはましな格好だが、ひどい蓬髪で陽に焼けた顔も汚れきっている。

「おい、おまえ、ここは俺らの縄張りだ。誰の許しを得てここへ来た?」

 すごんでみせた男に、漣花はぐっと両手を握った。

「ここで少し休ませてもらいたいだけです。あなた方のお邪魔はしません」

 一応丁寧に頼んでみたが、男は馬鹿にしたように笑っただけだ。

「へえ,お坊ちゃまは、こんなところでお休みになりたいんだとさ。ははは……」

 男の声に、まわりにいた仲間たちが迎合する。

 漣花はあっという間に、六、七人の屈強な男たちに取り囲まれてしまった。襤褸を着て力なくしゃがみ込んでいる者たちは、漣花の災難にまったくの無関心といった体だ。

「よお、お坊ちゃまよ、ここで休みたいなら、それなりの代金を払いな」

「代金……」

 漣花はちらりと男たちの様子を窺った。

 いくら世間知らずでも、脅されていることはわかる。男たちは、ここに集まる者から、なけなしのお金を巻き上げるつもりなのだ。

 漣花の胸には、怒りが芽生えた。

 こんな者たちの脅しに屈するわけにはいかない。

 都が賑わっているのは新王即位の祝賀のためだ。それにかこつけて非道な金儲けをしようとは、見下げ果てた者たちだ。

 とても許してはおけない。

 とにかく相手が屈強な男六人だろうと、本気を出せば簡単に倒せる。しかし、こんなところで大きな《力》を使うわけにもいかない。目立つことはしたくないし、まわりの無関係な者を巻き込むのも回避しなければならなかった。

 あまりひどくしないで、男たちを反省させられれば……。

 漣花はむしろ、男たちをなるべく傷つけないようにと、考えていたのだ。

「おいおい、黙りかよ。それとも怖くて震えてんのか? さっさと金を出せば、許してやらんでもないぜ?」

 反応の薄い漣花に呆れたのか、男はいかにも馬鹿にしたように言う。

 漣花は、きっと男を睨んで詰問した。

「そなたたちは、いつもこうやって弱い者を脅していたのか?」

「はあ?」

「悪いことは言わぬ。悔い改めよ」

 恐れ知らずの言葉に、男はぽかんとしたように口を開けた。

 そうしてしばらくの間、まじまじと漣花を見つめたあとで、げらげらと大笑いを始めた。

「あーはっはっは……ああ、おかしい……ははは、笑いが止まらん……悔い改めよ、だとよ。いったい何様のつもりだよ。あははは……」

「ははは……こいつ、頭おかしいんじゃないっすか、お頭」

 首領らしき男だけではなく、まわりの者たち全員が、腹を抱えて笑っている。

 漣花は、何がそんなにおかしいのかと、眉をひそめた。

「あー、まったく、笑わせてくれるぜ。おい、てめぇら、お坊ちゃまは、世の中のことをまったくご存じないようだからな、ちゃんと教えて差し上げようじゃないか。まずは、身ぐるみ剥がして縛り上げるんだ」

「へい、お頭」

「おう、小僧。大人しくしてりゃ、怖い目には遭わせねぇでおいてやるからな」

 男たちは口々に言いながら、いっせいに手を伸ばしてきた。

「何をする? 無礼者!」

 両方の腕をばらばらにつかまれて、漣花は嫌悪のあまり、思わず高い声を上げた。

 このように賤しい者たちに触れられるなど、あってはならないことだった。

 里では誰もが漣花を大切にしてくれた。生まれた時からずっと、唯一無二の存在として敬われてきたのだ。

 その自分に不浄な手で触れるなど、絶対に許してはおけなかった。

「放せ!」

 漣花は鋭く命じながら、身内に《力》が満ちるのを待った。

 だが、いつまで経っても、その気配がない。里ではあれだけ圧倒的だった《力》が、少しも湧いてこなかった。

 ほんの少し指を動かすだけで、無礼者はすべて後方に吹き飛ぶはずだった。それなのに、漣花の手は足掻くように空をつかんだだけだった。

「……あ……」

 漣花はさっと青ざめた。

 今になって、自分がすべての《力》を失ったことを思い知らされる。

 どうして、こんな時に……!

 男たちは乱暴に漣花を小突き回した。帯に手がかかって、ぐるりと身体を回された拍子に、髪に挿してあった簪が、しゃらんと小さな音を立てて地面に落ちた。

 こんな乱暴な扱いを受けたのは、生まれて初めてだ。人間を怖いと思ったのも初めてだった。

「どうしたよ、お坊ちゃん。すっかり大人しくなっちまったな。よくよく見ると、おまえ、すげぇ上玉じゃないか」

 首領らしき男が漣花の顎をつかみ、いやらしく舐めるように見つめてくる。

「は、放せ……っ」

「身ぐるみ剥いだあと、さっそくお楽しみといこうか」

「お頭、俺らにも、回してください」

「ああ、いいぜ。飽きるまで遊んで、そのあと遊郭に売り飛ばしてまたひと儲けだ」

 首領の言葉に、手下たちは、わっと歓声を上げた。

 まわりには大勢の人々が座り込んでいたが、誰ひとりとして、漣花を助けようという者はいない。濁った目で、ぼんやりとこちらを眺めているだけだ。

「や、やめろ……っ」

 理不尽な暴力に屈するのはいやだ。それでも掛け値なしの恐怖にさらされ、身体が小刻みに震えてしまう。

 その時、ふいにひとりの長身の男がやってくるのが目についた。

「おい、おまえら。いい加減にしろ!」

 飛ぶようにそばまで来た男は、素早く首領の腕をねじ上げる。

「何しやがる、てめぇ!」

 首領は怒声を上げた。しかし、男は余裕で首領の手を漣花から引き剥がす。

「見下げ果てた連中だな。子供ひとりに、いい大人が何人も群がって、恥ずかしくないのか?」

 男は氷のように冷ややかな声を出した。

 背中で庇われている漣花ですら、一瞬びくりとなったほど迫力のある言い方だ。

 それでも、ならず者たちは怯まなかった。数を頼みに、ざざっと男を取り囲む。

「おい、ここは俺らの縄張りだ。よけいな口出しされちゃ困るんだよ」

「縄張りだと? ふん、弱い者しか集まってこないような場所で、恐喝を生業にするとは、呆れてものも言えん」

 吐き捨てた男に、悪者たちはさっと顔を赤らめた。

「おい、てめぇら、やっちまえ! この生意気な若造に思い知らせてやれ!」

「おお!」

 怒りを漲らせ、屈強な男たちがいっせいに飛びかかってきた。それぞれ剣や斧といった得物を持っている。

「ああっ!」

 漣花は思わず悲鳴を上げた。

 けれども、次の瞬間、ばたばたと地面に倒れていったのは、ならず者たちのほうだった。

 漣花を庇った男は、大きく動いたわけでもない。腰の長剣すら鞘から抜かず、小手先だけで屈強な男たちをあしらったのだ。まるで妖術でも見せられたかのように、鮮やかな手際だった。

 苦痛に顔を歪めたならず者たちは、地面に手をついて懸命に立ち上がる。しかし圧倒的な力の差に、もはや完全に戦意を喪失していた。

「く、くそっ!」

「お、覚えてやがれ!」

 辛うじて、お決まりの捨て台詞を残し、あとは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 危ないところを助けてくれた男は、やれやれといったように息をつき、ようやく漣花に向き直った。

「あっ」

 息をのんだのは、知った顔だったからだ。

 昼間、街道で漣花を助けてくれた、あの男だった。

「おまえは……」

 男のほうも、驚いたように銀灰の目を見開く。

 偶然の出会い。そして二度も助けられた不思議さに、漣花は声もなかった。

 筒袖の上衣や丈の短い下裳、その下につけた股の割れた褌は、黒一色。そして腰に下げた長剣の鞘と胸当ては黒銀、という格好だ。長めの黒髪を、後ろで無造作に束ねている。

 胸当てをつけているから、商人ではないのだろう。しかし、長剣を腰にしていても、城兵などにも見えない。

 そして男は、精悍に整った顔を、ふわりとほころばせた。

「また、会ったな。おまえ、都の者じゃなかったのか……」

「……っ」

 突然見せられた微笑に、漣花は我知らず頬を染めた。

 街道での時と同じように、心臓が大きく音を立て始める。澄みきった銀灰の双眸に、訳もなく視線をとらわれ、息をするのも苦しくなるほどだった。

 何よりも、危ないところを助けてもらった安堵で、目尻には涙が滲んでくる。

 男は、泣いている子供を宥めるように、漣花の頭を撫でてきた。

「よしよし、怖かったんだな。もう大丈夫だから、泣かなくていいぞ」

「わ、私は……泣いてなど……っ」

 そう言い返してみたものの、止めようもなく涙の粒がこぼれてくる。

 長身の男は、上からじっと漣花を見つめ、長い指で濡れた頬をそっと拭った。

 こうして宥められると、本当に小さな子供になったような気分だ。

 羞恥にとらわれた漣花は、いやいやをするようにかぶりを振った。

「おまえ、ひとり旅だったのか……」

 低い声で訊ねられ、漣花は心臓をどきどきさせながらも、こくりと頷いた。

「俺は狼牙だ」

「狼牙……様」

 漣花は、狼牙という名前をしっかり胸に刻んだ。

「おまえは? なんという名だ?」

「あ、ごめんなさい。私は、蒼……あ、いえ……私は、漣、花……漣花です」

 漣花は慌てて言い直した。

 今の名前は、里を出る直前に変えたものだ。以前は「蒼花」と名乗っていた。だから、どうしてもぎこちない答え方になってしまう。

「漣花か……いい名だ」

「え、本当に? 本当にそう思われますか?」

 思わず問い返すと、狼牙と名乗った男は笑みを深める。

「ああ、漣花という名は響きもいいし、おまえの可憐な雰囲気にも合っていると思うぞ」

 そう言われて、漣花はほっとなった。

「とにかく、都には、ああいう輩が大勢いるから気をつけろ。ここは救護所になっているが、夜は危険だ。ちゃんとした宿に泊まらないと」

「宿は……いっぱいだった、から……」

 漣花は辛うじてそう答えた。

 狼牙と名乗った男は、ああ、そうか、と相づちを打つ。

「守護聖獣とやらを、ひと目見ようという物好きが集まっているのだったな」

 何気なく言われた言葉に、ひときわ大きく心臓が鳴った。

 だが、その時、何を思ったのか、狼牙がすっと腰をかがめる。拾い上げたのは、先ほど落としてしまった簪だった。翡翠の軸に細かな細工を施した銀の飾りがついている。

「これ、おまえのか?」

「あ、……はい」

 漣花が答えると、狼牙はふっと口元をゆるめる。そして、自分の上衣で簪の汚れを拭い、漣花の髪に、その簪を挿してくれた。

 息が重なってしまうほどの距離に、漣花はさらに羞恥を覚えて頬を染めた。

「とにかく、泊まるところがないなら、俺が知り合いに頼んでやろう。懇意にしている宿がある。お世辞にも高級とは言えないが、ここで野宿するよりましだろう」

「……お願い、します」

 親切な申し出に、漣花は頭を下げた。

「それじゃ、行くか。宿はすぐそこだ。ついてこい、漣花」

 狼牙は気軽に漣花の手首をつかみ、さっさと歩き出す。

「あ、待って……」

 漣花は慌てて従った。

 寺院の境内に入ってきた時は、疲れが最高潮に達していた。なのにどうしてだか、狼牙のそばだと、疲れが緩和されていく気がする。

 そして、しっかりと手を握られていることにも、漣花はたとえようのない安心感も覚えていたのだ。

 狼牙が案内してくれたのは、裏通りにあるこじんまりした佇まいの宿だった。古びた建物だが、清掃は行き届いている。

 狼牙は店内に入ってすぐ、気軽に女将を呼び出した。

「まあ、狼牙様。お久しぶりですこと……すっかりお見限りで」

 奥から顔を覗かせた四十絡みの女将は、如才なく挨拶する。

「俺は高級宿に泊まれるような身分じゃないんでね」

「何をおっしゃいます。うちが高級宿だなんて、ご冗談ばかり」

 女将の言葉に、狼牙はにやりと笑う。

 気軽なやり取りを交わしているところをみると、かなりの常連なのかもしれない。

「ところで女将、ひとつ頼みがある。悪いが、この子に部屋を用意いしてやってくれないか?」

「狼牙様のお頼みとあれば、お受けしないわけにはいきませんね。あいにく今日は、客室がいっぱいなんです。なので、私どもが使っている部屋でよければ」

「ああ、それでいい。おまえも、いいな?」

 確認するように問われ、漣花はこくりと頷いた。

 もとより、贅沢など言うつもりはない。

「それじゃ、頼んだぜ、女将。おまえも……道中気をつけて行けよ、漣花。じゃあな」

 狼牙は、そう言ってあっさり背を向ける。

「あっ」

 慌てて振り向いた時、狼牙はすでに店から出ていったあとだった。

 漣花は呆然とその場で立ち尽くした。

 二度も助けてくれたのに、またしても礼が言えなかった。

 自分の気の利かなさがいやになり、漣花はため息をついた。

「いつも慌ただしいこと」

 女将も呆れたように肩をすくめている。

「あの……あの人はどういう方、なのですか?」

 漣花は気を取り直して訊ねた。

 もし、また会える機会があるなら、今度こそきちんと礼を言いたい。

「狼牙様はね……まあ、不思議な人だよ」

「不思議な人?」

「以前、うちの使用人を助けてくださったことがあるので、それ以来のおつき合いなんだけど、ここにお泊まりになることは滅多にないし、どのような方なのか、私にもわからないんだよ」

「それじゃ、どこに住んでいるかも?」

「ああ、さっぱりだ」

 女将の答えに、漣花は心底がっかりした。

「今日、二度も助けてもらったのです。それなのに、私は御礼も言えなくて……」

「まあ、そうがっかりすることもないさ。二度も助けてもらったなら、なんらかの縁があるってことだろ。だから、また会えることもあるさ」

 そう慰められて、漣花は再びため息をついた。

 本当にそうならば、どんなにいい。

 あの男のそばにいると、何故か疲れを忘れていられた。

 徐々に弱っていくばかりで絶望的になっていたけれど、狼牙と出会って、少しは希望が持てるような気になったのだ。

 女将の言葉どおり、自分となんらかの縁があるなら、また会えるだろう。

 漣花はそう信じることにして、ようやく微笑を浮かべたのだ。


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※この続きは是非、7/1発売ルビー文庫『紅王と初恋の子猫』(著/秋山みち花)にてご覧ください!

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